Be My Last





今日は朝からついていなかった。
目覚まし時計が遅れて寝坊はするし、冷蔵庫の牛乳は賞味期限が切れていたし、値上がった煙草は水溜まりに落として使い物にならなくなったし。
本当についてない。
そしてこんな日の締め括りに、天敵に遭遇してしまう。
ああ、神様と言うものが存在しているなら殴ってやりたい。もしも殴られたくないのなら、目の前のこの男をこの世から消してくれ。
「何をブツブツ言ってるのかなあ、シズちゃんは」
天敵は何故かコートのフードを被り、静雄から数メートル離れた箇所に立っていた。薄暗い路地裏で、闇に紛れるように。
「俺は今気分が悪い。だから早く去れ」
ふつふつと腹の底から湧き上がる怒りを無理矢理抑え込んで、静雄は有りったけの憎しみを込めて天敵を睨みつける。
臨也はそれを真っ直ぐに受け止め、口端を歪めて笑って見せた。フードで隠れた顔は残念ながら表情が良く見えない。
「シズちゃん」
「何だよ」
嫌な愛称で呼ばれるのに鬱陶しげに返事をし、静雄は真新しい煙草を口に銜える。時折吹く風を手で遮りながら、Zippoでそれに火をつけた。
「何でまだ息をしているのかなあ、君は」
揶揄するように言われた臨也の言葉に、静雄はピタリと動きを止める。ふわりと紫煙が舞い、空へと溶けてゆく。ぴくっとコメカミに青筋が浮かんだ。
「手前は黙って帰れねえのかよ」
全身の血が沸き立つみたいな感覚に、静雄はギリギリと歯軋りをした。青いサングラスの奥の目が、怒りで爛々と輝く。
「シズちゃんが俺に去れとか戯れ言だ」
臨也は喉奥でくぐもった笑い声を出し、フードをばさりと脱いだ。顕わになった白い顔は、憎たらしい程に端正な顔をしている。ただ静雄にはそんな外見など全く意味を為さないけれど。
「見逃してやるって言ってんのによ」
静雄は片手を伸ばし、路傍に立てられた標識に手を掛けた。怒りのせいで加減が出来ず、手にした部分がミシッと凹む。
それを介する事なく、静雄は標識を真っ直ぐに引き抜いた。アスファルトの欠片がパラパラと砂塵と共に道路に落ちる。
「それでこそシズちゃんだ。暴力を振るう事しか出来ない、暴力でしか存在を誇示出来ない。化け物みたいな君が、非力な人間である俺を見逃してくれるだなんて滑稽だね。君の優しさが俺には気持ち悪くてしょうがないよ」
アハハハハハハ、と高い声で笑って、臨也はナイフを袖から取り出した。ナイフなんて一寸も静雄には刺さりはしないのに、臨也はいつもいつもこうやってナイフを出す。刺さらない傷はそのまま静雄の心に傷をつけるのを知っているのだろう。
標識を振り回し、ナイフで衣服を切り付けられ、後はいつも通りの殺し合いだ。二人の共通の友人の闇医者は、これをただのじゃれ合いだと言う。そうかも知れない、と静雄は思う。もう何年も続いてきたこの喧嘩は、少しの惰性と意地の張り合いだ。きっとこの関係に変化なんて来ないのだろう。永遠に。

「いざやぁあぁあああぁぁぁぁぁあっ」

闇を裂く咆哮は天にまで届くようだ。60階通りを歩く人々は叫び声に驚き、あの二人だと分かるとあっという間に居なくなる。池袋でのいつもの風景。本来なら非日常なこの風景も、頻度が多ければただの日常だ。
赤い自販機が空を舞い、ガシャンと音を立ててアスファルトに落ちる。ひしゃげたそれから缶が次々と転げ落ちるのを踏み潰し、静雄は夜の街を駆けてゆく。
臨也は川越街道通りを真っ直ぐに進み、やがて見えた来良学園の塀をそのまま乗り越えた。
真っ暗な敷地に消えた臨也に、静雄は一瞬立ち止まる。今は名前を変えたその高校はかつての母校だった。
ちぃっと舌打ちをして、静雄もまた塀を乗り越える。最悪だった高校時代を思い出して、ますます怒りが湧いた。
静雄の高校生活は一言で言えば最悪。臨也と出会ってしまったせいで毎日が暴力を振るう日々だった。怒りに駆られ、全てを破壊し、その残骸を見てどれだけ後悔をするかなんてきっと誰にも分からない。

学内にはさすがにもう生徒も教師も居ないようで静まり返っている。臨也であろうともさすがに校舎には入れない筈だ。きっとグラウンドの方だろう。
静雄はそう考えてグラウンドへと足を向けた。

「シズちゃん」

憎たらしい声がして振り返れば、トラックがある南側のフェンスに、臨也が腰を掛けていた。丸い大きな月を背にして。
暗闇で静雄からは臨也の表情は見えない。けれどその声はいやに静かに自分の名を呼んだ。静雄はその違和感を敏感に察知し、眉間に皺を寄せる。
「臨也?」
自身の怒りが緩やかに治まっていくのが分かった。フェンスの向こうにはキラキラと水面が光り輝いている。そう言えば塩素の匂いが僅かにして、ここはプールなのだと思い出した。
臨也はそんな静雄に微かに笑ったようだ。フェンスを降り、向こう側へと着地する。
「おいでよ」
誘うようなその言葉に、静雄は少し躊躇った。臨也の言うことを黙って聞くのは癪だ。何かを企んでいるかも知れないし、それに今まで何度も痛い目に遭ってきた。
けれど何だか臨也はいつもと様子が違う。静雄は暫し迷い、結局フェンスを飛び越えてプールサイドへ降りる。
プールはこの時期だと言うのに水がたっぷりと入っていた。月明かりに照らされて水面が煌めくのに、静雄は思わず目を細める。
臨也は静雄に背を向けてプールサイドに立っていた。真っ黒なコート、真っ黒なパンツ。頭にはまたフードを被っている。闇に紛れるには最適の格好だ。
静雄はそれを眉を顰めて見遣るが、声は掛けなかった。何か用事があるのはあちらであって、静雄ではない。さすがにわざとここに誘導されたのだと、もう静雄も気付いている。
「シズちゃん」
臨也はこちらに背を向けたまま、話し出す。
「過去を後悔したことはあるかい?」
今まで生きてきた人生を、否定したくなったことは?
臨也の声は抑揚がなかった。
「前者はある。後者はねえよ」
不意に煙草が吸いたくなって、ポケットへと手を伸ばす。だが既に煙草のソフトケースは空になっていた。静雄はそれに舌打ちをし、ぐしゃりと握り潰す。
「シズちゃんでも後悔何てあるんだねえ。後者を否定したのは意外だけれど」
臨也は振り返らない。
「誰でもあるだろ、そんなのは。後者のは考えてもしょうがねえから考えねえだけだ」
冷たい風が吹いて、静雄の金の髪を揺らす。その風はプールの水をも波立たせた。
「俺は一つ後悔しててね、」
臨也の言葉は続いていく。静雄に聞かせると言うよりは、独り言のように聞こえた。
「俺の人生最大の誤算だ。それによって人生が狂ってしまった」
臨也の声を聞きながら、静雄は考える。今こいつはどんな顔をしているのだろう。声に感情はなく、僅かな乱れも読み取れない。でも多分、いつものあの表情を浮かべている気がした。
「何だと思う?」
臨也は唐突に振り返る。赤い双眸を真っ直ぐに静雄に向けて。
「知るかよ」
静雄はその眼差しを受け止め、睨み返してやった。臨也の人生など、静雄にとってはどうでもいい。
「君に出会った事だよ」
そう言って臨也の目が、猫のように細められる。口許には笑みを浮かべて。
静雄はそれに何も答えず、ただ眉間の皺を強くした。不愉快な事を言われている筈なのに、不思議と怒りが湧いて来ない。
「君と出会ってしまって俺の人生計画は無茶苦茶だ」
一歩、臨也は静雄に近付く。
「…お互い様だろ」
静雄は動かない。
「そうだね、お互い様だ。だけど君と出会わなかったらどうなるかを考えてみた」
また一歩、臨也の足が静雄へと進む。静雄はそれでも動かなかった。
「結果、想像つかなかったよ。俺と君は多分高校が違っていてもいずれ出会っただろう。池袋にいる限り」
臨也の言葉を聞きながら、静雄はそうだろうなと思う。きっとこれは避けられない出会いなのだろう。それが早いか遅いかなだけで。
いつの間にか至近距離にある臨也の顔に、静雄は少し身構える。思えばこんなに近い距離で顔を見るのは初めてだ。

「シズちゃんはどうしてまだ生きてるのかな」

臨也は酷く無表情な顔でそう言うと、静雄の体を急にプールへと突き落とした。
「!?」
ザパーンッと勢いよく上がった水しぶきは、プールサイドをフェンスの方まで濡らす。
プールの水が口や鼻からも浸入して来るのに、静雄は慌てもがいて浮遊した。足がつくプールで溺れるなど有り得ないが、不意打ちのせいで水をしこたま飲んでしまった。
げほげほと苦しげに咳込んで、静雄は水から顔を上げる。臨也はそれに笑って、ただプールサイドに立っていた。
「何すんだ、手前…っ」
「死なないかなあって思って」
臨也はちっとも悪びれず、両手を上げて肩を竦める。芝居がかったその態度に、静雄は怒りよりも呆れてしまった。
「こんなんで死んで堪るか。手前が死ね!」
「うん、シズちゃんはこんなことじゃ死なない」
分かってるよ。と臨也は言い、自身もプールに飛び込んだ。
水しぶきが上がって、静雄はそれに一瞬顔を背ける。突然の臨也の行動に、静雄は驚いて言葉を失った。
臨也は水から顔を出すと、雫が垂れる前髪を掻き上げる。ブランド物であろうコートはぐしゃぐしゃだ。
「…お前馬鹿か」
呆れたように静雄が言うのに、臨也は肩を竦めて笑う。
「死んでくれないようだから、俺は自身の感情を認めるしかないと思ってね」
臨也はそう言って静雄の手を掴んだ。静雄の目が驚きで見開かれる。
「なんの話だよ」
「分からない?」
臨也の腕はそのまま静雄の体を抱き寄せた。冷たい水の中で、互いの体温だけが熱を持つ。
「本当はずっとずっと前から気付いてたよ。でもシズちゃんが死んだらそれも消失する筈だった」
だから本当は、伝える気なんてこれっぽっちも無かったのだけれど。
臨也の手が伸びて、静雄の顔を両手で掴んだ。水で濡れた静雄の白い肌は、酷く冷たい。触れ合った箇所だけが熱かった。
静雄は目を丸くしたまま、ただじっと臨也を見ている。心臓がドクドクと音を立て、酷く耳障りだった。顔が赤いのが自分でも分かる。
臨也、と口にしようとした声は、発することができなかった。やがて近付いて来た臨也の唇に塞がれてしまう。
触れるだけの口づけは、プールの匂いがした。
静雄は目を開いたまま、それを受け止める。冷たかった唇から熱が伝わって、体が熱くなってゆく。
臨也の舌が優しく静雄の唇を舐めて、やがて離れて行った。



「君が好きだって言ってるんだ」




(2010/10/13)
ツイッタのフォロワーさんからのリクエスト。
夜のプールでお互いびしょびしょになりながら静雄に告白する臨也 でした!
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