同級生





フェンス越しに見える風景はなんだか自分が檻の中にいる気がした。

薄い色をした青空、小さな白い雲。静雄は屋上のフェンスに手を掛けて、ぼんやりと池袋の町並みを見ていた。
時折寒い風が吹くのに、静雄はただ黙って外を眺めている。良く見れば制服はボロボロで、腕には血が滲んでいた。血は腕から手を伝い、ポタポタとコンクリートの床に染みを作っている。
「寒くないの」
不意に後ろから声を掛けられるのに、静雄の肩が揺れる。振り向かなくても誰かは分かっていた。他の生徒は今授業中だし、わざわざ自分に声を掛ける相手は少ない。
「こっちに来るな」
湧き上がる怒りを無理矢理抑え込んで、静雄は振り向きもせずに拒絶する。
相手はそれに笑ったようだ。顔を見なくても、静雄は今相手がどんな表情をしているか分かる。
「血が出てる」
相手の手が、血まみれの静雄の手を掴んだ。静雄はそれに驚いて、思わず振り返る。思っていたより間近に赤い瞳が在るのに息を飲んだ。
「手、冷たいね」
臨也は口角を吊り上げて笑い、血まみれの静雄の手に唇を寄せる。臨也の赤い舌が赤い血を舐めるのを、静雄は呆然と見ていた。
「血は普通の味なんだねえ」
「離せ」
静雄は臨也の手を振り払った。コンクリートに血が飛び散って、花のように模様を作る。臨也はそれにまた笑い、唇についた血をぺろりと舐めた。
「新羅に治療してもらったら」
「どうせ直ぐ治る」
静雄は傷付いた腕を押さえ、臨也を睨みつける。大体この傷がついた理由は、臨也のせいだろう。良くもいけしゃあしゃあと言えるものだ。
「俺じゃないよ、それ」
静雄の考えが分かったのか、臨也は肩を竦める。
「シズちゃんは有名だから、俺が関与してなくても喧嘩を売られるだろう?」
有名になったのはお前のせいだろ、と言う言葉を静雄は飲み込んだ。今更ながら傷つけられた腕が痛い。傷口は塞がっても痛みは残る。
「シズちゃんを傷付けるなんてどうやったのやら」
ご教授願いたいもんだね、と臨也は芝居がかった態度で両腕を上げた。
静雄はチラリとコンクリートの床に目を落とす。もう血は止まったらしく、こぼれ落ちてはいなかった。ひょっとしたらこの場所に来るまでにも校内を血で汚しているかも知れない。
「シズちゃんが野垂れ死にしても俺は心痛まないけどさ」
臨也は手についた静雄の血を舐めながら、一歩距離を詰める。
「俺の知らないとこで死んだり傷つけられるのはちょっと気に入らないかなあ」
「死ね」
静雄は臨也を睨んだまま、一言そう吐き捨てた。
臨也がフェンスに片手をついて、静雄を後ろに縫い留める。カシャンとフェンスが音を立てるのに、静雄は内心少し動揺した。
臨也の端正な顔が近付いて来るのに、静雄は目を開いたままだった。唇が触れるその瞬間さえも。
触れただけのキスは血の味がし、唇の感触は柔らかい。
臨也の長い睫毛が伏せられ、中から赤い目がじいっと静雄を見詰めている。静雄はただ臨也を睨み返していた。抵抗もせず。
「こう言う時は目を閉じるものだよ」
臨也は唇を離すと薄く笑う。自分だって目を開いたままだった癖に。静雄は手の甲で乱暴に唇を拭った。
「気は済んだかよ。早く出てけ」
「初めてじゃなかった?つまんない反応だなあ」
「黙れ」
臨也が薄く笑うのに、静雄は舌打ちをする。頭が痛くなりそうだ。
「そうだね。珍しくシズちゃんがやり返して来ないうちに退散しよう」
臨也は大袈裟に肩を竦めると、静雄から距離を取る。体を離す瞬間に静雄の耳元に唇を寄せて、「ごちそうさま」と囁いた。
カッとなった静雄が手を上げればそれは空を切り、臨也はもう出口へと走り去るところだった。あははは、と笑い声を上げながら。
バタン、と臨也が出て行き、重い金属の扉が閉まる。
静雄はそれを見届けると溜息を吐き、再び唇を拭った。



「わあっ、雪だよ」
新羅がそう言うのに静雄は顔を上げた。少しばかりの結露が張り付いた窓の外には、粉雪がふわふわと舞い落ちている。
「寒いと思ったら…もう3月なのに」
異常気象なのかなあ。と、新羅は机に頬杖をついて笑った。視線を窓の外に向けたままで。
「お前でも雪に感激すんのか」
静雄にはそれが少し可笑しい。目の前の闇医者志望の友人が酷く嬉しそうだったから。
「嬉しさ半分、鬱陶しさ半分かなあ。寒いし」
新羅は両肩を抱いて、大袈裟にぶるっと震えた。迫真の演技なのに、ちっとも寒そうに見えない。
「あ、臨也だ」
新羅は窓の外に友人を発見したらしい。静雄はその名前に条件反射に顔を顰め、釣られて窓の外を見た。
黒い学ラン姿の男が首にマフラーを巻いて、校舎から出て来るところだった。女連れで。
「臨也ーっ」
空気を読まない新羅は、窓を開けて臨也に手を降る。窓を開けた途端に入り込んだ風に、静雄は慌てて机に広げたままのプリントを押さえた。
臨也はこちらを見上げて笑ったようだ。その赤い目は新羅ではなく、静雄を捉える。それが分かると静雄は無意識に顔を逸らした。
あの日のキス以来、静雄は少し臨也を避けている。珍しく臨也からも何もして来ないし、お陰でここ数日は平和だ。
「また違う彼女だ」
新羅は臨也に笑って手を振りながら、呆れたような声を出す。臨也の彼女と言うポジションはころころと良く変わる。高校生活最後のお相手は今の女らしい。
そんなことよりも静雄は自身の金の髪が風で揺れるのが鬱陶しかった。
「いい加減閉めろ」
「ごめんごめん」
新羅はちっとも悪びれずに謝罪し、やっと窓を閉める。静雄は乱れた金髪を、手で整えた。
「高校生活三年間で、臨也の彼女は何回変わっただろうね」
「俺には関係ねえ」
机に散らばったプリントを手にし、静雄はちらりと外に視線を移す。臨也の姿はもう小さくなっていた。
「そう言えばこないだの怪我さ」
「怪我?」
「君の腕」
完治が早いから忘れちゃうのも早いね!と新羅は笑う。
「臨也が仕返ししたみたいだよ」
「は?」
新羅の言葉に、静雄は目を丸くする。その顔はまだ幼さが残っていて、新羅は少し静雄の子供のころを思い出した。
「仕返しって言っても暴力じゃないけどさ。何か色々手を回して警察に突き出したみたい」
臨也って怖いよね、と新羅が笑うのに、静雄はまだ驚いた顔をしていた。
「何であいつがそんな事すんだよ」
「君を怪我させたからだろう」
決まってるじゃない、と新羅は肩を竦める。
「臨也は独占欲の塊だから、相手を許すわけないよ」
「……」
静雄は困ったように目を逸らした。手にしていたプリントが握り締め過ぎてぐちゃぐちゃだ。それに気付いて慌ててプリントの皺を伸ばす。プリントには卒業式についてと書かれていた。

彼等は明日、この学校を卒業する。




静雄が新羅のマンションを出ると、もう外は夜になっていた。学校帰りに少し寄っただけのつもりが、あっという間に時間が経ってしまったようだ。
道端には雪が白く積もっている。季節外れの雪は、きっと夕方のニュースになっただろう。
雪のせいか人通りが少ない道を、静雄は歩く。滑らないようにゆっくりと。雪を踏み締める感触は嫌いではなかった。こんな風に制服姿で歩くのももうすぐ終わりだ。三年間で制服はいつもボロボロ。中のシャツも何度変えたかとか分からない。
静雄の高校生活は一言で言えば最低最悪だった。
毎日毎日大嫌いな奴の顔を見て、大嫌いな筈の暴力を振るい、平穏に過ごしたいのに何かしら事件に巻き込まれる。これもあれもそれも全部、折原臨也と言う男のせいだ。
だから静雄にとって卒業式は待ち遠しかった。きっとあちらも同じだろう。大嫌いな人間の顔を見なくて済むのだから。
嫌な相手のことを思い出してしまい、静雄は溜息を吐く。ふわり、と真っ白な吐息が空へと消えるのに、目を細めた。
粉雪はまだ降り注ぎ、静雄の金の髪に積もって行く。頬や鼻先が冷たくて、静雄は手の平で押さえた。
雪のせいで滑りそうな歩道橋の階段をゆっくりと昇る。風が吹いて雪が舞い上がる中、静雄は立ち止まって空を見上げた。夜空がなんだか明るいのは雪のせいなんだろうか。
ふと歩道橋の下を見ると、誰がが歩いているのが見えた。学ランにマフラー。臨也だ。静雄は一瞬にしてそれを認識し、反射的に怒りが湧き上がる。しかし臨也が一人ではないのを見ると、急速に怒りは萎んで行った。
臨也は学校を出た時とは違う女を連れていた。酷く親しげに。同じ学校の生徒ではなさそうだ。
また違う女か。
静雄は眉間に皺を寄せ、舌打ちをする。節操がない男だ。静雄は臨也のこういうところも大嫌いだった。
さすがに相手が女連れでは喧嘩を売ることも出来ない。静雄は今見た光景をなかったことにする。
ポケットに手を突っ込み、反対側の階段を下りた。
気付けばいつの間にか雪は止んでいて、静雄は空を見上げる。これが今年最後の雪になるのだろうか。もう直ぐ春が来て、冬はいなくなってしまう。
「シズちゃん」
不意に背後から声を掛けられて足を止めた。自分が嫌いな呼び名、嫌いな声。
無視をしようか、と一瞬悩む。そしてその悩んでる間に相手は自分の前方に回り込んで来た。
臨也はその端正な顔に笑顔を張り付かせ、至近距離で静雄の顔を覗き込む。
「無視とか酷いなあ」
言葉とは裏腹に、臨也の顔は楽しげだ。静雄はそれにウンザリと舌打ちをした。
「んだよ。女はどうした」
「ああ、やっぱり気付いていたんだ」
臨也は口端を歪めて笑い、肩を竦める。
「シズちゃん最近俺を避けているもんねえ」
「用ねえんなら帰るぞ」
静雄は苛々と吐き捨て、臨也の横を通り抜けて行こうとする。
その腕を掴まれ、強引に向かい合わされた。静雄は眉間に皺を寄せる。
「何の真似だ」
「腕の怪我、治った?」
掴んだ腕とは違う腕を指差して臨也は問う。その顔にはいつもの表情はなく、酷く無表情だった。
「…治った」
「さすがの治癒力だ」
臨也は腕を離さない。
「離せ」
振りほどこうと静雄が身を捩るのに、腕は外れなかった。意外に強い臨也の力に、静雄は少し驚く。
「避けてるのはあの日のキスが原因?」
臨也は口端を吊り上げた。意地の悪い笑み。静雄はそれに酷く苛々する。
「関係ねえよ。もう離せ」
「やっぱりファーストキスだったのかな?」
「うぜえ」
静雄が悪態をつくのに、臨也は声を上げて笑った。まだ腕を強く掴んだまま。
「今度は違うこともしようよ」
臨也は腕を引き、静雄の体を僅かに引き寄せる。静雄は訝しげに臨也を見遣った。
「シズちゃんとのキス、結構良かったから、」
吐息が触れるぐらいに顔を寄せ、臨也は静雄に囁く。
「きっとセックスも相性良いと思うよ」
この言葉を言い終わるや否や、静雄は臨也に殴り掛かった。
それを寸前で避け、臨也は掴んでいた腕を離す。
「怖いなあ、シズちゃんは」
「ふざけるな」
燃えるような目で臨也を睨み、静雄は一歩後退する。踏み付けた雪がしゃりっと音を立てた。
「卒業の思い出にさあ、駄目?」
臨也は口端を歪めた表情を崩さない。揶揄しているのだろう。静雄を。
「女としろ、死ね」
「ああ…女かあ。別れたんだよね」
臨也は笑って肩を竦める。
「さっきシズちゃんが見たので最後。全部別れちゃった」
臨也の言葉に、静雄は睨みつけたままだ。だから何だ、と思う。この男が誰と付き合って別れようが、静雄には関係ない。
「何で別れたと思う?」
臨也は喉奥で低い笑い声を出した。くくく、と誰もいない通りに響く。
知るか、と静雄は思う。臨也のプライベートなどどうでもいい。知ったことか。
そう口にしたいのに、何故か声にはならなかった。静雄はただ黙って、目の前の男を睨むしかできない。
焦燥や不安にも似た嫌な感情が、静雄の胸に広がる。三年間、胸に抱いてきた正体が分からない感情。静雄がずっと臨也に抱いてきたもの。
「それはねえ、シズちゃん」
臨也は歌うように言葉を続ける。楽しそうに、笑いながら。
静雄の頭で警鐘が鳴り響く。臨也の言葉を聞いてはいけない。聞いたら戻れなくなる気がした。


「シズちゃんが好きだからだよ」

悪魔みたいな男はそう言った。



(2010/10/08)
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