インソムニア 2






「不眠症ってのは結構原因は多いんだよ。身体的なものから精神的なものまで様々。例えば騒音とかは生理学的なものでね。環境の変化というやつだよ。見たところ君はそんなことないだろう?引っ越しとかしたわけでもないだろうし。身体的と言うのも君の体では有り得ない。残る可能性は心理的なものなのかも知れないねえ。悩み事とかある?…へえ、あるんだ。静雄も普通の人間なんだね。…痛い痛い!ごめんなさい!やめて!………死ぬかと思ったよ…。ともかく心理的なものだと僕は専門外なんだ。精神内科とか心療内科とかじゃないと。カウンセリングもどきで話しを聞くことはできるけれどね。若しくは睡眠薬を処方できるけれど君に効くかどうか…。取り敢えずその悩み事を少し話してみなよ。わ、何その顔!僕ら友達じゃなかったの!?医者には守秘義務があるから誰にも言わないよ…」

暫く話を聞いたのち、闇医者は言った。少しだけ困ったように笑って。

「多分それは恋患いって言うやつだよ、静雄」





静雄はうっすらと瞼を開いた。
見知らぬ天井が見える。薄暗く、天井や壁の色までは分からないが多分白い部屋だ。
体を動かしてみた。手も動き、首も動く。静雄は頭を振り、何度か瞬きをすると、ゆっくりと体を起こした。
真っ白なシーツが腹に落ちて、自分が一糸纏わない姿なのを知る。酷く体が怠かった。
腰にある僅かな鈍痛のせいで、何が行われたかは覚えている。ここが誰の家で、誰のベッドなのかも。
今は何時なのだろう。
久々に随分と眠った気がする。アルコールのせいではないんだろう、多分。
広いこの寝室には大きな窓があって、そこにはカーテンもブラインドもなかった。窓から見える空は、闇のように暗い。
静雄はベッドから出ると、畳まれて置いてある自身の衣服に袖を通した。あの男が畳んだのかと思うと反吐が出るが、今はそんなことはどうでもいいだろう。早くここを出なければ。
自身の体を見れば、薄く情事の痕が残っていた。それは殆どが消えかけていたけれど、見ていて気持ちがいいものではない。
嫌悪と後悔と傷心にも似た感情がせめぎ合い、静雄は小さく溜息を吐く。
「起きた?」
ちょうど扉が開いて、臨也が入って来た。仕事でもしていたのだろう、珍しく眼鏡をかけている。こんな臨也の姿を見るのは静雄は多分初めてだ。
「帰るわ」
静雄はサングラスをかけ、素っ気なく言う。内心の動揺を相手に悟られたくなかった。
「喉乾いてない?」
静雄の言葉を聞いているのかいないのか、臨也はそんなことを聞いてきた。静雄はそれに眉を顰める。
そう言えばやけに喉が乾いていた。声が掠れているのが自分でも分かるくらいに。
待ってなよ、と言い、臨也がいなくなる。キッチンにでも行ったのだろう。
静雄は戸惑って、結局その場で待つことにした。
窓に近付いて空を見上げれば、真っ白で大きな月がこちらを見下ろしている。月の下には新宿の夜景。ネオンやライトアップされた街は確かに綺麗だったが、静雄はあまりそれが好きではない。
腕に嵌めた時計を見れば、時刻は夜の8時過ぎらしい。少なくとも10時間以上は寝ていたことになる。こんなに寝たのは本当に久し振りだ。
「はい」
戻って来た臨也が、水が入ったコップを差し出してきた。受け取るとそれは冷たく、恐らく冷やされたのミネラルウォーターなのだろう。
こくん、とそれを一口飲んだ。一度口にすると止まらずに、静雄は結局最後まで一気に飲んでしまう。自分が思っていたよりもずっと喉が乾いていたらしい。
「今何時だと思う?」
空になったコップを受け取りながら、臨也が聞いてきた。
「8時だろ?さっき時計で見た」
「うん。でもさ」
臨也は肩を竦めて笑う。
「次の日の夜8時だよ」
「は?」
臨也の言葉に、ぽかん、と静雄は口を開けた。そんな静雄を、臨也は楽しそうに見遣る。
「シズちゃんは丸一日、つまり24時間以上寝てたんだよ。正直死んだかと思ったね。今、新羅に連絡しようか悩んでいたところだった」
臨也はコップをサイドテーブルの上に置いて、口端を吊り上げた。
静雄はその言葉に暫く呆然としていたが、我に返ると盛大に舌打ちをした。今日は平日で仕事があったのだから、無断欠勤したことになる。明日謝罪しなくてはならないだろう。
「シズちゃんの仕事場にはちゃんと連絡しといたよ。いつ起きるか分からないから暫く休ませて欲しいって言っちゃったけど」
静雄の心を読んだのか、臨也は口端を吊り上げてそう言う。静雄はこれにも驚いて、ただ低い声でありがとうと言うしかなかった。臨也の気配りが少しだけ気持ちが悪かったけれど。
「…取り敢えず帰るわ。じゃあな」
静雄は臨也の横を抜けて部屋から出て行こうとする。一刻も早くこの部屋、この家から出たかった。いつまでもここにいたら、思い出したくないことを思い出してしまう。
しかしその腕を臨也が急に掴んだ。静雄の目が見開かれる。
「シズちゃん」
腕を引かれ、体を引き寄せられた。まるで抱き締められるようなその体勢に、静雄は動揺して体を強張らせる。
「眠れなくなったらまたおいで」
驚く静雄の耳元に、臨也は唇を近付けて囁く。
「抱いてあげるからさ」
この言葉に、静雄は瞬時に頭に血が上るのが分かった。口から罵声が出る前に、拳を振り上げる。部屋に響く凄まじい衝撃音。それは寸前で臨也が避けた為、壁を抉っただけで終わってしまった。
「あーあ、こんなにしちゃって…」
壁に丸くヒビが入ったのを見て臨也は肩を竦める。口角を吊り上げて、静雄を挑発するかのように見た。
「二度と来ねえよ、死ね」
静雄は吐き捨てるようにそう言うと、さっさと寝室を出て行く。バタン、と今にも壊れそうなくらいの勢いで、玄関の扉が閉められた。
「やれやれ」
臨也は穴が空いた壁を見、溜息を吐く。口調とは裏腹に、唇には笑みが浮かんでいる。
二度と来ない、なんて。
許すわけないじゃないか。
臨也は窓際に立ち、新宿の夜景を眺めた。空には真っ白な月が浮かんでいるが星は見えない。当たり前だ、こんな夜でも明るい街では星なんて見えやしない。
こうしていても思い出すのは昨日の静雄の姿態。酔っていたせいもあるだろうが、随分と扇情的な姿だった。あの声もあの潤んだ目も、恐らく初めて見たのは自分だろう。他の誰かに見せるつもりはないので、きっと自分だけが一生知っているわけだ。それのなんて素晴らしいことか。
「なんで俺が抱いたか、君はまだ知らないんだろうね」
…シズちゃん。
臨也は月明かりから目を伏せる。
いつか話してやろう、近いうちに。抱き寄せて口づけて、耳元に囁いてやろう。
愛の言葉を。

「静雄が最近眠れないんだって」、と旧友と話した数日前のことを、臨也は不意に思い出した。




「へえ」
臨也はそう返答した。それしか答えようがないからだ。へえ、そうなの。
「驚かないの?あの静雄がだよ?」
新羅は大袈裟に両手を上げ、天を仰ぐ。随分とオーバーなことだ。
平日の真昼間。ここは新羅のマンションの診察室だ。病院と同じ消毒液の臭いが充満していて、臨也はそれに僅かな嫌悪感を抱く。
「シズちゃんって意外に神経細かい気がするけど」
臨也は敢えて、『繊細』と言う言葉は使わなかった。なんだか気持ちが悪かったから。天敵の静雄を相手に、この自分がそんな言葉を使うなんて。
「まあねえ。確かに悩み事があるみたいだ」
新羅はサラリと言って、白い紙にボールペンで何やら書き込んで行く。それは臨也のカルテだった。
「シズちゃんが悩み事ね…」
そりゃああるだろう。あの化け物みたいな男にも。悩み事がない人間なんて居ないのだから。あんなでも、彼は一応人間なのだ。
「知りたい?」
新羅が眼鏡の奥の目を細め、カチカチとペンを出し入れする。その目は揶揄するようで、臨也には苦手だ。人をからかうのは好きだが、逆は嫌いなのだ。
「医者には守秘義務があるだろう?」
臨也は努めて淡泊にそう言った。新羅の白い白衣が少し眩しい。
「ま、闇医者だけどね」
はは、と声に出して笑い、新羅はカルテに何かを書き込む。何を書いているのやら。ひょっとしたらこれはカウンセリングなのだろうか。
「一応薬は前と同じように出しておくけれれど、」
新羅はそう言って睡眠導入剤と書かれた袋を臨也に手渡した。
「君のそれの一番の治療法は静雄に会うことだと思うな」
新羅から手渡された袋を眺めながら、臨也は自嘲するように笑う。
「会いに行ったらシズちゃんに自販機でも投げられるのがオチだよ。命の危険を侵してまで行かないさ」
「それでも会いたいと思ったことはあるだろう?」
臨也の言葉は無視をして、新羅はカルテに目を落とす。
「何気なく空を見ていただけで、思い出すことはない?」
カチカチとペンを弄ぶ音が響く。
「静雄の眼差しや声や仕草を、思い出したりはしないかい?」
新羅の言葉は感情が一切篭ってなかった。
臨也は赤いその目を細め、口端を吊り上げる。
「お医者様には全てお見通しってわけかな」
「生憎、精神医学は専門外なんだ。これは友人としての見解」
臨也の挑むような視線にも、新羅は笑って受け流す。
「薬が効く分、君はまだマシだよ。静雄なんかは苦しんでいるかも知れないね」
「…どう言う意味?」
臨也は眉を顰めた。新羅の意図が分からない。
新羅は医者には守秘義務があるから、と前置きして言った。
「これはあくまでも友人としてのアドバイスなんだけどね。君が静雄に会いに行けば君の不眠も静雄の不眠も治る可能性があると思うんだ。て言うか君らって本当に不思議だよ。高校の時からずっと好きだった癖になんで今更お互い恋患いなんてするの?八年も片思いし続けてとうとう限界が来ちゃったってことなのかな?相手に言えない状況作ってるのは君ら自身が悪いと思うんだけど、それが今更こんな形で返って来るなんて笑い話にしかならないよ。まあ取り敢えず僕が言いたいのは意地を張らずにさっさと会いに行ったらどうなのってことなんだけど。…ねえ、意味分かった?」
ペラペラとよく喋る新羅の言葉に、臨也はぽかんとするしかなかった。少しだけ遅れて言葉の意味を理解する。
新羅はそんな臨也を見てそれはそれは楽しそうに笑った。
「というわけで、次に眠れなかったら静雄に会いに行くことをお勧めするよ」
「…これは返しておくよ」
臨也は額を手で押さえ、新羅に薬を突っ返す。その顔は珍しく赤かったけれど、新羅はそれに突っ込んだりはしなかった。



(2010/10/31)
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