卒業生 1






仕事から帰って来るなり、セルティはヘルメットを脱いだ。ヘルメットを脱いでも現れる物は何もない。彼女には頭部がないのだ。首からは霧のような黒い物質がユラユラと出ている。
「おかえり、セルティ」
新羅はいつもの白衣姿で愛しい彼女を迎えた。
ただいま、とセルティは答え、何かを新羅へと差し出す。
『ハガキが来ていたぞ』
そう言われて渡されたハガキには、クラス会の案内と書かれていた。
「へえ!」
新羅はそれを楽しげに受け取る。高校のクラス会の案内だった。それも一年生の時の。
「一年生のクラス会とか珍しいなあ」
新羅はハガキを見ながらテーブルに頬杖をつく。思い出すのは高校一年の頃のクラスメイトたち。結構楽しかったな、と思いながらふと気付く。
臨也と静雄にも案内行ってるのかな?
未だに仲が最悪なあの二人は、一年間だけ同じクラスだったのだ。お陰で普段から授業は中断、行事という行事は目茶苦茶、教室は崩壊寸前。とにかく酷い有様だった。
二年生になってからは学校側も懲りたらしく、あの二人が同じクラスになることはもうなかった。三年生も同様に。
「二人共来なそうだけど…」
新羅は胸ポケットからペンを取り出すと、出席に丸をつける。「二人が来たら面白いだろうなあ」
ふふっ、と新羅は笑い声を上げた。





起き上がると眩暈がした。
視界が暗くなるのを瞬きをしてやり過ごし、静雄はベッドから出る。
キッチンへ行き、冷蔵庫から冷たい水を取り出して一口飲んだ。勢い余って口から零れ、それは顎を伝って床に落ちる。静雄はそれを全く介する事なく、濡れた口許を拭う。時計を見ればまだ明け方の時間で、起きるにはまだ早かった。
静雄は部屋に戻るとカーテンを開けた。まだ外は薄暗く、鳥の鳴き声さえも聞こえない。空はどんよりと曇っていた。
何か夢を見ていた気がするが、思い出せない。ただ、嫌な夢だったと思う。
なぜなら自分がこの世で一番嫌いな男が出て来た気がするから。それも学ラン姿で。だから多分、高校の時の夢だろう。
高校時代の夢を見たのはこのせいか。
静雄はテーブルの上のハガキを手にし、眉を顰めた。
高校一年生のクラス会の案内状。ハガキは一度捨てた為、ぐちゃぐちゃになっていた。新羅が一緒に行こうと懇願しなければ、そのままごみ箱に放置していただろう。
あの男は来るだろうか。
いやでも思い出してしまう存在に、静雄は軽く溜息を吐く。
あの男、折原臨也。静雄の天敵。臨也とは高校の一年生の時だけ、同じクラスだった。
たまに池袋で見掛けるものの、まともに会ったのは二年前の卒業式が最後だ。あの男は卒業して直ぐ新宿に行ってしまったから。それ以来、臨也とは口を利いていない。二年もの間。
静雄はまだ薄暗い空を、ぼんやりと見上げる。空はずっと遠くがまばゆい光りで溢れていた。朝がやって来る。
思い出したくないのに、何年経っても記憶は鮮明だ。眼差しも声も仕草も温もりも、静雄はずっと覚えている。卒業してからもう二年も経つのに、いつまでもそれは風化することがない。
もう直ぐまたあの季節がやって来る。暖かい風、花の香り、春の気配。
今年は季節外れの雪は降るだろうか。
静雄は溜息を吐き、カーテンを閉めた。






案内された席にいた真っ黒な服装の男に、静雄は目を見開いた。
漆黒の髪、赤い瞳、端正な顔。臨也はその形の良い唇を歪め、真っ直ぐに静雄を見た。その赤い双眸で。
「帰る」
臨也の姿を見るなりそう言い出した静雄を、新羅は慌てて引き止める。
「せっかく来たんだからいなよ。二人とも二年ぶりだろう?」
そんな二人のやりとりを、臨也はただ薄く笑って眺めていた。そんな態度にも神経を逆撫でされ、静雄は怒りが湧き上がる。
新羅は臨也の左隣に座り、自分の左隣に静雄を座らせた。今にも静雄は臨也に殴り掛かりそう雰囲気だったが、他の人間の目もあり黙っていた。一応はクラス会に気を使っているらしい。
「相変わらずだねえ、シズちゃん」
臨也はテーブルに手を組むと、片方の眉を吊り上げる。口許には笑みを浮かべながら。眉目秀麗な顔が作り出す笑みは、例え嘘のものでも美しかった。
静雄はそれには答えず、大層不機嫌な顔でそっぽを向く。コメカミには青筋が浮かんでいて、隣にいる新羅には歯軋りさえも聞こえて来るくらいだ。
自身の手が僅かに震えているのを、静雄は気付かない振りをした。新羅もきっと気付いていない。臨也にはもっと気付かれたくなかった。二年振りに会って、動揺している自分。あの頃と全く変わっていない。自分を見つめる眼差しも。
意外にもクラス会にはかなりの人数が集まった。二十歳になって、飲み会に参加したい者が多いのかも知れない。元担任の挨拶やら乾杯やらが終わると、後は自由気儘に飲食ができる。元々無口な静雄はただ黙々と食べ、酒を飲んでいた。
「静雄、あんまり強くないんだからペースを落としたら?」
新羅が心配しても、静雄は生返事をするだけだ。案外もう酔っているのかも知れない。そう言えば頬が少し赤い。静雄は色が白いので直ぐ分かる。
そんな静雄を見ても臨也は何も言わなかった。ただ薄く笑って飲んでいるだけだ。新羅にはそれが寧ろ怖い。あの臨也が静雄をからかったりしないなんて。
飲み会も中盤になり、元クラスメイト達が何人も挨拶に来た。あちらから来ない限り三人は全く動かないからだ。静雄は案の定、殆ど誰か分からないらしく、適当に話しを合わせていた。
「今の誰だ?」
静雄は相手がいなくなるといちいち新羅に確認するが、説明されても分かっていないようだった。クラスメイトだった時でさえ、名前も覚えていないのだから当然だろう。静雄の高校時代の知り合いと言えば、臨也、新羅、門田、獅子崎先輩ぐらいしか覚えていないかも知れない。
静雄がトイレ、と言って席を立つ。酔いのせいか足元がふらついていた。
そんな静雄を心配そうに見送りながら、新羅は隣にいる臨也をチラリと見る。
「どうしたの」
「何が?」
「静雄にちょっかい出さないからさ」
カラン、と新羅が持つグラスが揺れた。中の氷が溶けたのだろう。
「そうかな」
臨也はゆっくりと酒を口に運び、静雄が消えた通路を見詰めていた。
「君が静雄をクラス会に連れて来いなんて言うから、やっと説得したんだよ?」
もっと感謝して欲しいよね!と、新羅は大袈裟に腕を広げる。臨也はそれに薄く笑って、立ち上がった。
「感謝しているさ。でもシズちゃんは新羅が言わなくても来たかも知れないね」
「追い掛けるの?」
新羅は驚いて臨也を見上げる。臨也は口端を歪めると、肩を竦めた。
「かなり酔ってるみたいだから様子を見てくるよ」
「…喧嘩しないでよ?」
新羅の言葉に臨也は笑って狭い通路を歩いていく。新羅は一抹の不安を覚え、臨也の後ろ姿を見送った。



酒が入ってふらつく足取りで、静雄はトイレから出た。
洗面所の蛇口を捻って、冷たい水を両手で掬う。それは指の隙間からポタポタと零れ落ちた。静雄の白い腕を伝い、捲らなかった袖をも濡らす。
頭を下げて俯いて、静雄は水が流れる様をじっと見ていた。自分のキャパシティを超えて飲んだアルコールは、思考能力を低下させている。
漆黒の髪。白い肌。赤い瞳。臨也の姿を見たのは随分と久し振りだ。
このクラス会に来るかも知れないとは思っていた。覚悟はしていたはずなのに、やはり姿を見ると胸がざわついた。
ムカつきと後悔と罪悪感と。そう言うものが全てごちゃまぜになって、静雄は臨也を見ていると居た堪れなかった。そのせいで余計に酒の量が増える。
静雄は溜息を吐いて顔を上げた。その途端にふらりと体が揺れるのに、不意に伸びてきた手に支えられる。真っ白で華奢な手。
「大丈夫?」
からかいを含んだ声に顔を上げれば、臨也が立っていた。笑みを浮かべて。
「離せ」
静雄は離そうと身を捻るのに、支えた手は離れない。
「飲み過ぎだよ」
臨也は低い笑い声を漏らす。その白い手で、静雄の頬に触れた。
「顔も熱いね」
触れてきた臨也の手は少しだけ冷たく、酒で火照った静雄には心地好い。けれど静雄はその手を振り払った。触れられていたくなかったから。
臨也はそれには何も言わず、ただ片眉を吊り上げる。口許に笑みを残したまま。
「本当に久し振りだね」
卒業式以来かな、と臨也は言う。静雄はそれに盛大に舌打ちをした。
「手前がいるの知ってたら来てねえよ」
「ふうん」
臨也は静雄が出しっぱなしにしていた蛇口を止める。水音が無くなり、店内の喧騒がトイレにまで聴こえて来た。それはいやに遠くに聴こえ、まるでこの場所だけ切り離されたような感覚に陥る。
「まあそう言うことにしておくよ」
臨也は静雄を見遣って笑う。静雄はそれにうんざりして目を逸らした。
見透かされてる。こいつはいつもこうだ。
静雄は濡れた手を乱暴に拭い、さっさとトイレから出て行こうとする。すると扉に掛けたその手を、臨也が後ろから掴んだ。驚く静雄の体を自身に向かせ、正面から抱き寄せる。こんな、誰が来るとも分からない場所で。
「抱き心地は変わらないね」
耳元に唇を寄せ、臨也は低く笑い声を上げた。びくりと静雄の体が震える。
「離せ」
静雄は臨也の体を押し返した。酔いのせいだけじゃなく顔が赤いのが自身でも分かる。臨也は意外にも簡単に腕を離し、口角を吊り上げて目を細めた。
「覚えてるみたいで良かった」
「何がだよ」
酔いのせいか、頭がクラクラする。静雄は額を手で押さえ、臨也から目を逸らした。
「俺に抱かれたこと」
この言葉に、静雄は冷水を浴びせられたような固まった。目を見開き、思わず臨也を見る。
臨也は口角を吊り上げたまま、赤い双眸を細めた。その目は笑っていない。
「まあ忘れられるわけないよね。男に抱かれたなんて」
「黙れ」
くらり、と眩暈がする。
額を押さえた自分の手が震えているのが分かった。酒のせいで思考が追い付かない。
ふらつく足取りでトイレから出ようとする静雄を、臨也が腕を伸ばして抱き寄せた。
「相当酔ってるみたいだね」
「…離せ」
「そんなフラフラで良く言うよ」
減らず口を叩く静雄に、臨也は僅かに苦笑する。背中に腕を回して静雄の体を支えると、トイレから出た。
席に戻ると、驚いた様子の新羅が慌てて近寄ってきた。
「大丈夫なのかい?だから飲み過ぎないように言ったのに」
臨也と新羅は静雄を席に座らせる。静雄は席につくと、そのままーブルに突っ伏してしまった。完全に潰れている。
「あーもう、しょうがないなあ」
新羅は静雄の背中を摩ってやるが、静雄はもう意識がないようだった。
「静雄みたいなでかい人間を連れ帰らなきゃいけないなんて…」
大袈裟に嘆く新羅に、臨也は肩を竦める。
「俺が連れて帰るよ」
「…静雄が怒るんじゃない?」
苦笑する新羅に、臨也は目を伏せて笑った。
「シズちゃんに怒られるなんて今更だよ」


続 
(2010/10/10)
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