Rapunzel






真っ白な天井に、真っ白な壁。部屋の中には必要最低限な家具しかない。
南には大きな窓があり、そこにはブラインドもカーテンもない。窓から見えるのは大きな月と、見下ろす位置にある明るい夜景。
静雄は窓際に座り込み、ぼうっと夜空を見ていた。
静雄の側には二体のアンドロイドがいる。真っ白な衣服を着たのと、青の着物を着た一風変わったアンドロイド。
二体は静雄を守るみたいに両脇に座っている。
「こんなに高い位置にいるのに、空はやっぱり遠いな」
静雄が呟くのに、二体は同じ仕草で首を傾げる。
「静雄、この家嫌い?」
白い衣服の方が口を開く。漆黒の髪にピンクの瞳。名前はサイケと言った。
「臨也が静雄の為に用意した部屋だよ」
和服の方が困ったように言う。名前は津軽。こちらは驚いたことに、静雄と瓜二つの顔をしていた。
「あいつは高い所が好きだからな」
静雄は笑う。その笑顔は悲しげだ。
新宿の高層マンション。びっくりするくらいの値段のこの部屋は、臨也が静雄の為に買った物だ。
静雄がこのマンションに住み始めてから、もう三年以上経つ。その間、静雄は一歩も、この家から出たことがない。
身の回りの世話は、全てこの二体がやってくれていた。洗濯も炊事も掃除も何もかも自分で出来るのに、サイケと津軽は甲斐甲斐しく静雄の世話をする。二体は臨也に命令されていて、それに背くことが出来ないから。
「たまには外に遊びに行って」
「太陽を浴びないとダメだ」
サイケと津軽は口々にそう言うけれど、静雄は一度も首を縦に振ったことはない。
静雄はずっとここにいる。
多分、臨也が帰って来るまで、ずっと。



臨也が仕事で暫く居なくなる、と言ったのは三年前だ。
いつものあの憎たらしい笑みを浮かべ、臨也は騙すみたいにして静雄をここに連れて来た。手を引いて。
「ねえシズちゃん」
臨也は静雄の手を取ったまま、酷く優しい声色で言った。
「俺はいつ帰れるか分からないけれど、その間ここを自由に使っていいよ。アンドロイドがいるから家事はしなくていいし」
「何で俺が…」
静雄は戸惑って、臨也を見遣る。臨也の赤い目は真剣だった。
「だってシズちゃんは、俺の唯一だから」
静雄はそれに、なんて答えたか覚えていない。直ぐに臨也の腕が、強い力で抱き締めて来たから。体が触れ合って、互いの早い鼓動を感じ、後は言葉を発しなかった気がする。
そのまま手を引かれ、寝室に連れて行かれた。抱き寄せられ、口づけられて、ベッドに押し倒された。優しく、荒々しく。
その間、静雄は一度も抵抗をしないまま。
臨也の背中に腕を回し、全てを受け入れる。入り込む熱さも、優しい手の動きも、何もかも。
「待っててとは言わないよ」
臨也は赤い目を細めて、そう言った。声は低く、掠れている。
「シズちゃんはいつも通りにしてていい」
上司や後輩と仕事をして、旧友と話し、親友と笑い、誰かと喧嘩をしたりして。
ただそこに、天敵である俺はいないけれど。
「俺はいつか帰って来るから」
それまでたまに、俺のことを思い出して。

臨也はそう言って、静雄の前から姿を消したのだ。




時折、静雄の友人である闇医者がマンションへとやって来た。
サイケと津軽は臨也に言われた通りに、新羅を家に招き入れる。臨也が家に入れることを許可したのは、静雄の他は新羅だけだったから。
新羅は閉じこもっている静雄の体を診に、月に一度やって来る。本当はセルティも会いたがっているんだけど、と苦笑して。
サイケと津軽にとっても、新羅は話し相手として楽しかった。テレビもパソコンもないこの家は、外の世界から完全に隔離されている。サイケも津軽も自身がネットには繋がれるけど、会話として情報を収集出来る相手は静雄と新羅だけだった。
「ラプンツェルって知ってるかい?」
ある日、新羅が二体にこんな話をした。
「金髪の美しい娘が、高い塔に閉じ込められるグリム童話さ」
静雄を見ていると、その童話を思い出すよ。
新羅は笑ってそう話す。
真っ白な肌。金の美しい髪。高い場所に閉じ込められて。
決定的な違いは、静雄の場合は自分の意思だってことだけどね。
新羅がしたこの話は、サイケと津軽にはかなり興味深いみたいだった。
「静雄はラプンツェルみたいだね」
「金髪の、美しいひと」
「高い高い塔に閉じこもって」
「臨也の帰りを待っている」
二体はまるで歌うように繰り返す。静雄はこれには些か閉口した。
「お前が変なことを教えるから」
恨めしげに新羅を睨む。
「だってそっくりじゃないか。双子と一緒に王子様を待つってところもね」
サイケと津軽は双子じゃないけどさ。新羅はにこにこと笑って肩を竦めた。
静雄は王子様、と言う単語に眉を顰める。あの男が王子様だなんて言う可愛らしいものであるものか。どちらかと言えば、悪い魔法使いだ。
「臨也が居なくなって、もう三年が経つね」
新羅がぽつりと呟くのに、静雄は目を伏せた。
二人の間に沈黙が落ちる。
静雄の横ではサイケと津軽が、身動ぎもせず待機している。
「待つのはいいけどさ、たまには外出なきゃ駄目だよ」
新羅はちらりと静雄の手を見た。その手はまるで漂白されたみたいに真っ白だ。もともと色白だったけれど、太陽の光りを浴びていない今は病的な白さだった。
「分かってる」
これに対して、静雄の答えはいつも同じ。
新羅はそれに軽く溜息を吐いて、窓の外へと視線を移した。
新羅が住むマンションよりも、更に高い位置にあるこの部屋。真っ白な部屋にぽつんとある窓から、広く青い空が見える。
確かに静雄は自分の意思でここにいるけれど。閉じ込めたのは臨也だ、と新羅は思っている。
鎖も首輪もないけれど、静雄には呪いがかけられているのだ。そしてその呪いは、かけた臨也にしか解けないんだろう。本当に、悪い魔法使いみたいだ。
「もうすっかり秋だね」
空が高く澄んでいるのに、新羅は目を細めた。
静雄はそれには何も言わず、窓へと視線を移す。
西の空がうっすらと赤く染まって行くのを、静雄は無言で見つめていた。



毎日毎日、真っ白な部屋の大きな窓から、静雄は空を見ている。
小さく開いた窓から風が吹いて、静雄の金の髪が揺れた。
津軽はいつも、そんな静雄を見るのが少しだけ悲しい。
サイケはいつも、そんな静雄を見て臨也に怒りを覚える。
「マスターはいつ帰って来るのかな」
「静雄が日に日に元気がなくなる」
静雄が自ら望んでここにいるのは二体とも分かっていた。
けれど、サイケは気に入らないのだ。静雄を悲しませる臨也が、気に入らない。
「静雄は本当に臨也が帰って来ると思ってるの?」
サイケは少し意地悪な質問をした。ムスッと子供のように頬を膨らませて。
「サイケは何でそんなこと言うんだ」
津軽はそう言って怒ったけど、サイケだって怒ってるのだ。この場に居ない、臨也に対して。
臨也と全く同じ顔をしたサイケがそんなことを言うのに、静雄は少し笑ってしまう。
「どうだろう。帰って来ないかも知れないな」
あいつは酷く気紛れで、とても残酷だから、わざと帰って来ないかも知れない。自分が待っていると知ったなら。
「待つのやめちゃえばいいのに」
「サイケ」
サイケの言葉に、津軽はたしなめるように睨む。滅多にない津軽の怒り顔に、サイケはそれきり黙り込んだ。
静雄はただ笑ってる。穏やかな笑みだ。
この部屋に来て静雄は、どんどん綺麗になっている気がする。儚すぎて、いつか消えてしまいそうだ、と津軽は思う。


それからどれくらい月日が経っただろう。
冬が来て、春が過ぎて、夏が終わり、またこの街に秋が来る頃、臨也が帰って来ると言う情報が舞い込んで来た。
「良かったな、静雄」
「帰ってきたら思いっきり殴ってやるといい」
津軽とサイケは喜んで、静雄を両脇から抱きしめる。
静雄はそれを抱き留めて笑った。儚げに、消え入りそうに。
何だかあまり嬉しくないみたいに見えるのは、サイケや津軽がアンドロイドだからだろうか。人間の表情や感情は、二体にとって未だに未知数だ。

深夜になると、サイケと津軽は省電力モードに切り替わる。人間で言えば睡眠の時間。寝息もないので、まるで死んでいるかのよう。
二体が動かなくなると、静雄はこの空間で孤独になった。
白く広い部屋で、大きな窓の前に座り、静雄は毎晩のように空を見ている。曇りだったり、月が出てたり、星が見えたりする空を。
臨也が帰って来る。
本当なのか嘘なのか分からない情報だ。だけど、サイケや津軽の情報が間違いだったことは今まで殆どない。だから多分、本当なのだろう。臨也が帰って来る。
こんな風に何年も自分が待っていたなんて知ったら、臨也はどう思うだろう。
馬鹿にして嘲笑うかも知れないし、案外興味がないかも知れない。両方とも容易に想像できた。静雄は臨也の性格を分かっているから。
静雄は空に浮かぶ白い月を見て、突然立ち上がる。不安、焦燥、怯えが一気に襲ってきて、吐き気がした。
口元を押さえ、玄関の扉を開ける。深夜でも明るいマンションの廊下。綺麗なエレベーターを降りて、そのままマンションを出た。

外に出るのは数年振りだ。冷たい風が、静雄の頬を撫でて行く。
どこへ行く当てもなく、早足になる。元々静雄は、新宿の街は詳しくは知らない。池袋に行くにしろ、こんな深夜では電車ももうないだろう。大体、金も持っていない。
きっとサイケと津軽が心配するだろう。何も言わずに出て来てしまった。そう思うのに、足は勝手にマンションから離れてゆく。
はあっと吐く息が白い。空を見上げれば、月がずっとこちらを見ていた。いつまでも。

「ラプンツェルみたいだね」

不意に声がして、静雄は足を止める。
「なーんて、ある奴がシズちゃんの事を言ってたよ」
声は少しだけ高く、落ち着いていた。静雄はこの声を知っている。
どくどくと早くなる鼓動に、息が苦しい。
唾をひとつ飲み込んで、静雄はゆっくりと振り返った。
男はポケットに両手を突っ込んで、そこに立っていた。まるで闇の化身みたいに、全身が真っ黒な姿で。
静雄と目が合うと、その赤い目が細くなる。唇を歪め、その顔に笑みを浮かべた。
「久し振り」
「臨也…」
静雄の目が、驚きで開かれる。なんで、どうして、こんな所に。
「シズちゃんこそ。こんな夜中にどこに行くの」
臨也の声には揶揄するような響きがあった。静雄の服装を見て、風邪をひくよ、と笑って。
「俺は…」
静雄は何か答えようとするけれど、上手い言い訳が思いつかなかった。ただ無意識に、足は後退してしまう。
「おかえりって言ってくれないの?」
離れようとする静雄に、臨也はゆっくりと近付いて来る。その赤い目は、じっと静雄を見ていた。逸らされることなく真っ直ぐに。
臨也の手が伸びて、静雄の腕を掴む。びくっと静雄の体が微かに震えたが、臨也は何も言わなかった。
「冷たいね」
臨也はぽつりとそう言い、静雄の体を優しく抱き締める。柔らかく静雄の髪を撫で、耳元に唇を寄せた。
「待っててくれたんだ」
臨也の声が、優しく甘い。
静雄はそれに唇を噛み締め、目を伏せた。
「待ってなんか、ねえよ」
声は震えている。
臨也は低くくぐもった笑い声を出し、その手で静雄の頬に触れた。
「変わってないなあ、シズちゃんは」
口の悪さも、意地っ張りなところも、昔のままだ。
臨也が触れた箇所は、静雄には酷く熱く感じる。静雄の頬が冷たいせいかも知れないけれど。
「逃げるところだった?」
臨也が顔を覗き込んで来る。
「俺が帰って来るのが、怖くなった?」
赤いその目を細め、頬に触れていたその手で静雄の唇をなぞる。静雄は何も言えずに、ただ目を伏せた。
「俺がシズちゃんを逃がすわけないのに」
頬に吐息がかかり、冷たい唇に熱を感じる。熱くて溶けそうなのに、感触は柔らかい。
目の前に臨也の長い睫毛があって、静雄はぎゅっと目を閉じた。後頭部に手を回されて、引き寄せられるように口づけられる。息をするのも忘れるぐらい、深いキスを。
唇は一度離れ、再度口づけられた。入り込んだ舌が上顎を舐めて、舌を絡み取られる。
くちゅ、と唾液の濡れた音がして、静雄の羞恥心が煽られた。恥ずかしさに身を捩ろうとしても、臨也の腕は離れない。
ぽた、と頬に雫が落ちて、臨也は目を開ける。
目の前に、琥珀色の瞳があった。
「泣いてるの?」
「泣いてねえよ」
雨だろ。と言って、静雄は何度も瞬きを繰り返す。雫が落ちないように、月を見上げて。
臨也は静雄を抱き締めたまま、同じく空の月を見上げる。
「シズちゃん知ってる?」

最後にラプンツェルの涙で、王子は幸せになるんだ。

そう言った臨也の声は、酷く穏やかだった。


(2010/10/25)
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