Beautiful World






放課後の、誰もいない教室で、キスをした。



開け放たれた窓から、部活動に励む生徒たちの声がする。木々が揺れる音や、烏の鳴き声。窓から入り込む木枯らしは、少しだけ肌寒い。
唇が離れると、静雄は目を伏せる。羞恥と後悔と背徳の感情がせめぎあって、目の前の相手を見ることが出来なかった。指先は僅かに震えている。
「…なんで」
唇から出た声は微かに掠れていた。静雄はそれに、自身で酷く動揺する。
「なんでかなあ」
臨也は窓枠に肩を預けて、視線を窓の外に向ける。外はもう夕暮れだ。
静雄も臨也も、制服はボロボロだった。さっきまで二人は、殺し合いと言う追いかけっこをしていたから。池袋の街を、いつものように。
「シズちゃんだって、なんで避けなかったの」
臨也の赤い目が、じっと静雄を見詰めて来る。その目は珍しく真摯だ。
「俺は…」
静雄は何も言えず、黙り込んだ。
理由なんて自分だって分からない。ただ臨也の端正な顔が近付いて来るのを、そのまま受け入れてしまった。不思議と避けようとは思わずに。
「ファーストキス?」
臨也が口角を吊り上げて、揶揄するように言う。静雄はそれに舌打ちをした。顔が朱で染まるのが、答えになってしまってる。
「帰る」
半ば逃げ出すように、静雄は鞄を手にした。整然と並んだ机に何度もぶつかりながら、扉までを歩く。
「バイバイ」
臨也の声が後ろからしたけれど、静雄は振り返らなかった。




折原臨也の彼女は良く変わる。
静雄は窓枠に頬杖をついて、その光景を見ていた。
青く澄んだ空。絵の具で描いたみたいな斑な白い雲。秋の乾いた風の中で、腕を組むカップルが一組。
臨也の彼女は大抵茶髪の軽そうな女だった。そう言う女が好みなのか、はたまた言い寄られるのかは分からない。静雄は臨也のことなんて何一つ知らないのだ。
臨也から視線を外し、空を見上げる。例えば何故空は青いのだとか、雲はどうやって出来ているのかとか、日常的過ぎて普段考えたことがない。臨也のことはそれに似ている。嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで、折原臨也と言う人間がどう言う人間なのかとか、考えたことがなかった。静雄にとって『嫌い』が最優先であり、他の情報なんていらなかったから。
窓から風が入り込んで静雄の金の髪を揺らす。冷たい秋の風。
「静雄、寒いよ」
後ろの席で新羅が身を震わせるのに、静雄は窓を閉めてやる。
窓を閉める瞬間に、振り向いた臨也と目が合った気がした。




あれからたまに、臨也は気紛れに静雄にキスをするようになった。
戦いの最中にいきなりされた事もあったし、校内を歩いていて不意にされた事もあった。首にナイフを突き付けられながらされた事も。
臨也のキスは優しい。
その突き付けられた冷たいナイフとは全く違う温度だ。初めは触れるだけだったそれも、回を重ねるごとに徐々に熱くなって来ている。
今もこうやって、誰もいない屋上で口づけられていた。フェンスに背中を押し付けられて。
「…ん、」
口腔内を這い回る舌に、静雄は顔を赤くした。洩れる自身の声に羞恥を煽られ、僅かに身を捩る。背中のフェンスがガチャっと音を立てた。
臨也の手はフェンスを掴んでいる。フェンスと臨也に挟まれて、静雄は身動きが取れない。
やがて臨也の手が静雄の後頭部に回され、更に口づけが深くなった。歯列を舐められ、舌を絡み取られる。まるで口の中を犯されているみたいだ。
口づけられながら、臨也の片手が静雄のシャツの中に入り込む。冷たいその手に、ぴくっと静雄の体が跳ねた。手は脇腹を撫ぜ、胸までゆっくりと上がって来る。静雄はそれに、慌てて臨也の体を押し退けた。
「おい」
「なに?」
臨也の声は不機嫌だ。途中で抵抗された事に怒っているのかも知れない。
「なにじゃねえよ。変なとこ触るな」
静雄は臨也の腕から逃れ、唇を手の甲で拭う。火照った顔が熱くて、臨也の目をまともに見ることができない。
「もうこんなこと、やめようぜ」
こんな、馬鹿馬鹿しいこと。
臨也はそれに、ふうんと気のない返事をしてフェンスから離れた。
風で臨也の漆黒の髪が揺れ、微かに香水の匂いがする。臨也が最近身につけている香り。
「大体お前、彼女がいんじゃねえか」
静雄が吐き捨てるように言えば、臨也の口端が吊り上がった。
「ヤキモチ?」
「ちげえ」
無意識に、否定する言葉の語尾が強くなる。違う、筈だ。多分。
「別に好きなわけじゃないから」
臨也は何でもない事のように言って天を扇いだ。同じ青空でも、この男の赤い目には違って見えるのだろうか。
「じゃあ何で付き合ってんだよ」
「告白されたから」
しれっと返された。
静雄はそれにウンザリして舌打ちをする。
「来る者は拒まず、去る者は追わず」
臨也はそう言って低い声で笑う。本当に最低な男だ。女共はこんな男のどこがいいのだろう。
あの茶髪の女とも、こんな風にキスをしているのだろうか。静雄はそれを想像しようとして考えるのをやめた。誰かのそんな姿を想像するだなんて、穢れてる。
「ねえシズちゃん」
臨也の腕が伸びてきて、抱き寄せられた。静雄の茶色の目が、驚きで丸くなる。
「もう一度キスさせて」
臨也は酷く熱っぽい声でそう囁いた。もう一度、と懇願するように。
そして静雄の返事も聞かずに、また唇が重ねられる。
静雄には拒む事は出来なかった。




何故、どうして。こんなことを。
真っ白なシーツに押し倒されながら、静雄は考える。シーツは洗剤と臨也の匂いがした。
考えている間にも、臨也の手はゆっくりと静雄のシャツのボタンを外して行く。首筋に口づけられ、きつく吸い上げられた。臨也の唇が、いやに熱く感じられる。臨也の体からは、女物の香水の匂いもしていた。
「…なんで」
問う静雄の声は、微かに震えている。初めてキスをした、あの時のように。
「なんでかなあ」
答える臨也の言葉も、あの時と同じ。
臨也がゆっくりと学ランを脱いだ。赤いTシャツも。顕わになった裸体は、華奢で白い。衣服を脱いだ事で、香水の匂いが幾らか和らぐ。
俺の方が浮気相手なんだな。
不意にそう思い、静雄は苦笑する。臨也がそんな静雄に、眉を顰めて首を傾げた。
「なんでもない」
と低く呟いて、静雄は目を閉じる。ただ少し馬鹿らしかったから。男が浮気相手だなんて、滑稽だろう?
臨也は何も言わなかった。ただ何も言わずに、静雄の耳元に唇を寄せる。熱い舌が耳朶を這い、そのまま首筋を舐めてゆく。
静雄はそれにぞくぞくと肌が粟立った。どうすれば良いか分からなくて、両手はぎゅっとシーツを掴む。
「シズちゃん」
囁くように名を呼ばれ、うっすらと瞼を開く。
「こう言うときは俺にしがみ付くんだよ」
臨也は静雄の手を取って、自身の肩に置いた。静雄は戸惑いながらも、怖ず怖ずと背中に腕を回す。
「シズちゃんが快感でぐちゃぐちゃになるぐらい良くしてあげるから」
ちゃんとしがみ付いていてね。
臨也がそう言って低く笑うのに、静雄は小さく舌打ちをした。




今日も臨也は彼女と仲良く登下校だ。
静雄は教室の窓から、ぼんやりとそれを眺めていた。
空は赤い赤い夕陽が支配していて、雲さえも反射で薄紅色だ。少し遠くの空だけがまだ青く、青と赤が混ざり合った箇所は酷く綺麗だった。
「何を見ているの?」
新羅が静雄の横から顔を出す。窓の外を見て、直ぐに臨也に気付いた。
「臨也?」
「別に」
静雄の答えは素っ気ない。けれどその視線は臨也から離れていなかった。新羅はそれに微かに笑う。
「静雄も臨也みたいに彼女を作ったらいいよ。きっと世界が変わる」
そうだろうか。
新羅の言葉に、静雄は目を細める。誰か他人の為に、自分の世界が変わるなんてあるのだろうか。
「と言うわけで、これ」
新羅が笑って差し出したのはピンクの封筒だった。静雄は眉を顰める。
「なんだこれ」
「渡して欲しいって頼まれてね。静雄宛てのラブレター」
はい、と新羅が尚も差し出して来るのに、静雄は渋々と受け取る。ピンクの可愛らしい封筒には、平和島静雄様と綺麗な字が書かれていた。
「裏庭で待ってるらしいよ。行ってあげて」
新羅はにこにこと笑って、静雄を促す。その表情は面白がっているようにも見えたし、ただの愛想笑いにも見えた。
静雄は手紙をまじまじと見てから、気怠そうに席を立つ。告白されるのは初めてではないが、いつも気が重い。
教室から出て行く静雄を見送りながら、新羅は携帯を取り出した。
「さて。一応教えて置こうかな」




ごめん、と。言葉は口からするりと出て来た。ごめん。謝罪の言葉。
「好きな奴がいるから」
そう言うと彼女は頷いて走り去ってしまう。小さな後ろ姿が見えなくなって行った。木枯らしと共に。
裏庭には木々がハラハラと枯れ葉を落としていく。赤や黄色のそれが舞い落ちるのは、とても美しい情景だ。告白するには良い場所なのだろう。
はあ、と溜息を吐き、静雄は空を見上げた。赤い夕陽、薄紅色の雲。こんなに世界は綺麗なのに、静雄の心はどんよりと重い。
「モテるのも大変だね」
不意に揶揄するような声がして振り返れば、臨也が立っていた。携帯を手にして。
真っ黒な学ラン姿の彼は、この赤茶色の世界ではいやに目立つ。
静雄は臨也を目にした途端、顰めっ面になった。
「お前帰ったんじゃねえのかよ」
「帰るつもりだったんだけどねえ」
はは、と臨也は笑って携帯をポケットにしまい込む。静雄はそれに訝しげな表情をしたが、臨也は答える気はないようだった。
「シズちゃん、好きな人いるんだ」
知らなかったなあ、と言って、臨也は口角を吊り上げる。静雄はそれに盛大に舌打ちをした。よりによって、この男に聞かれるなんて。最悪だ。
踵を返し、立ち去ろうした静雄の手首を、臨也が急に掴んだ。そのまま肩を掴み、強引に静雄の体を引き寄せる。
「誰?」
そう問う臨也の目は、酷く真摯な色をしていた。静雄はそれに、戸惑いを隠せない。
「…手前には関係ねえだろ」
「セックスしてるのに?」
そう言って臨也の口角が吊り上がった。この言葉に静雄はかっとして手を振りほどく。
「手前だって女いんじゃねえかよ」
ああ、もう。ウンザリだ。何故自分がこんな思いをしなくてはいけないのだろう。何故あの時、避けなかったのか。あのキスを。
「もう手前とはセックスもキスもしねえよ」
こんな思いをするぐらいなら、無かったことにしたい。何度となく交わされたキスも、重ねた体も、もうどうでも良かった。抱きしめられている時だけ、臨也が自分の物になったような錯覚がする。でもそれは錯覚だ。臨也には彼女がいるし、自分はただ遊ばれているに過ぎない。もうそんなのは嫌だった。
誰?、だなんて。
決まってるじゃないか。
静雄は唇を噛んで、臨也を睨みつける。キスもセックスも受け入れたのは、明確な理由があるのだ。
静雄の言葉に、臨也の赤い目が細まった。笑みを消し、その表情は酷く冷たいものになってゆく。
「今更無かったことには出来ないよ」
赤い夕陽に照らされて、臨也の顔も赤く染まっている。
「もう戻れないんだ」
残念ながら。
臨也の言葉は抑揚がなく、感情は読み取れない。
「じゃあもう俺に関わるな」
声を掛けるな。目を合わせるな。体に触れるな。
静雄はきつい眼差しで臨也を睨みつけた。
「去る者は追わないんだろう?」
そう言って、静雄は臨也に背を向ける。木の葉の絨毯を踏み締めて、早足に歩き出した。
「待ちなよ」
強引に腕を掴まれ、振り向かされる。そのまま木に背中を押し付けられた。驚いた静雄に、葉がハラハラと舞い落ちる。
「な、」
抗議の声は唇を重ねられ、塞がれた。あっという間に唇から舌が入り込み、蹂躙される。慌てて臨也の肩を押しやろうとするけど、その前に手を掴まれてしまう。
「シズちゃん」
やがて唇を離し、臨也の口から出た声は酷く真剣だった。静雄はその声色に、動揺する。
「もう無理なんだ」
「何が…」
静雄の声は、掠れて低い。
「初めてキスをした時から、俺は止まらなくなってたよ」
自嘲するように、臨也は口端を歪める。その赤い双眸は、真っ直ぐに静雄の目を見つめていた。
「シズちゃんを抱きたくて抱きたくて仕方がなかった。毎日毎日シズちゃんのことばかり考えていたよ。滑稽だろう?多分俺は最初から、      」
臨也の最後の言葉は囁くように伝えられる。
静雄はそれを、ただ目を見開いて聞いていた。瞬きもせず。
木の葉がハラハラと静雄の髪に舞い落ちる。赤や黄色の色彩が、視界を覆う。
臨也の手が伸びて、静雄の体を抱き寄せた。静雄の髪から葉がハラリと足元に落下する。静雄はそれを目の端に捉えながら、臨也の肩口に額を押し付けた。
それが静雄の精一杯の答えだった。




静雄は屋上の校舎の影でぼんやりと空を見上げていた。外は風が強く、雲の流れも早い。
バタバタと走り去る足音がして、静雄はそちらへ振り返った。茶髪の女生徒が怒った形相で、屋上の扉から出て行くのが見える。
「終わったのか」
「まあね」
臨也は口端を吊り上げて笑い、静雄の方へとやって来た。
「一発くらい殴られてやれよ」
「有り得ない」
静雄の言葉に、臨也は芝居がかった態度で肩を竦めた。
「好きでもないのに付き合ってやったんだから感謝されるべきだろう?」
「…お前は本当に最低な野郎だ」
心底呆れたように言う静雄に、臨也は僅かに首を傾げて笑う。
「でもシズちゃんはそんな俺が好きなんだよね」
「死ね」
赤くなって悪態をつく静雄に、臨也は声を上げて笑った。


(2010/10/17)
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