Flavor Of Life 2






グラウンドの地面に押し倒され、静雄は目の前の男を見上げていた。赤い目に黒い髪。顔は厭味なくらい整っている。
臨也は静雄に馬乗りになって、静雄の白い首筋にナイフを当てていた。じわりと静雄の首に、少しだけ赤く血が滲む。
「思い切り刺したのに、これしか傷がつかないなんて」
なんて非現実的だ、と臨也が低い声で笑う。いつものように口端を吊り上げて。
「退けよ」
静雄はきつい眼差しで臨也を睨みつけた。力を出せば臨也の体なんて直ぐに押しやれるくせに、自分からは動かない。ひょっとしたら動けないのかも知れなかった。目の前の男の呪縛のせいで。
見上げた臨也の後ろには、赤い空が見えている。太陽は大分傾いていて、雲も反射でオレンジ色だ。静雄はそれに、少しだけ目を細める。
臨也は口端を吊り上げたまま、ナイフを折り畳んだ。長い睫毛を伏せて、吐息が触れ合う程に静雄へと顔を寄せる。
「シズちゃん」
静雄は目を逸らさずに、段々と近付いて来る端正な顔を見詰めていた。学ラン姿の臨也は、上から下まで真っ黒だ。まるで悪魔みたいに。
「その金の髪、綺麗だね」
目の前の男は急にそう言った。
「蒲公英みたいだ」
そう囁かれて、不意に口づけられる。柔らかな唇が掠めるように一瞬重ねられた。静雄はそれを身動き一つせずに、目を丸くして受け止める。
臨也は唇を離すと呆然としている静雄に笑い、ゆっくりと体を離した。立ち上がって髪をかき上げ、学ランの埃を手で払う。
「じゃあね」
何事もなかったように、臨也はそう言って校舎の方へ歩いて行く。
静雄は体を起こすと、小さくなる臨也の後ろ姿を見送った。触れた唇を手の甲で拭い、舌打ちをする。
「…なんだよ、今の…」
どうせ嫌がらせだろう、いつもの。本当にムカつく。
「くそっ」
静雄は苛立だしく頭を掻き毟るが、誰もその声に答える者は居なかった。





その時のことを、静雄は未だに覚えている。
あの時、臨也の後ろに見えた赤い空も、太陽がオレンジだったことも、鮮明に。
多分臨也は忘れているだろうと思ってはいた。髪を褒めたのも出まかせだろうし、口づけをしたのも単なる気紛れなんだろう。きっと色んな女との記憶がごちゃまぜになって、どうでも良い記憶の一つになっているんだろう。それでも静雄にとっては、忘れられない記憶だったのに。
静雄が臨也のことを、所謂恋愛のそれで好きだと自覚したのはこの時だ。それまでだって誰かに淡い恋心を抱いたことはあるけれど、こんなにもはっきりと熱く想ったことはない。
これが恋なのか、と静雄は少し愕然とした。だって相手が相手だったから。好きだと気付いたのと同時に失恋したようなものだ。
新羅だけは気付いていて、良く話を聞いてくれた。静雄はそれに感謝をしている。八年間も、ずっと。
でもそれも終わりだな。
静雄は煙草を吸いながら、茜色の空を見た。青空がまだ残る、ちょうど空の色が入れ替わる時刻。
こんな綺麗な空なのに、静雄はこの空が大嫌いになりそうだ。




「静雄に何を言ったの」
開口一番にそう聞いてくる旧友に、臨也は思わず口端を吊り上げた。
池袋のとあるカフェ。ここは先日、臨也と新羅が偶然会ったあの場所だ。
あれから数日しか経っておらず、街の様子もあの時と変わっていない。忙しなく、騒がしい街。
「新羅が呼び出すから何かと思えば、シズちゃんの話なの?」
二人がいるテーブルには、あの時と同じコーヒーが二つ、湯気を上げて並んでいた。二人ともまだ手付かずのまま。
「静雄が髪の色を戻すだなんて言うんだよね」
いつになく真剣な声色の友人に、臨也は目を向ける。カフェの中は静かな音楽しか流れていないせいか、新羅の声はいやにはっきりと臨也の耳に届いた。
「それが?」
「君が何か言ったんじゃないかと思って」
眼鏡のガラス越しに見える新羅の目は、珍しく真剣だ。
「確かに金髪についてはシズちゃんと話したけど」
臨也は軽く肩を竦めて見せる。
「あのシズちゃんが俺のせいで動くとは思えないな」
だって自分たちは犬猿の仲なのだから。
「静雄の金髪は嫌いかい?」
新羅が不意にこんなことを聞いて来るのに、臨也は一瞬眉を顰めた。
対する新羅は真顔で、じっと逸らす事なく臨也を見詰めて来る。
「…好きか嫌いかと聞かれたら、…まあ気に入ってるかな」
臨也は珍しく、少しだけ自身の気持ちを吐露した。
太陽の光に照らされる金髪は、とても美しい。風に吹かれて揺れる姿も。臨也は昔から、静雄の金髪は気に入っていた。だからこそ、それがあの上司によって作られたものだなんてムカつくのだけど。
「だよねえ。君、静雄のこと好きだもんね」
新羅のこの言葉に、臨也はピタッと動きを止める。眉を思い切り顰め、新羅の顔を不機嫌に見遣った。
「見てれば分かるよ。今更だよね」
新羅はそんな臨也の視線を受け流して、コーヒーを一口飲む。
臨也は否定をしなかった。否定も肯定もせず、ただ頬杖をついて窓の外を見る。窓から見える空は茜色だ。あと1時間もすれば夜が訪れるだろう。
「でもそろそろ何とかしないと、静雄逃げちゃうかも」
新羅はカップを置き、臨也の顔を探るように見た。
臨也は顔を上げ、そんな新羅の視線を真っ直ぐに受け止める。
「どう言う意味かな」
問うその声は抑揚がない。
「臨也は意地悪だね」
「何が」
「静雄の気持ち知ってるくせにさ」
この新羅の言葉に、臨也は口端を歪めた。長い睫毛を伏せ、薄く笑みを浮かべる。
「俺はただ均衡を望んでいるだけだよ」
「それは本音なのかな」
「多分」
そう答えたものの、臨也だって自身のことを正確に分かっているわけではない。ひょっとしたら心のどこかで何かに怯えているのかも知れない。けれどそれを自身では認めたくはなかった。
「静雄が何でずっと金髪なのか知ってる?」
不意に話題を変えた新羅に、臨也は再び目を上げる。
「あの上司の人に言われたからじゃないの」
「きっかけはね」
新羅は僅かに肩を竦めた。臨也にこの話をするんじゃなかったよ、と苦笑して。
「君ら、一度だけキスをしたことがあるんだってね」
覚えているかい?
新羅はそう問いながら、臨也が覚えていないわけがないと確信していた。あの臨也が、静雄に関することを忘れているわけがない。
「ああ…。…ふうん、なるほど」
臨也は新羅の言わんとしていることが分かったのだろう。ひとつ頷き、それっきり口を噤んだ。お喋りなこの男が黙り込むのは珍しい。
新羅も何も言わなかった。何も言わず、ただコーヒーを啜る。ここのカフェのコーヒーは、残念ながら美味しいとは言えない。
「もう行くよ」
やがて臨也が席を立つ。
臨也は結局、コーヒーを一口も飲まなかった。テーブルに残されたカップからは、もう湯気は上がっていない。
カフェを出て行く臨也の後ろ姿を見ながら、もう傍観者の役目も終わりかな、と新羅は思う。少しだけそれを寂しいと感じるのに、僅かに苦笑した。




鏡の中の金髪の自分に、静雄は手を伸ばした。鏡に映る自分は、なんだか少し顔色が悪く見える。髪の色が黒い自分を想像しようとして出来なかった。もう金髪になってかれこれ10年だ。今更黒髪の自分など、何だか笑ってしまいそうだ。
静雄は浴室から出ると、乱暴に髪の毛をバスタオルで拭う。ポタポタと雫が床を濡らすのを気にせずに、衣服を身につけて部屋へと戻った。
その時カタンと物音がして、静雄は振り返る。静雄は在宅中は家に鍵を掛けない。物音は、玄関からした。
不審に思って首にタオルを巻いたまま、静雄は玄関先を覗き込む。
「こんばんは」
そこには真っ黒な悪魔みたいな男が立っていた。笑みを浮かべて。
反射的に静雄は拳を振り上げようとしたが、臨也の手によって掴まれる。
「会うなり酷いなあ」
口調とは裏腹に、ちっとも堪えてない様子で臨也は笑う。
静雄は盛大に舌打ちをし、掴まれた手を振り払った。
「何の用だ」
臨也を追い返すのを半ば諦め、静雄は背を向ける。ぽたっとまた雫が前髪から落ちた。
「髪の色を戻すって聞いてさ」
臨也は靴を脱ぎ、部屋の中まで入り込んで来る。そう言えば臨也がここに来るのは初めてだと静雄は気付いた。
「本当に金髪やめるの?」
臨也は我が物顔でソファーに座り、静雄をじっと見詰めて来る。その赤い目がいやに真っ直ぐで、静雄は思わず目を伏せる。
「それだけのために来たのか」
「半分は」
「後の半分はなんだ」
ソファーに座る臨也から距離を取って、静雄はタオルで顔を拭った。ここが自分の家のせいか、不思議と臨也に暴力を振るう気は起きなかった。
「俺があんなこと言ったから?」
「お前には関係ない」
「だったら謝ろうと思って」
臨也が言うのに、静雄は眉を顰めた。髪が濡れているせいか、少し寒い。
「謝る?」
「金髪じゃない方が似合うって嘘ついたから」
ごめん、と臨也は低く囁くように口にした。
静雄はそれに驚いたように目を開くが、何も言わなかった。何も言わず、じっと臨也を見詰めている。
「俺、シズちゃんの金髪結構気に入ってるんだ」
臨也はソファーから立ち上がり、静雄の方へ近付いた。一歩、また一歩と。
「あの上司の人に言われて染めたなんて聞いたから」
嫉妬しちゃった。
臨也は自嘲するようにそう言い、静雄の手を掴んだ。
静雄はそれに、一瞬手を引いた。しかし臨也の掴む手は強く、離れない。
「…何でお前が嫉妬するんだよ」
「何でだと思う?」
臨也は腕を伸ばし、静雄の髪をタオルで拭いてやる。静雄は擽ったそうに目を細めたが、臨也の好きにさせた。
「知らねえよ。お前の考えなんて」
静雄にはいつだって、臨也の考えている事は一つも分からない。昔から。
「シズちゃんって鈍いところがあるよねえ」
臨也は片眉を吊り上げて笑い、タオルで静雄の頭を覆う。真っ白なタオルで突然視界を遮られ、静雄は驚いて体を後退させた。
「じっとして」
臨也の声がし、体を抱き寄せられる。タオル越しに、臨也の暖かい手が頬に触れた。
「いざ、」
や、とは最後まで声にならなかった。
タオルの柔らかな生地越しに、唇に何かが触れる。
口づけられてるのだ、と気付くと、静雄は驚きで体を硬直させた。
「シズちゃん」
耳元に唇を寄せて、タオル越しに聞こえる優しい声。
「その金髪は、とても綺麗だから」
染めないで、そのままでいてよ。
臨也はそう言うと、抱き締めた腕を唐突に離した。離れるその瞬間に、蒲公英みたいだね、と囁いて。
温もりが離れても、静雄は暫くじっとしていた。タオルを頭に被ったまま。
「臨也…?」
静かになった室内で、静雄は臨也の名前を呼ぶ。しかしもう返事はなかった。
帰ったのか…。
静雄は馬鹿みたいに立ちすくむ。
ああ、もう。
静雄はタオルを取ろうとして、手を止めた。
うんざりする。なんて勝手な奴なのだろう。やめろと言ったりそのままでいろと言ったり。
ギュッとタオルを握る手に力が篭る。
また気紛れに口づけて、どうするつもりなんだろうか。静雄の心には、どんどんどんどん傷が増えていく気がするのに。
「…もうウンザリだ」
思いは低く掠れた声と共に口から出た。
「もうやめたい?」
不意に目の前から声がし、タオルを引こうとしたその手を掴まれた。驚きで静雄の体が跳ねる。そのままタオルを取り去られ、視界が広がった瞬間に、乱暴に口づけられた。
目を見開くと、視界いっぱいに端正な顔が見える。伏せられた長い睫毛と、臨也の前髪が頬を擽った。
臨也は静雄の濡れた金髪に指を差し入れ、優しく頭を引き寄せる。それなのに口づけは粗暴で、歯列を割って舌が入り込んで来た。
啄むように口づけられ、舌を吸われ、思うがままに口腔を蹂躙される。飲みきれなかった唾液が顎を伝って落ちた。それだけで静雄は体から力が抜け、酸欠で目が眩む。
崩れ落ちそうな静雄の体を片手で支え、臨也はやっと唇を離した。間近にある赤い目が、情慾を持って自分を見るのに、静雄は思わず目を逸らす。
「もうやめたい?」
臨也はもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「…俺は」
対する静雄の声は掠れてる。
もうやめたい、だなんて。
やめたいさ、そりゃあ。
もうこんなの、ウンザリなんだ。
「でもね、もう無理なんだ」
臨也の言葉は残酷だ。
「もう止まらない。戻ることさえできない。後は堕ちて行くだけ」
臨也はそう言って更に静雄の体を抱き寄せる。冷たく濡れた金の髪に、唇を寄せて。
「シズちゃんだけが途中退場なんて、許さないよ」
「意味分かんねえよ…」
静雄は身を捩って抵抗するが、臨也の腕は離れなかった。
「本当にシズちゃんは鈍いなあ…」
臨也は飽きれて言うが、声には笑いが混ざっている。
体を少し離して、静雄の顔を覗き込んだ。薄い茶色の目と、赤いその目が合う。
「好きでもないのにさ、男相手にキスすると思う?」
臨也の目が悪戯っぽく細まった。静雄は目を丸くして、何度も瞬きをした。
「ちゃんと言わなきゃ分からないのかな」
臨也の手が優しく金髪を撫でる。
「俺は、」
口を開く臨也の顔を、静雄はただじっと見つめていた。



八年前から、君が好きなのだけれど。



(2010/10/23)
×
- ナノ -