インソムニア 1






チクタクチクタク。
昔見た絵本の擬音みたいだ。
静雄はそう思いながら瞼をゆっくりと開く。
暗い、夜が支配した部屋の中で、ベッドの側に置いてある時計だけが音を立てる。昔の自分ならこの音にも苛々してたかも知れない。そしてこの時計の命はきっと無かっただろう。
そう思うと少しだけ可笑しい。この自分が精神的に成長していると言うことなのか。
寝返りをうって暗い天井を見た。闇はずっとそこにいて、静雄を見下ろしている。目を開けても閉じても真っ暗だ。
風が強いのだろうか。時折ガタガタと窓が揺れる音がした。何かが転がっていくような音も。
静雄は眠るのを諦めて身を起こす。裸足をフローリングにつけると冷たかった。もうこの時期のこの時間は酷く冷える。
カーテンを開けるとまだ空は真っ暗で朝が来る気配はない。案の定風は強いらしく、木々が吹き飛ばされそうな程に揺れている。
静雄は衣服を脱ぎ、着替え始めた。いつものバーテン服ではない、年相応の服装。煙草を手にし、腕時計を嵌め、最後に青いサングラスを掛ける。それは酷く静雄に似合っていた。
煙草を一本口に銜え、Zippoで火をつけながら、静雄は家を出る。
夜でも明るい池袋の街。そこにさえ居れば、闇が和らぐ気がする。きっと気休めでしかならないけれど。
静雄は深く紫煙を吐き出しながら、池袋の街へ歩き始めた。



騒音にしか聴こえない耳障りな音楽を聴きながら、静雄は酒を口に運ぶ。カラン、とガラスの氷が揺れた。
池袋の騒がしいクラブ。平日の深夜だと言うのに、ここは若者の熱気で溢れかえっている。
静雄は池袋では超が付くほど有名人だ。例えどんな格好をしていても、独特の雰囲気や整った容貌で目立つ。こんな騒がしいクラブでも、誰ひとりとして静雄に近付いて来ない。それは静雄にとってはとても気軽だ。
静雄はポケットをまさぐり煙草のソフトケースを取り出した。ケースの残りはもう数本しかない。いつの間にこんなに吸ったのだろう。酒を飲むと煙草の本数が増えると言うのは本当かも知れないなと思う。
一本を口に銜え、先端に火をつけて煙を吸い込む。白く舞い上がる煙に、目を細めた。
「シズちゃんが夜遊びなんて珍しい」
後ろから嫌な呼称で呼ばれ、静雄はぴたりと煙草を吸う手を止めた。振り返らなくても誰だか分かってしまって、静雄は不機嫌に眉間に皺を寄せる。
「臨也」
名を呼んで振り返ると、目の前に男が立っていた。漆黒の髪。真っ黒なコート。眉目秀麗な顔立ちで、瞳だけが赤い。
静雄は臨也の姿を確認すると、ウンザリと舌打ちをした。
「何でここにいる。わざわざ殺されに来たのか」
「まさか」
臨也は唇に弧を描いて笑う。猫のように目を細めて。
「シズちゃんが最近夜な夜な遊び歩いてるって噂を聞いてね」
臨也の言葉に、静雄は何も言わない。ただ気怠げに、臨也が隣に座るのを見ていた。
「酔ってるの?」
「別に」
臨也の問いに、静雄は目を伏せる。まだ酔う程飲んでいない。指に挟んだ煙草から、灰がカウンターに落下した。
「そうかな。シズちゃんが俺を見ても殴りかかって来ないなんて、」
気持ち悪い。
臨也はそう言って、自身も酒を注文した。静雄はそれには何も答えず、ただ無言で煙草を燻らせる。
クラブにいる他の客の視線が二人に突き刺さっていた。あの平和島静雄があの折原臨也と一緒にいるのだから当然だろう。きっと明日にはダラーズの掲示板あたりは騒がしくなっているかも知れない。
「どうしたの」
「何が」
ふうっと静雄は紫煙を吐く。
「シズちゃんが夜遊びなんて」
臨也は口端を吊り上げて、運ばれて来たグラスに口をつけた。
「似合わないよ」
「酒を飲みに来ただけだ」
「眠れないの?」
「……」
静雄は返答を避けて黙り込む。もうそれが肯定のようなものだ。
「ふうん」
何故?とは臨也は聞かなかった。聞いてもどうしようもないと思ったのかも知れないし、興味がないだけかも知れない。静雄にはそれはどうでも良いことだ。
何杯くらい飲んだだろう。
暫く静雄は天敵と二人で酒を飲み続けた。殆ど会話はなかったが、不思議と嫌悪や憎悪は湧いて来ない。やはり酔っているせいかも知れないな、と静雄は思う。
「そろそろ帰る」
左腕に嵌めた時計を見て、静雄は立ち上がる。もうじき朝だ。いつの間にか他の客も大分いなくなっているのに全く気付いていなかった。
静雄は臨也を一度も見ずに、騒がしい店内を出た。
あんなに強かった風はいつの間にか止んでいて、東の空がうっすらと明るい。もうすぐ朝が来る。鳥のさえずりが、遠くから聴こえていた。
外は酷く冷えていたが、飲んだアルコールのせいか体は暖かい。路地裏を歩く足がふらついた。酒が強い方ではないので、数杯飲んだだけでこの様だ。
「シズちゃん」
後ろから呼び止める声がして、やっぱりなと思った。多分、きっと、追い掛けて来るだろうと思っていたから。
不機嫌な顔を意図して作り、静雄はゆっくりと振り返った。
「なんだ」
「今日は休みなんでしょ?」
臨也は口端を吊り上げて、まるで悪魔みたいに笑っている。
何故休みなのを知っているのだろう。酒に酔って口走ったのだろうか。静雄は酔った頭でぼんやりと考えたが、思い出せなかった。
「だからなんだ」
「眠れないのなら、まだ飲もうよ」
この臨也の提案に、静雄は面食らった。まさか、天敵にこんなことを言われるなんて思っていなかったから。
「もう朝だ。どこも開いてねえよ」
飲み屋は大抵、朝の4時には閉まってしまう。まだ開いているところがあったとしても、もうオーダーは無理だろう。
「うちにおいでよ」
臨也は笑みを崩さぬまま、サラリと言う。赤い目を細めて。
静雄はさすがにこれには眉間に皺を寄せた。
「何でだよ」
「もっと酔えば、眠れるかも知れないだろう?」
「寝首を掻く気か」
「そんなことはしないよ」
臨也は唇を歪め、両手を芝居がかった仕草で上げる。他人から見れば優雅な臨也の姿も、静雄には胡散臭くしか見えない。
「シズちゃんが眠れるようにしてあげる」
臨也は酷く優しい声色でそう言い、ゆっくりと手を伸ばして来た。
細くて白い手。長い指先には指輪が嵌められている。いつの間にか見慣れた、シルバーのリング。
「おいで」
悪魔みたいな男はそう言って、静雄の手を掴んだ。その手は意外にも暖かく、静雄は初めて感じた天敵の体温に戸惑う。
そんな風に静雄が戸惑っているうちに、臨也は手を掴んで歩き出す。体を引っ張られ、静雄は慌てて後に続いた。
思えばこの時、酔った勢いがあったのかも知れない。平気そうに見えた臨也も、多分少しは酔っていたのだと思う。
静雄は結局、新宿の臨也の家について行ってしまった。



臨也のマンションは何度か来たことがあるが、中に入ったのは初めてだ。
静雄はソファーに座らされ、物珍しげに臨也の仕事場をキョロキョロと見回す。
書類と本とパソコンと。いかにも事務的な仕事場だ。情報屋なんて如何わしい仕事は静雄には到底理解できないけれど、自分だって借金の取り立て屋だ。あまり人のことは言えない。
臨也は小さなグラスに日本酒を注いだ。勧められて口をつけると、それは甘く、まるで白ワインみたいな味がした。
「これお前が買ったのか」
「いや、頂き物」
「へえ」
だろうな、と思ったが静雄は口には出さなかった。臨也が酒を好んで飲むタイプではないことを知っている。自分で購入してまでは飲まないだろう。そして臨也のそんな性質を知っている自分に吐き気がするのだ。
「シズちゃん、ほら」
臨也が窓を指差す。ブラインドを上げた窓からは朝焼けが見えていた。明らかに夕陽とは違う、真っ白な光。
「綺麗だね」
「そうだな」
臨也が言うのに、静雄は素直に頷いてしまった。臨也のマンションは、朝陽の見え方も違う。高い位置にあるのだから当たり前だけれど。
「眠れないのはいつからなの」
突然、臨也が聞いてきた。
静雄はそれに、ごくんと冷酒を飲み込む。
「最近だ」
酷くなったのはここ1、2週間ぐらいかも知れない。前からたまにそんな日があったので、はっきりとは分からなかった。
「原因は?」
臨也の抑揚のない声。
静雄は臨也の顔を今は見れなかった。目を伏せたまま、グラスを揺らす。
「さあ。なんだろうな」
原因なんて分かっていたけれど、臨也に知られるなんて死んでもごめんだ。
静雄はくらりと眩暈がして、額を手で押さえた。アルコールが思考能力を奪っている気がする。なんだか視界も暗い。
「酔ったのかい?」
臨也の優しい声がする。
気持ち悪かった。この男に気を使われる自分が。
「眠い?」
顔を上げれば、いつもの顔をした臨也がいた。顔さえ見なければ、声は優しいのだと初めて知る。
「…眠い」
静雄は子供みたいに目を擦った。くらり、とまた眩暈がする。
「おいで、シズちゃん」
臨也が静雄の手を引く。引かれるままに、静雄は素直にソファーから立ち上がった。
どこに行くのだろう。
扉を開けて、薄暗い廊下を進む。疑問に思っている間に、一番奥にある部屋に連れて行かれた。どうやら寝室らしい。
中に入るなり、ベッドに横たえられて、サングラスを外された。左腕に嵌めていた時計も。
「臨也…?」
「眠いんだろう?」
臨也は静雄のシャツを脱がして行く。優しく、性急に。
ベルトにも手を掛けられ、静雄は少しだけ酔いが冷める。
「おい」
「服、脱いだ方がいいよ」
臨也の声は楽しげだ。
「なん、」
「抱いて欲しいかい?」
尚も戸惑う静雄に、臨也が耳元に唇を寄せる。
「シズちゃんが下になるのなら、抱いてあげる」
「……」
その言葉に静雄は固まり、思わず顔を上げた。臨也の赤い双眸と目が合う。
臨也の目は猫みたいに細められて、唇はゆっくりと歪められる。
知ってるのか。
その目を見た途端、静雄は分かってしまった。臨也は多分、静雄の不眠症の原因を知っている。
静雄はくらりとまた眩暈がして、頭を押さえる。心臓が早鐘のように打った。
「嫌だ」
抱かれるなんてごめんだ。
静雄は臨也を押しやり、立ち上がろうとする。けれど足に力が入らずに、ベッドにまた手をついてしまった。
「結構飲んだからねえ」
臨也の揶揄するような声が降って来る。
「シズちゃんはお酒弱いんだよね」
両手で肩を押され、ベッドに押し倒された。柔らかなスプリングが揺れ、清潔で真っ白なシーツに金髪が投げ出される。
「おい…、」
「眠い?」
静雄の体に馬乗りになって、臨也が顔を覗き込んで来た。その手は顕わになった静雄の腹筋を優しく撫でてゆく。
「…眠い」
静雄は答えながらも、臨也のその手を掴む。
「やめろ」
「俺ならアルコールに頼らなくてもシズちゃんを眠らせてあげるよ」
「……」
「シズちゃんは黙って俺に任せてればいい」
「俺は、」
「少し黙って」
不意に臨也に唇を塞がれた。静雄の目が見開かれる。
薄く開いた唇から舌が入り込み、頬の内側を嘗められた。舌を絡められ、口腔内を思う様に蹂躙される。くちゅくちゅと濡れた音がし、それが静雄の羞恥心を更に煽る。熱く蕩けるような感触は、きっとアルコールのせいだろう。舌をきつく吸われ、静雄はぎゅっと目を瞑った。
最悪だ。
臨也の手が静雄の衣服を剥いでゆく。
何をしているんだろう、自分は。
ベルトを外され、中に手が入り込んで来た。
何で、こんなことを。
「シズちゃん」
名を呼ばれ、恐る恐る目を開けた。臨也の赤い目が、じっと静雄を見下ろしている。全てを見透かすみたいに。
「愛してあげるよ」
そう言って、臨也の唇が降りてきた。優しい口づけ。
静雄はそれに再び目を閉じ、やがて諦めたように体の力を抜いた。




(2010/10/30)
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