Prisoner Of Love




外は台風かと思うくらい酷い天気だ。ざあざあと横殴りの雨が窓を叩き、ガタガタと揺らして行く。
明日は晴れるだろうか。
静雄は昼なのに真っ暗な空を、カーテンも何もない窓から眺めていた。白い壁、白い天井。家具は必要最低限しかなく、テレビなど娯楽の物もない。静雄はそんな部屋に住んでいた。静雄にとって家なんて、ただの寝る場所だったから。
不意にガチャリと扉を開く音がして、静雄は後ろを振り返る。静雄は家に鍵を掛けていない。盗まれる物などないし、今は家主が在宅中だ。
立ち上がり、広くもない部屋を数歩進めば、直ぐに玄関が見える。静雄はそこにいた人物を見て、眉を顰めた。
「やあ」
いつもの真っ黒なコートを着て、折原臨也が立っていた。ずぶ濡れの姿で。
コートのフードを被ってはいるものの、前髪からは雫が垂れ落ちている。フードに付いたファーも、濡れて酷い有様だった。そんな姿でも、赤い目だけは射貫くように静雄を見ている。口許には笑みを浮かべて。
「何しに来た」
静雄は沸き上がって来る怒りを無理矢理抑え込んで、低い声でそう聞いた。コメカミには青い筋が何本か浮かぶ。
臨也はそれを涼しく受け止め、被っていたフードを脱ぐ。漆黒の髪の毛は、前髪以外は濡れていない。
「シズちゃんに会いに」
唇を片方だけ吊り上げて、臨也はその眉目秀麗な顔で笑う。静雄はそれに何も答えず、ただきつい眼差しで天敵を睨み返した。
ずぶ濡れの姿のまま、臨也はフローリングの上に足を踏み出す。革靴のせいで床がコツンと音を立てた。それはいやに部屋に響く。
臨也が自分のテリトリーに侵入して来るのに、静雄は無言で享受する。目の前の男からは普段の悪意は微塵も感じられず、静雄は内心戸惑っていた。それでもいつもの臨也の言動から、静雄は警戒心を解けない。
フローリングの床が、臨也が歩く度にポタポタと雫で濡れる。臨也は濡れた前髪を、鬱陶しそうにかき上げた。
「帰れよ」
静雄は臨也を睨みつけ、拒絶を口にする。臨也はそれに笑い、土足のまま静雄に近付いて来た。
「せっかく会いに来たのに?」
「俺は別に会いたくねえ」
吐き捨てるようにそう言い、静雄は臨也をきつい眼差しで見遣る。いつの間にか臨也は、静雄の直ぐに目の前に立っていた。
「ゲームをしよう」
「ゲーム?」
さも楽しそうに提案する臨也に、静雄は眉間に皺を寄せる。臨也はそんな静雄を可笑しそうに見て、ポケットからコインを取り出した。
「これが表なら俺は帰る。でも裏なら、」
俺に時間を5分ちょうだい。
臨也はそう言ってコインを指で弾いて上へと飛ばした。落下して来たそれを手の甲で受け止め、もう片方の手で絵柄を伏せる。
「どう?」
口端を吊り上げて、静雄を見上げた。挑発するような目で。
「5分って…何する気だ」
警戒する静雄に、臨也は肩を竦める。
「危害は加えないよ。何かを仕掛けたりもしない。ただ5分間、俺の言う通りにしてくれたらいい」
信じて貰うしかないけどね。そう答える臨也の目は、珍しく真剣だった。
静雄はそれを見て、ますます不機嫌な表情になる。臨也の意図が分からない。探るように相手を見るが、目の前の男はただ笑っているだけだ。静雄はやがて溜息を吐くと、渋々と承諾した。
「いいぜ。但し5分過ぎたら叩き出すからな」
「勿論」
負けても5分間で帰るなら良いか、と静雄は好きにさせることにする。どうせ5分では何も出来ないだろう。
「俺は裏に賭ける。手前がイカサマしねえようにな」
「ははっ、信用ないねえ」
臨也は笑って、コインを伏せていた手を離した。静雄はその臨也の白い手を見下ろす。
現れたコインの絵柄は表だった。
「俺の勝ちだね」
臨也はコインをポケットに仕舞い、静雄を見上げた。
静雄はそれに、チッと舌打ちをする。例え些細な勝負でも、天敵に負けたのは気に入らない。
「約束通り、5分ちょうだい」
「…何すんだよ」
警戒心を剥き出しにする静雄に、臨也は口角を吊り上げる。
「目を瞑って」
「……」
「約束だろう?」
「…うぜえ」
静雄は渋々と、黙って瞼を閉じた。真っ暗になった世界に、臨也が微かに動く音がする。
ざあざあと降る雨の音。強い風が窓を揺らす音も、目を閉じればいやに鮮明に聴こえた。
身構えていると、顔を両手で触れられる。冷たい臨也の手。吐息が近付き、唇に何かが触れる。
口づけられているのだ、と気付いた時、静雄は驚きで思わず目を開いた。
間近にあった臨也の目が細められ、静雄から唇を離す。
「開いたから5分延長ね」
「おい、…っ、」
直ぐにまた唇が重なった。
腰に腕を回され、更に体を密着させられる。臨也の舌が静雄の唇を嘗めて行く。
思わず薄く唇を開けば、歯列を割って舌が入り込んで来た。歯茎を嘗められ、舌を絡め取られ、静雄の足からは徐々に力が抜けて行く。くちゅくちゅと響く水音に、静雄は羞恥で耳まで赤くなった。
「…っん」
息苦しくて思わず声を上げれば、それは甘くて可愛らしい。静雄はそんな自分の声に、愕然とした。
「シズちゃん」
名を呼ばれ、角度を変えてまた口づけられる。何度も何度も。唇を内側から嘗められ、擽ったいようなその感触に、静雄はぞくぞくと肌を粟立たせた。臨也の濡れた前髪が静雄の鼻先を掠る。触れて来る臨也の体はどこもかしこも冷たい。臨也の香水の匂いが、静雄の意識を麻痺させる。
静雄は指先が震えるのに、強く拳を握った。その手を臨也の肩に置き、そのまま押し返そうとするが、いつもの力が出ない。
ドクドクと自分の鼓動が煩かった。間近にある端正な顔に、静雄はきつく目を瞑る。赤い双眸が真摯な色で見詰めて来るのを、静雄は直視出来ない。
「あと6分」
臨也は唇を離すと、目を瞑る静雄の腕を取る。腰を腕で支えて、床へと優しく押し倒した。
「おい…」
「瞑ってて」
目を開こうとした静雄の耳元に、臨也の余裕のない声が響く。吐息が耳に触れるのに、静雄は体を強張らせた。
臨也の冷たい手が、静雄のシャツのボタンを外してゆく。あらわになった白い肌に、濡れた臨也のコートが触れて冷たい。それとは反対の温度の舌が、鎖骨を嘗めてゆく。首筋も舌先で突かれ、歯を立てられた。くすぐったいのか何なのか、静雄はこれに堪えられずに声を漏らしてしまう。
「んっ、…臨也、やめ…」
「あと4分」
頬に口づけられた。鼻先にも。額、顎、瞼と、顔中に。
何かに縋りたくて、はだけられた自分のシャツを掴む。臨也の体にしがみつくことはできない。
再び唇にキスが下りて来る。奥へと逃げる舌を捕らえられ、きつく吸われた。飲みきれない唾液が顎を伝って床を汚す。いつの間にか静雄の唇は、長いキスのせいで赤くなっている。ちゅぷ、と唾液の透明な糸が二人を繋いで切れた。臨也は静雄の赤い唇を、舌でべろりと嘗める。
「シズちゃん」
掠れた熱っぽい声。
静雄は目を閉じたまま、その声に身を震わせた。
「開けちゃ駄目だよ。あと2分ある」
臨也の冷たい手の平が、静雄の目を覆う。
「…っ、おい、」
「好きだよ」
告げられた言葉に、静雄は言葉を飲み込んだ。
臨也は体を屈め、静雄の耳元に唇を寄せる。
「ずっとずっと好きだった」
そう囁いて、臨也はゆっくりと手を離した。
覆う物がなくなっても、静雄は目を開けない。黙って約束を守り、じっとしていた。
臨也の温もりが離れて暫くして、静雄はやっと身を起こす。手の平がフローリングに触れる。そこは僅かに濡れていた。
「臨也…?」
外の雨音が部屋に響く。風が吹いて木々を揺らし、ガタガタと窓枠が震える音も。けれど、部屋に人の気配はない。
静雄はゆっくりと目を開けた。
部屋はさっきと変わらず薄暗く、誰もいない。まるで白昼夢でも見ていたように、静雄は暫くぼんやりとしていた。
夢だったのかも知れない。あの男が自分にあんなことをするなんて。
床に目を落とせば、濡れて染みが出来ている。自分のシャツもはだけられ、鎖骨には赤い痕があった。

好きだよ。

告げられた言葉を思い出し、静雄は羞恥で赤くなる。
あれは。なんで、あんな。
あんなことを。
口づけられるなんて。
世界で一番大嫌いな男に。
「……っ」
感触が甦り、静雄は唇を手の甲で拭う。耳まで熱い。きっと今の自分は、誰にも見せられない顔をしている筈だ。
ふと気付くと、床にコインが転がっていた。さっきのゲームに臨也が使ったもの。
静雄はそれを手にし、目を見開く。それは両方同じ絵柄をしたコインだった。両面とも表の。
「…んだよ、これ」
静雄はそれに、ちっと舌打ちをする。最初から、自分が裏を選ぶのを分かっていたのだろう。あの男はそう言う人間だ。
窓を見れば、まだ雨が酷かった。こんな天気では、早くは歩けない筈。今なら追い付けるかも知れない。
はだけられたシャツをそのままに、静雄は外に飛び出す。外は思っていたよりも風が強く、あっという間に衣服はびしょ濡れになる。走る静雄に、雨は容赦なく降り注いで来た。金の髪が濡れて、色濃くなってゆく。
雨のせいで視界がままならなかったが、臨也は直ぐに見付かった。真っ黒なコートを着た男が、傘も差さずに歩いてるのは、いやに目立つ。
「臨也」
肩に手を掛けて名前を呼べば、臨也は驚いたように振り返った。
「シズちゃん?」
振り返った途端、臨也が被っていたフードが風で外れる。赤い目が驚きで丸くなるのを、静雄は不思議な思いで見た。臨也がこんな表情をするのは珍しいから。
「イカサマすんなよ」
雨でずぶ濡れになりながら、静雄は臨也にコインを差し出す。臨也は丸い目をしたまま、ほんの数秒それを見詰めていた。やがて苦笑して、静雄の手からそれを受け取る。
「これの為に追い掛けて来たの?」
道端に佇む二人の横を、車が通り抜けて行く。こんな雨の中、傘も差さずにいる二人は、他人から見たらさぞかし滑稽だろう。
「こんなの使わなきゃ言えねえのかよ」
雨のせいで濡れた顔を、静雄は乱暴に手の甲で拭う。長めの前髪の奥に見える瞳は、複雑な感情を宿している。
「告白だけして終わりなのかよ」
「…シズちゃん」
「言い逃げすんなよ」
「……」
臨也は黙り込み、静雄の顔をじっと見上げた。静雄は臨也のその目を、逸らすことなく見詰め返す。
「…じゃあ返事を聞かせてよ」
不意に臨也の冷たい手が、静雄の手首を掴んだ。
その力強さに、静雄の目が驚きで丸くなる。
「好きなんだ」
臨也の言葉に、どくんと心臓が跳ねた。赤い双眸は、真っ直ぐに静雄を見詰めている。
「返事は?」
「…俺、は…」
臨也の真摯な赤い目に、静雄は唇を噛み締めた。冷たい雨が、二人の体温をどんどん奪ってゆく。吐く息だけが白く温かい。
「俺は、お前が嫌いだ」
静雄の言葉に、臨也の赤い目が細くなる。手首を掴むその手に、更に力が入った。
「それが返事?」
「違う」
静雄は目を逸らし、空いている手で顔を押さえる。少しだけ頭が混乱していて、上手く言葉が出ない。
「でもさっきの嫌じゃなかった」
「さっきのって…キス?」
臨也は僅かに目を開き、まじまじと静雄の顔を見た。静雄はその視線を感じても、目を伏せたままだ。顔を赤くして。
臨也はそんな静雄に、楽しげに口端を吊り上げる。
「キスは良かったの」
「……」
静雄はそれに答えずに、赤い顔のまま舌打ちを一つした。楽しげに笑う臨也の顔など、今は見たくなんかない。
「それってさあ、嫌いじゃないんじゃないの?」
「うるせえ、もう帰る」
静雄はますます赤くなって、臨也の手を振り払った。何故臨也なんかを追い掛けてしまったのだろう。羞恥で逃げ出したくなってしまう。
「シズちゃん」
踵を返した静雄の体を、臨也は背中から抱き締めた。びくっと静雄の体が跳ねる。
「俺を拾ってよ」
「…何だよそれ」
「ずぶ濡れで可哀相だろう?」
静雄は首だけを振り返り、臨也の顔を見下ろした。
ずぶ濡れの端正な顔の男は、静雄を見上げてただ笑うだけだ。静雄の腹に回された腕は、きつく離れない。
「拾ってどうするんだよ」
「愛してよ」
今は嫌いでも、いつか愛するようになるかも知れないよ。
臨也はそう言って笑う。
静雄はそれには答えない。ただその顔は、耳の先まで真っ赤になっていたのだけれど。
臨也は静雄の体を反転させると、自身へと向き合わせた。雨に濡れて冷たい静雄の頬を優しく手で撫でる。
静雄はその手に自身の手を重ね、ゆっくりと目を閉じた。目を閉じる瞬間に、臨也の顔が近付いて来るのを予感して。
やがて、柔らかく唇が重なる。
土砂降りの雨の中、二人はまるで時間が止まったかのように口づけていた。



(2010/10/05)
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