『ストロベリーオンザショートケーキ』



「失礼しました」
普段、言い慣れない敬語を使い、静雄は頭を下げて職員室を出た。
教師だらけの場所にいる、という重圧から解放されて、はあ、と人知れず溜息が出る。たった今提出して来た課題は、思いの外簡単に解くことが出来た。静雄は別段頭が悪いわけではないので、普通にやれば問題は無い。
放課後の校内はまだ明るく、居残っている生徒もまだたくさんいそうだ。遠くのグラウンドからは、部活動の声援が聴こえる。音楽室からは、ブラスバンドの調律の音。様々な楽器の音色は、不思議と不協和音には聴こえない。どこかの教室からは、女生徒の笑い声が響く。
静雄は階段を昇り、誰もいない廊下をゆっくりと歩いた。自分のクラスは廊下の一番端だ。長く続く廊下は、窓から入り込む太陽を反射して明るい。もう夕方だというのに、随分と日が長くなったものだ。
静雄は目を僅かに眇め、窓から空を見上げた。
真っ青な空だ。浮かんだ綿菓子のような雲は、殆どその場を動かない。鳥が一匹羽ばたいて、大空を飛んでゆく。
静雄は携帯を取り出すと、そんな青空をカメラで撮ってみた。残念ながら写真では美しさは半減するけれど、それでも。

「それ、」

急に後ろから話し掛けられ、静雄は驚いて振り返った。
「綺麗だね。俺にも送ってよ」
誰もいなかった筈の廊下に、男がひとり立っていた。
ブレザーが多いこの学校で、嫌でも目立つ学ラン姿。男の癖にやけに綺麗な顔で、そしてとてつもなく性格が悪い、静雄の天敵──折原臨也。
「手前も撮ればいいだろ」
静雄はわざと大きく舌打ちをし、臨也から不機嫌に目を反らす。美しい空を見て穏やかだった心は、あっという間に苛々と波立つ。静雄はこの折原臨也が苦手──否、嫌いだった。
「そうしたいのは山々なんだけど、」
臨也は静雄の冷たい対応にもめげず、窓際に近寄って来る。その手には携帯を持っていたが、写真を撮る気はないようだ。
「生憎と、俺の携帯はカメラの調子が悪いんだ。新しいのに機種変しようと思ってるんだけどねえ」
大仰に肩を竦め、臨也は言い訳めいたことを口にする。無愛想な静雄とは対照的に、その顔には穏やかな笑みを浮かべていた。何も知らない人間が見たら、親しい友人同士だと思うだろう。少なくとも、表面上は。
「ねえ、もう一度見せてよ」
携帯電話を指差して、臨也は目を細める。静雄は渋々と、それでも警戒をしながら、臨也に携帯の画面を見せた。
「綺麗な空だね」
画面を覗き込んで、臨也は笑う。その距離は静雄には近過ぎに感じ、携帯を差し出したまま半歩後ろへと下がった。
「でも写真で見るより、実物の方がいいだろ」
静雄は視線を再び空へと移す。白い雲は相も変わらずそこにいて、まるで空だけ時間が止まったようだった。
「だけどそれを残して置きたいと思うのが人間だ」
だから君も、写真を撮ったんだろう?
臨也が笑いを含んだ声で問う。それは静雄の答えを聞きたいというよりは、最早確信だった。
「だから、その写真くれないかな?」
僅かに開いた窓からは、爽やかな初夏の風が入り込んで来る。その風は静雄の金の髪や、臨也の闇夜のような色の髪も、ふわりと優しく揺らした。
空はどこまでも遠く、そして青い。何故空は青いのか、何故雲が出来るのか。そんなことを考えた幼い頃の記憶は、もうどこかに消えてしまった。
「…送ってもいい、…けど…」
ほんの少し逡巡し、静雄はやがて口を開く。この澄んだ空を美しいと、同じ感情を抱いたのなら。写真の一枚くらい、くれてやっても良いと静雄は思えた。臨也が自分に願いを口にするのは、多分初めてだったから。
画像を送ろうと、赤外線通信の画面を見る。
「メールで送ってよ」
「あ?」
「そっちの方が助かる」
「……」
尚も笑顔な臨也に、静雄は不信感を抱く。が、結局はアドレスを交換してしまった。メールアドレスくらいなら、構わないだろう。
「ありがとう」
メールを受け取って、臨也は手を挙げて去ってゆく。
珍しいこともあるものだ。静雄に厭味もナイフも向けず、何事も無かったように帰るなんて。本当に写真だけが欲しかったらしい。
…まあ、珍しいのは俺もか。
殴り掛かったり、机を投げたりしなかった。それが普通のことなのに、臨也相手になると不思議なことに感じられる。変に胸の奥がざわついて、落ち着かない気持ちになった。
静雄は何となしに、臨也が階段の向こうに消えてゆくのを見送る。
窓から見える青い空。
入り込む爽やかな風。
太陽の光が反射した、長い廊下。
小さくなってゆく、学ラン姿の男。
静雄は手にしていた携帯で、その光景を写真に撮った。



その日を境に、たまに臨也からはメールが来るようになった。それはどうでもいい内容が殆どで、静雄はメールを返信したり、返さなかったりした。
臨也の策略で喧嘩に巻き込まれたり、ナイフで傷付けられたり、自動販売機を投げたり、標識を引っこ抜いたり──…いつもの日常に、メールのやり取りが加わっただけだ。
やがてそれは『たまに』、から『毎日』になり、少しずつ互いの話もするようになる。
顔を見合わせれば殺し合いのような喧嘩をするくせに、メールという文字の世界では普通の会話をするだなんて。
そう考えると酷く滑稽だ。
面と向かって話す時の自分と、文字の世界での自分。どちらが本当なのだろうかと、たまに良く分からなくなった。多分、どちらも本当の自分なのだ。ただ少しメールの中の自分は、『綺麗』な振りをしているのかも知れないけれど。
なんて下らないことを考えながら、静雄は自室のベッドに身を投げた。ギシッと揺れるスプリングと、柔軟剤の香りがする清潔なシーツ。手には携帯を握り締めている。
季節は過ぎ、もう頭上の空は夏の空になった。白い雲は大きく、形がはっきりとしている。あの時に見た空も綺麗だったけれど、今の季節の空も美しい。
明日から夏休みで、当分臨也とは顔を見合わすことはないだろう。正直に言うと、少しだけそれにホッとしている。誰かを恨んだり、嫉妬したり、憎んだり…そんなマイナスな感情は、精神が疲労する。
…メールならば、素直に話せるのに。
多分、それは、臨也も同じだ。メールでの臨也の文面は、いつもの皮肉や厭味が皆無だから。
静雄はいつの頃からか、臨也のメールを待っている自分に気付いていた。
大嫌いである筈の男からのメール。内容はさして重要ではなく、下らない内容が殆どで。なのに、静雄は毎日毎日、そのメールを待っているのだ。決して自分からは、送らないくせに。
その時、手にしていた携帯が震えた。
は、と思う間もなく右手はボタンを押していて、今来たばかりのメールを開く。
誰からか、なんて分かっていた。静雄がメールをやり取りする友人は僅少だ。
『突然だけど、シズちゃんは甘い物好き?』
唐突なメール内容だ。静雄は首を傾げ、携帯を片手に暫く悩む。直ぐにメールを返信するのは、待っていたことを知らせるみたいで気恥ずかしい。
けれど結局我慢が出来ず、静雄はメールを返した。
『本当に突然だな。嫌いじゃないけど』
すると、直ぐに返事が来た。
『俺も好きなんだけど、男で食べに行くの恥ずかしいよね(笑)。良かったら明日、シズちゃん一緒に行かない?』
このメールを見て、静雄は手に持っていた携帯を滑り落とした。




流行りの音楽が流れ、そこは洒落た雰囲気のカフェだった。客の殆どが女性で、男子高校生二人が入るには不釣り合いだ。それでも、どぎまぎする静雄とは対照的に、臨也は随分と落ち着いている。
「ケーキセットをふたつ。飲み物はアッサムをミルクティーで」
一番奥の席に案内され、臨也がスラスラとオーダーを口にする。静雄は紅茶は良く分からないので、ただ黙ってそれを見ていた。
昨日のメールで悩む静雄に、『奢ってあげるから』と言ったのは臨也だ。そこまで言うのなら、と、静雄は渋々と承諾した。本当はかなり動揺し、戸惑っていたけれど、メールにはそれは出ない。
会ったら喧嘩になるのではないか──。そんな不安を胸に抱きつつ、静雄は臨也と待ち合わせの場所に出向いた。そこには約束の時間のずっと前だというのに、もう臨也が待っていて、静雄は逃げ出したい衝動と戦わねばならなかった。勿論逃げるだなんて考えは、臨也が静雄に気付いたことで直ぐに消失したけれど。
店内は空調が良く効いていて、寒いくらいだ。臨也は夏だというのに長袖を着ていて、汗ひとつ掻いていない。真っ黒な服装な臨也とは対照的に、静雄は真っ白なTシャツ姿だった。なんだか意識をしているみたいなのが嫌で、普段着で来てしまったけれど、静雄は少しそれを後悔している。

「夏休みなんか予定あるの?」
「なんも。バイトの予定もねえし」
「田舎に帰省も?」
「ねえなあ」
「ははっ、俺もだ」

会話は普通に行われている。店内の他の客も、ケーキを運んで来る店員も、二人をただの友人だと思うだろう。本人達の内心の戸惑いなんて、誰にも分かりはしない。
怒らないように、怒らせないように。こんな簡単なことに、細心の注意を払って。
運ばれて来たミルクティーを飲んで、甘い上品な味のショートケーキを食べた。真っ白な生クリームに真っ赤な苺。大好きなケーキを前に、静雄は今、穏やかな気分だ。
二人は色々な話をした。そこには皮肉や厭味、暴言は一切なかった。毎日メールをやり取りしているのと同じく、下らない話だ。
静雄は臨也の話に相槌を打ちながら、内心でそれに驚いていた。顔を見合わせているのに、喧嘩をしないだなんて。
白く傷一つない皿に、苺が転がっている。静雄はそれにナイフを突き刺した。赤い果汁が白い皿に少しだけ飛ぶ。苺は酸っぱ過ぎず、程よい酸味だ。
そんな苺を咀嚼しながら、静雄はちらりと臨也を盗み見た。臨也の皿には、まだケーキが半分ほど残っている。食べないのだろうか、と訝しげにしていると、臨也がそれに気付いたらしい。微かに苦笑を浮かべた。
「実はね、俺あんまりケーキが好きじゃないんだ」
「え、」
その言葉に、静雄は目を見開く。確か昨日、臨也はメールで甘い物が好きだと言ってなかったか?だから付き合って欲しいと言っていたような…。
臨也は持っていたカップをソーサーに置いて、口端を吊り上げる。その赤い双眸は優しげに細められていた。
「シズちゃんと出掛けてみたかったから、嘘ついちゃった」
カシャン。
静雄は驚きで、手にしていたフォークを皿に落とす。幸い、もう皿の上には何もない。
目を丸くした静雄に、臨也は更に悪戯っぽく笑った。
「シズちゃんが好きな甘い物があったなら、メールみたいに話せるかなって」
馬鹿みたいだよね。
そう笑って話す臨也は、とても楽しそうだった。そんな邪気のない臨也の笑顔は、静雄は初めて見るもので。
かあっ、と静雄の頬に熱が集まるのが分かる。
なんだよ、なんなんだ。
こんなの反則だろう?
メールみたいに普通に話したい、なんて、同じことを考えていたって言うのか。
喧嘩しないで素直に話したいと、思っていたのは自分だけでは無かったのか。
ああ、もう!
こんな笑顔を見れるならば、メールなんかより現実で会う方が良いに決まってる。
静雄は赤い顔を手の平で隠し、臨也の食べかけの皿を自分の方へと引っ張った。ケーキに乗った手付かずの苺に、フォークをぐさりと突き立てる。
「これは俺が食うけど、」
無造作に苺を口に放り込んだ。
「甘いもんが苦手なら、無理すんな。こんなもん無くったって、いつだって付き合ってやるから」
普通に誘え。
静雄は早口でそう言って、口に入ったままの苺を噛み砕いた。口の中いっぱいに、甘酸っぱい果汁が広がる。けれど今の静雄には、苺の味なんて少しも分からなかった。
臨也はそんな静雄を瞠目して見ていたが、やがて唇で綺麗に弧を描く。
「今度からそうするよ」
テーブルに頬杖を付いて、臨也は笑う。
「夏休みは始まったばかりだしね」
夏休み中、喧嘩をしないて会えるのはどれくらいだろうか──。
怒りを抑える努力をしなくては。
静雄はそう思い、温くなったミルクティーを飲み干した。


(2011/04/26)
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