卒業生 2





ゆっくりと瞼を開くと、薄暗い天井が見えた。
まだ思考がはっきりしない頭で横を向くと、カーテンもブラインドもない窓が見える。
ここはどこだろう。
静雄は体を起こし、部屋を見回す。見慣れない部屋。
寝室にしては広い部屋に、キングサイズのベッドがひとつ。殆ど家具はなく、壁には間接照明だけだ。耳をすませば時計の秒針の音がする。
どうやら旧友の闇医者の家ではないようだ。だとしたら、可能性があるのは一人しかおらず、静雄は額に手をやる。ズキン、と頭が少し痛んだ。
ベッドから下りれば、フローリングのヒンヤリとした感触が足に伝わる。静雄はそれに自分が裸足なのを知る。窓に近づけば高い位置に夜景が見え、それは見慣れた夜景ではなかった。街のネオンから、ここがどこかを理解する。新宿、だ。
静雄は部屋の扉を開け、廊下に出た。
早く。
早くこの家から出なければ。
あの男に見付かる前に。

「どこ行くの?」

玄関らしき場所に着くと、後ろから声をかけられた。少し高い、揶揄するような喋り方。
静雄はその声にぴたりと動きを止める。ああ、もう。無視をしてしまいたい。だけど残念な事に、ここは相手のテリトリーだ。
静雄は諦めて振り返った。
臨也は唇の端を吊り上げて、芝居がかった大袈裟な態度で両手を上げる。
「介抱してあげたのにさ。黙って帰っちゃうわけ?」
臨也の言葉に、静雄はギリギリと歯軋りをした。
「何が介抱だ」
わざわざ新宿まで連れて来るなんて。嫌がらせに決まってる。
「だって俺、君んち知らないからさ」
臨也はあくまでも笑みを崩さない。
「新羅んちでいいだろが」
「新羅は急患とやらで先に帰ったよ」
「……」
静雄はちっと舌打ちをした。臨也の言葉が本当か嘘かは分からないが、今度一発ぐらい新羅を殴らねば気が済まない。大体クラス会は新羅が誘ってきたのに。
「まあ、シズちゃんを連れて来るのは大変だったけどね」
憎たらしい表情で、臨也は笑う。赤い綺麗な瞳を、まるで猫みたいに細めて。
「だったら放置すればいいだろ」
そっちの方が静雄にとっても都合が良かったのに。
「酔っ払った知り合いを寒空に放るほど薄情じゃないよ」
それとも。と、臨也は静雄の耳元へ唇を寄せた。吐息が微かに耳へと触れる。
「ホテルの方が良かった?」
そう囁かれた言葉に、静雄はカッとして臨也の体を押しやった。顔が熱いのが自身で分かる。
「手前の冗談に付き合ってらんねえよ」
静雄はきつく睨み返したが、臨也には通じない。相手は変わらず笑みを浮かべたままだ。
「取り敢えず少し話をしない?さっきはちゃんと話せなかったからさ」
「俺には話すことなんてねえ」
寧ろ、こうやって向かい合っていることさえ拷問だ。赤い目に、何もかも見透かされそうで。
「まあそう言わずに。おいで」
飲み物でも振る舞うよ、と臨也は寝室とは反対方向へ歩き出す。まるで静雄がついて来るのを知ってるかのようだ。
静雄はそれにうんざりとする。こいつはいつもこうだ。我が儘で自己中心的。相手の都合などお構いなし。そして一番うんざりとするのは、それに従ってしまう自分。
静雄は臨也の後に続いて、広いリビングへと入った。仕事場も兼ねているらしく、ファイルやらパソコンやら、いかにも事務所的な場所だ。
「酔いはどう?」
冷たい水の方がいいかな、と臨也はペットボトルを持って来た。テーブルの上に、ペットボトルとコップを置く。
静雄はそれには答えず、ただ黙って突っ立っていた。馬鹿みたいに。
「それより話ってなんだ」
半ば予想はついていたけれど、話しの口火を切る。早く話さねば、帰ることが出来ない。
「座ったら?」
そう促されても頑として立っている静雄に、臨也は肩を竦める。
「頑固だね」
「黙れ」
静雄は臨也を睨みつけたままだ。臨也はそれに目を細めた。
「本当に変わってないねえ、シズちゃんは」
テーブルのペットボトルを手にし、臨也は蓋を開ける。冷えたそれを、グラスになみなみと注いだ。
「高校の頃のままだ」
「俺は高校の頃なんて、思い出したくねえよ」
水が入ったガラスを見つめながら、静雄は盛大な舌打ちを一つ。三年間、毎日毎日嫌な目に遭っていた。目の前の男のせいで。今でも思い出すだけで怒りが湧く。
「最後には俺に抱かれたし?」
臨也がさらりと言った言葉に、静雄は酷く動揺した。きつい眼差しで睨むけれど、きっと臨也にはお見通しなのだろう。
何故この目の前の悪魔みたいな男は、今更こんなことを言い出すのだろう。もう二年も前のことを、今更何故。
「何で今更」
静雄は顔を手で押さえる。まだ残っている酒のせいで、頭が上手く回らない。
「二年も前の事を何で言い出す?」
その間、何も言って来なかった癖に。
一日も忘れたことなどなかった。季節外れの雪が降ったあの日。温もりも声も感触も今でも思い出すことができる。風化することなく、鮮明に。
後悔なんてどれだけしたことか。忘れたくて忘れたくて、毎日うんざりした。
けれども忘れることなんて出来ず、ずっと捕われている。ずっとずっと。
「あの時、あの場所で、君に会わなければ、」
俺はきっと、抱いたりはしなかっただろう。
臨也はそう言ってグラスを手にした。静雄はその言葉に、眉を顰める。
「新宿に行くのは前から決めていたし、シズちゃんとはもう離れようと思っていたから」
飲みなよ、と。臨也がグラスを静雄に差し出す。静雄はそれを素直に受け取った。一口だけ口に入れると、冷たいそれは火照った体に心地好い。
「俺だって手前と離れられて清々した」
心底そう言ってやると、だろうね、と臨也は笑う。
「屋上で、キスをしたのを覚えてるかな」
「……」
静雄は黙っていた。答えなんて、口にしなくても臨也は知っている。
「あれでやめようと思っていたんだけど」
「何をだよ」
静雄は手にしていたグラスをテーブルへ置く。カタン、と音が響いた。
「シズちゃんを好きなこと」
この言葉に、静雄はぴたりと体を硬直させた。睨んでいた筈の色の薄い瞳が、驚きで丸くなる。
臨也はそれを酷く嬉しそうに見て笑い、肩を竦めた。
「滑稽だろう?俺はシズちゃんが好きだった。Likeではなく、Loveとしてね」
「…嘘を、」
つくな。と言う言葉は、口から出なかった。頭がズキンと痛んで、静雄は額を手で押さえる。
「どうして嘘をつく必要があるのかな?俺はあの時も言った筈だ」


シズちゃんが好きだからだよ。


静雄の脳裏に、あの時の映像が鮮やかに甦った。
雪が積もった道。歩道橋の高架下。冷たい風。白い息。学ランにマフラー。

卒業の思い出にさあ、駄目?

あの時臨也はそう言ったのだ、悪魔みたいに笑って。
「もう諦めようと思っていた」
臨也の瞳は赤く、真摯だ。静雄は黙って臨也を見詰めている。
「殺したいくらい憎かった相手を好きだなんてさ。自覚して笑ったよ、滑稽過ぎて」
臨也はそこで一度言葉を切った。ほんの数秒、部屋に沈黙が落ちる。
「だから新宿に逃げ出した。二年間も」
一度だけ、好きな相手を抱いたのを思い出に。
静謐な空間に、時計の秒針の音だけがする。静雄はただ、馬鹿みたいに目の前の赤い瞳を凝視していた。身動き一つせずに。
「…ふざけんな」
ふつふつと怒りが湧いて来る。
「何が、諦めようだ」
自分が今までどう言う思いでいたと思っているのだろう。ずっとずっと引きずって来たのに。好きだ何て言われて、抱かれて。
会いたくなかった。
高校時代の思い出なんて、何一つ良い事はなかったから。けれど。
クラス会に来たのは、ひょっとしたら会えるんじゃないかと思ったからだ。会いたくない気持ちと全く反対の感情を、自分で抱いているのは分かっていた。
「俺は、」
ぐちゃぐちゃと怒りや不安や焦燥や、たくさんの感情が混ざり合って溶けていく。静雄はそれを口にしたいのに、言葉にならない。
「俺はずっと、」
「シズちゃん」
名を呼ばれて顔を上げれば、臨也が直ぐに傍に立っていた。
「言わなくていいよ。分かってるから」
臨也の手が、優しく静雄の髪を撫でる。腰に片手を回され、抱き寄せられた。
「ごめん」
何がごめんなのだろう。静雄は分からない。謝って欲しいわけじゃない。
「うん。でも謝らせて」
静雄の心を読んだのか、臨也はそう言って静雄の肩口に額を埋めた。
「俺には、諦めるの無理だったよ」
ぴくっと静雄の体が揺れる。まだ酔いではっきりしない頭で、今の言葉を反芻した。
「分からない?」
臨也は静雄の顔を覗き込んで苦笑する。静雄はそれに首を傾げた。

「まだ君の事が好きだって言ってるんだ」

臨也は目を細めて笑った。

(2010/10/12)
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