誕生日のその日、静雄は比較的気分良く過ごせた。
朝から弟からプレゼントが届き、久し振りに電話で話もできた。
上司には昼食を、後輩からはスイーツを奢って貰った。
仕事も自販機を投げることもなく、苛々することもなかった。
機嫌が良かったのだ。
夜までは。


「いやあ、臨也も呼んだ方がいいと思ってさ」
新羅はニコニコと悪びれもせずにそう言った。静雄の睨みにも臆せずに。
旧友の隣で親友が困ったようにしている。まあまあ、と両手を上げて。
静雄は招かれた方なのだし、文句は言えない。ここで帰ったりなんかしたらセルティにも申し訳なかった。
中に入ると知り合いたちが既に来ていて、口々に祝いの言葉を掛けられる。それが何だか照れ臭くて、静雄は顔が無愛想になってしまう。
臨也を見ないようにしながら、開けられていた真ん中の席に座った。こんなのは柄じゃなくて、何だかむず痒い。グラスを渡され、酒を注がれた。ビールが苦手な静雄の為に、それは少し甘い酒だった。酒には詳しくないが、恐らくシャンパンだろう。
乾杯をし、食事が始まった。静雄は食が細い方なので、わざとゆっくりと食べ始める。
静雄は無意識に、たまに臨也の方を見てしまう。臨也は鍋には手を付けず、酒だけを飲んでるようだった。時折隣の席にいる門田と、何やら会話している。
「静雄」
ぽん、と肩を叩かれて顔を上げた。新羅が笑って酒を勧めて来るのに、素直にグラスを差し出す。
「勧めておいてなんだけど、あまり飲み過ぎないようにね」
静雄はお酒弱いんだから。
グラスに注がれた薄い琥珀色の炭酸水を見ながら、静雄は目を細めた。その白い肌は既に赤くなり始めている。
「今日はありがとうな。わざわざ…」
「お礼はセルティに言ってあげて」
新羅はにこにこ笑って隣のセルティを見遣る。セルティは嬉しそうに肩を揺らした。
「セルティもありがとう」
『静雄は親友だからな、気にするな』
静雄にはセルティの気遣いが純粋に嬉しい。こんな風に誕生日を祝って貰うなんて、子供の時以来だ。
皆で鍋を囲み、酒を飲んで、久々に騒いだ気がする。静雄はあまり馬鹿騒ぎをするタイプではないが、今日は純粋に楽しいと思えた。
ふと視線を感じて顔を上げると、臨也がこちらを見つめているのに気付いた。その赤い目でじっと。
静雄と目が合うと臨也は口角を吊り上げる。人を馬鹿にしたような嫌な笑い方。静雄はそれに小さく舌打ちをすると目を逸らした。僅かに鼓動が跳ねたのに、気付かない振りをして。
もう食事をする気を失い、静雄は酒だけを呷った。酒はあまり好きではないが、こう言う時は便利だ。嫌な事も忘れられる。
「静雄、飲み過ぎじゃない?」
いつの間にかかなりの量を飲んでいる静雄に、新羅が隣で眉を顰めた。静雄はそれに返事をせず、ただ酒を口に運ぶ。
去年の誕生日は。
静雄は酒を飲みながら思い出す。
臨也が一緒にいた。
確か一昨年も。
その前も。
何をしていたかはさすがに数年の記憶がごちゃまぜになっているが、一緒にいたのは間違いない。臨也の誕生日も同様に。静雄はその事実に軽く眩暈を覚えた。
酒瓶の蓋を開け、いつの間にか空になっていたグラスに注ぐ。なみなみと注がれたそれに口をつけようとした時、後ろから伸びてきた手に手首を掴まれた。
白い手の人差し指だけに嵌められたシルバーリング。静雄はその手が誰の手か、振り返らずとも直ぐに分かった。
「飲み過ぎ」
臨也は一言そう言うと、静雄の手からグラスを奪ってしまう。
「おい、」
静雄が文句を口にする前に、臨也はグラスを新羅に手渡した。新羅はそれを受け取ってそそくさとキッチンへと消える。
「もうやめなよ。強くないんだから」
臨也はそう言って、新羅のいた席に座ってしまった。
「何で隣に座ってんだよ。自分のとこに戻れよ」
そう静雄は噛み付くが、臨也は涼しい顔で受け流す。持参して来たらしい酒が入ったグラスを、ゆっくりと口に運んでいた。
「ねえ、シズちゃん」
「なんだよ」
話し掛けくんな、と言いながら、静雄は諦めたように溜息を吐く。頬が熱く、自分でも酔っているのは分かっていた。
「離れて見てどうだった?」
臨也は口端を吊り上げる。赤い双眸が揶揄するように見詰めて来るのを、静雄は訝しげに見返した。
「どうだったって…」
「俺のこと考えたりした?」
この言葉に、静雄は眉間に皺が寄せる。
例えば街を歩いていて黒のコートに目をやってしまったり、今までの互いの誕生日を思い出したり。確かに臨也のことを考えている時間は多くなった。
でもそれを臨也に言うのは絶対に嫌だ。
「俺はシズちゃんのことばかり考えてた」
静雄が何か言う前に、臨也はそう言ってグラスをテーブルに置く。カタン、と言う音がやけに耳に響いた。この煩い室内の中で。
静雄は何て答えて良いか分からずに、戸惑ったように臨也を見詰める。臨也はそれ以上何も言わなかった。
「ケーキだよー」
新羅とセルティがケーキを持って入って来て、静雄ははっとする。
大きなケーキが1ホール、テーブルの真ん中に置かれた。蝋燭が五本立てられ、火をつけられる。
電気を消し、皆が誕生日の歌を歌い始めた。少しだけ調子がズレているのは、皆が酔っ払ってるせいだろう。
照れなのか酔いのせいなのか、静雄は顔が赤くなる。嬉しいけれど、やはりこう言うのは気恥ずかしい。
歌が終わったのと同時に息を吐いて、蝋燭の火を全て消した。暗くなる室内。
皆の拍手と歓声が上がる中、静雄は隣から伸びてきた手に体を引っ張られた。驚く間もなく抱き寄せられ、噛み付くように口づけられる。
それは臨也が飲んでいる酒の味がした。静雄が抵抗しようと手を上げた途端に腕は離れ、同時に部屋の明かりがついた。
目を瞬かせて隣の臨也を見れば、何事もなかったかのように酒を飲んでいる。静雄はそれに苛々と何か言おうとしたが、皆の前では何も言えなかった。
口に入れたケーキはやけに甘く感じる。なのに苺は酸っぱくて、静雄はただそれを黙々と食べた。静雄は甘い物が好きな方だったが、何だか胸が苦しい。腹がいっぱいのせいかも知れない。
臨也の方はケーキには手をつけず、ただ酒だけを飲んでいる。臨也も別にアルコールは強い方ではなかったはずだ。飲むペースが遅いのだろう。
そんな臨也を横目に見つつ、静雄は思い切って口を開いた。
「なあ」
「ん」
「なんであんな事すんだよ」
「キスのこと?」
「ああ」
静雄はまだ半分しか食べていないケーキを、少し乱暴にテーブルに置く。カシャンと、フォークが皿から落ちた。
他の皆はそれぞれお喋りや食べるのに夢中で、静雄と臨也のやり取りは聞こえていない。
「シズちゃんはもう来ないと言ったけれど、」
臨也は持っていたグラスを傾ける。中の液体がたぷんと揺れた。
「俺は了承してないよ」
そう臨也が無表情に言うのに、静雄は目を丸くした。
「…んだよ、それ」
「三十歳になるからなんてのは言い訳だろう?」
臨也は酒が入ったグラスを置く。一体それは何杯目なのだろう。実は臨也も酔っているのかも知れなかった。
「変化が欲しかっただけなんじゃないの」
口角を吊り上げて、真っ黒な男は笑う。
「高校の時からだから十四年になるね。その間俺と君の関係はずっと平行線だ。それが嫌になったんじゃないの?何か変わりたくて言ったんじゃないの?本当は別れたいとか思ってはいないんだろう?だってシズちゃんは、」

俺のこと好きなくせに。

この臨也の言葉に、静雄は一瞬で頭に血が上るのが分かった。思わず右手で殴りかかろうとし、寸前でその手を掴まれる。
「乱暴だな」
臨也は低い声でそう呟くと、口角を吊り上げた。静雄はそれにきつい眼差しで睨みつける。酔っていたせいか、静雄の力が少し弱まっていた。
さすがに二人の様子に気付き、部屋の中はシンと静まり返る。それに気付いた新羅が慌ててキッチンからやって来た。
「二人とも喧嘩はやめてよ」
臨也はそれを無視し、掴んでいた静雄の手を引いて立ち上がる。
「悪いね。少し部屋を借りるよ」
そう言い残すと強引に静雄をリビングから連れ出した。静雄は驚きで目を丸くするが、黙って臨也に従う。
臨也は奥の部屋の扉を開けると、中に静雄を押し入れた。
「離せ」
静雄は臨也の手を振りほどく。掴まれていた手は痛くなっていた。うっすらと赤く跡が残っている。
「図星だった?」
臨也は後ろ手に鍵をかけて、静雄を見上げた。口許には笑みを浮かべて。
「さっき言われたのは図星だったんだろう?」
「うぜえ」
静雄は臨也の眼差しを正面から受け止めて、睨み返してやる。例え図星だったとしても、それを認めるわけにはいかなかった。
「何で俺があの時、シズちゃんを引き止めなかったか分かるかな」
臨也は笑みを崩さない。自分を見上げて来るその赤い目が、全く笑っていないことに静雄は気付く。
「シズちゃんが俺から離れられないのを知ってるから」
目の前の悪魔みたいな男は、そう言って更に笑みを強くする。
「そして俺も、シズちゃんから離れられないんだよ」
臨也は自嘲するようにそう呟き、一歩静雄に近付いた。静雄はそれに無意識に一歩後ずさる。
心臓が早鐘のように打つのを、静雄は気付かない振りをしたかった。自分が臨也から離れられないことも、先程の臨也の言葉も、全てが本当のことだ。でもそれは静雄にとって気付きたくないことだった。
壁に足が当たり、静雄はそれ以上後ずさりができない事を知る。ちっと舌打ちをして、近付く臨也から目を逸らした。もう酔いはすっかり冷めてしまっている。
臨也は壁に片手をついて、静雄に顔を寄せた。顎を掴み、無理矢理に視線を合わせる。
「シズちゃん」
熱がこもった掠れた声で名を呼ばれ、静雄は指先が震えた。至近距離にある臨也の赤い瞳には、自分が映っている。
「三十歳ってのは確かに節目だってのは分かっているつもりだよ」
顎を掴む臨也の手が、静雄から離れた。その手はそのまま静雄の細い腰に回される。
「でももう少し信用できないのかな
「…信用ってなんだよ。つうか離せ」
静雄は腰に回された臨也の腕を引っ張るが、それは外れない。臨也は意外に力が強かった。
「何故抱くかなんて今更だろう?」
臨也は逆に静雄のその手を掴み、自分の肩に置いてやる。少しだけ酒臭い吐息が鼻を擽り、静雄は伏せた睫毛を震わせた。
「惰性でセックスしてるとでも思ってたのかな、シズちゃんは」
「…うるせえ」
静雄には悪態をつくことしか出来ない。臨也の肩に置いた手を、震えをごまかす為にぎゅっと握り締めた。
三十になっても、自分はずっと子供のままだ。
静雄は思う。
人は歳を取り成長してゆくと言うのに、自分だけは青臭い子供のまま取り残されてる。
高校生の時のまま。
「まあ俺はそんなシズちゃんが好きなんだけどね」
臨也は愛の告白をサラリと口にし、そのまま驚く静雄に唇を重ねた。くちゅっと音を立てて舌が入り込んで来る。酒のせいか、口腔内は熱い。
口づけながら、臨也がポケットから何かを取り出した。自身の肩から手を外させると、それを静雄の手の平に握らせる。
静雄が目を丸くして臨也を見るが、臨也は唇を重ねたまま、低く笑い声を漏らすだけだった。
やがて息苦しさに臨也の体を押し返すと、やっと唇が離される。唾液で濡れた口許を手の甲で拭い、静雄は手に握らされたそれを見た。
「…これ」
「誕生日プレゼント」
臨也は静雄の耳元に唇を寄せてそう囁き、自身の左手を見せる。
「お揃い」
臨也の薬指にはリングが嵌められていた。人差し指のとは別に。
静雄は丸い目をしたまま、手の中のリングを見る。銀色に輝くそれは、白金だろうか。
「俺だって三十路で色々考えるんだよ」
臨也は肩を竦めて笑い、静雄の左手の薬指にそれを嵌めてやった。それはぴたりと静雄の指に収まる。まるで最初から静雄の物だったかのように。
「感想は?」
臨也は口角を吊り上げて、いつもの意地悪な笑みを浮かべて静雄を見た。静雄はそれに、ウンザリしたように舌打ちをする。顔を赤くして。
「…うぜえ」
静雄の悪態に、臨也は笑ったようだ。直ぐに抱き締められたので、表情は見えなくなった。
「誕生日おめでとう、シズちゃん」
自分と同じくらい早い相手の心臓の鼓動を感じながら、静雄は目を閉じる。ぎゅっとその腕を、臨也の背中に回した。
「…ありがとう」
静雄が低く、微かに聞き取れるくらいの小声で礼を言うのに、臨也は笑い声を上げる。
それに「笑うな、うぜえ」と尚も静雄は悪態をついた。真っ赤な顔で。




扉の前で困ったように突っ立っていたセルティは、部屋の中が静かなのに戸惑った。どうしよう?と新羅を振り返る。
新羅はそれににっこりと笑った。
「心配いらないよ。ただの痴話喧嘩だから」
仲直りしたみたいだね、と言って。
『だから誕生日会に静雄を誘って欲しいと言ったのか』
セルティは納得する。元々誕生日会をしようと言い出したのは新羅だった。セルティが言い出したことにして誘って欲しいと言われたのだ。
「臨也にやってくれって頼まれてね」
新羅は眼鏡の奥の目を細める。臨也が静雄のことで、新羅に頼み事をするのは初めてだった。
「プロポーズは成功したみたいだ」
『プロポーズ?』
「何でもないよ。さあ僕らは戻ろう」
セルティの背中を押して、新羅は扉から離れる。セルティは首を傾げたが、それ以上何も聞かなかった。
――…貸しが一つだからね、臨也。
新羅は一度だけ扉を振り返って笑い、セルティと共にリビングへ戻って行った。








(2010/10/01)
×
- ナノ -