歳を取ると言うのは皆平等だ。
赤ん坊は子供になり、子供は成人になる。成人は中年になり、中年は老人になる。年寄りを馬鹿にする若者もいずれ自分も老人になるわけだ。例外なく誰しも平等に。
化け物と恐れられた静雄にもそれは訪れる。静雄は歳を取ることには何も思わない。寧ろ良いことだ、とさえ思う。経験値を積んで成長すると言うことだ。
もうすぐ三十路になると言うのに、人に誇れるくらい成長してるかは怪しいけれど。




雨が降っている。しとしとしとしと。
平日の気怠い午後だ。
静雄はベッドに腰掛け、ぼんやりと窓から外を眺めていた。薄暗い鉛色の空。ブラインドもカーテンもない大きな出窓には、雨で水滴が張り付いている。
雨は嫌いだ。嫌な思い出ばかりを思い出す。小さい頃の記憶から、最近のものまで。それは月曜日が憂鬱だと言うのに似ている。
目が覚めた時にはもう隣に温もりはなく、冷たいシーツの感触だけだった。
あの男はいつもこうだ。静雄が目覚めると既に居ない。いつもいつもいつもいつも。
もう何年になるだろう。こんな下らない関係になってから。高校の時からだから十四年か。人生の半分近くになるのかと思い、静雄は思わずぞっとした。
窓から視線を外すと、静雄はベッドの周囲を見回す。フローリングに落とされていた筈の衣服が見当たらない。昨夜乱暴に剥ぎ取られ、床に落とされたと言うのに。
あの男は何故自分なんかを抱くのだろう。
静雄は最近考える。十四年間考えないようにしていた事を、今更。
好きだと言われた事もなく、言った事も勿論ない。そこにあるのは愛かと言われれば、静雄は即座に否定することが出来る。これは愛情ではない。多分。敢えて言葉にするのなら、依存と執着な気がした。
多分あの男にとって自分の性別は関係ないのだ。それは自分も同じ。もう初めて抱かれた遠い昔の事なんて忘れてしまったけれど、強姦に近い合意の性交渉だったはずだ。
何故抱かれたのか。
それを考えると頭に靄がかかったみたいに考えることが出来なくなってしまう。考えなくていい、考えるな、と脳が指令を出す。
こんな事を考えるのは、ひょっとして三十代になるせいなんだろうか。二十代から三十代になるだけで、何かが変わる気がして。
静雄は溜息を吐き、真っ白なシーツを手繰り寄せた。裸体のままでは何やら落ち着かない。それを細い身体に巻き付けて立ち上がる。
体の節々が痛い。下半身、特に腰がなんだか重い。こればかりは何度抱かれても慣れなかった。
両腕を見れば赤や紫色の鬱血した痕がある。胸や鎖骨、内股にまであった。それこそ体中に。
これは当分消えないだろう。いくら自分の治癒能力が高くても数日は残るはずだ。
静雄はそれにウンザリと舌打ちをし、シーツを巻いて見ないようにした。
寝室にしては広い部屋を再度見回す。部屋の隅にぽつんと置かれた椅子に、衣服が綺麗に畳まれてあるのが見えた。
体に巻いていたシーツをベッドへと放り、見つけた衣服を着込む。服を着て行くことで、少しずつ元の自分に戻る気がした。平和島静雄という人間に。
「起きたの?」
寝室の扉が開いて、臨也が入って来た。黒いシャツに黒いパンツ。銀縁の眼鏡。静雄はこの男が黒以外を纏うのを、もう何年も見たことがない。眼鏡はここ数年、デスクワークをする時だけに掛けているようだ。
「帰る」
静雄は最後にサングラスを掛けた。これで完全にいつもの自分だな、と頭の片隅で思う。
「もう来ない」
別れの言葉は簡単に出て来た。感情の篭らない自分の声に、静雄は多少驚く。
「理由は?」
臨也は驚きもせず、ただ一言そう言った。眼鏡の奥の赤い目を細めて。
理由。理由はなんだろう。
静雄は黙り込む。
十四年もこんなことをして来て、今更何を。
「来週、誕生日なんだ」
静雄のこの言葉に、臨也は驚いたようだ。目を一瞬だけ丸くし、眉間に皺を寄せる。
「知ってるよ。だから?」
「三十になるから」
もういいだろうって。
静雄はそう言って臨也から目を逸らした。静かな寝室に、雨音だけがする。
「男に抱かれるのが?」
臨也が揶揄するように言っても、静雄は何も言わなかった。ただ黙って眉を顰めただけだ。
静雄は目を逸らしたまま、出口に立つ臨也の横を通り抜ける。
臨也はそれ以上何も言わなかった。眼鏡を外し、静雄の後ろ姿を見送る。
雨のせいか薄暗い廊下を、静雄はゆっくりと歩いた。
この他人のテリトリーである場所に、もう来ることはないのだと思うと不思議な気がする。
エレベーターを降り、マンションの外に出て、雨なのを思い出した。濡れるのは嫌だが、戻るのも嫌だ。濡れて帰るしかないだろう。
静雄はひとつ溜息を吐くと、冷たい雨の中を歩き出した。




びしょ濡れでやって来た静雄を、新羅は苦笑して出迎えた。風邪をひくよ、と呆れたように言って。
白い清潔なタオルを渡し、温かいカフェオレを入れてくれる。静雄は昔から、ブラックが苦手だったから。
「セルティはいないのか」
「仕事」
「ふうん」
甘いカフェオレを差し出す友人を、静雄はちらりと観察する。新羅は小学生の頃からの付き合いだが、高校の頃からちっとも変わっていない気がした。眼鏡のフレームがたまに変わるだけだ。若くも見えるし、もっと歳を重ねているようにも見える。要するに年齢不詳だった。
それを言うと、新羅は「それって褒めてるのかな」と言って笑った。その笑顔も昔のまま。
「何かあったの?静雄がそんな話をするのは珍しいね」
自身はブラックを飲みながら、新羅は笑う。カップを口にする瞬間、眼鏡が白く曇った。
「別に。俺も歳を取ったなあと」
「そう言えばもう直ぐ誕生日だったね」
新羅は頷いて、壁に掛けてあるカレンダーに目をやった。新羅や臨也はもう一足先に三十路を迎えている。静雄は早生まれなので二人より少し遅かった。
「三十路になっても何も変わらないよね。若い頃は大人に見えたけど」
「お前、結婚とかしねえの?」
セルティと。
唐突な静雄の言葉に、新羅はぶっ、とコーヒーを吹き出した。それに「汚えな」と、静雄は眉を顰める。
「し、静雄にそんなこと言われるなんて!」
吹き出したコーヒーを拭きながら、新羅はまだ目を丸くしていた。真っ白な白衣には茶色の染みができている。
「驚くことじゃねえだろ、別に」
「…そんな形式必要ないよ。籍を入れられるわけじゃないし」
新羅は笑って眼鏡をかけ直した。セルティのドレス姿は見てみたいけどね!と言いながら。
デュラハンは歳を取らない。いずれ新羅はセルティより先に老いて亡くなるのだろう。それを新羅がどう思っているかなんて静雄には計り知れない。
静雄は何となく目を逸らした。
「静雄は臨也とはどうなの」
「は?」
逆に聞かれて、静雄はぎょっとする。カフェオレを飲もうとしていた手を止めた。
「もう長いんだから一緒に住むとかさ」
「殺すぞ」
そう言いながらも静雄は手を出して来ない。静雄もちゃんと成長しているんだな、と新羅は妙に感心した。
「静雄って臨也と付き合ってるんじゃないの?」
「そんなんじゃねえよ」
新羅はコーヒーを啜り、静雄はスプーンでカップを掻き混ぜる。静雄のカフェオレは、掻き混ぜ過ぎて泡が立っていた。
「でもほら、セックスはしてるわけでしょう」
新羅の言い方は歯に衣着せぬものだった。昔から新羅は空気を読まずマイペースだ。だからこそ静雄と臨也の間でやって来れたのだろうけれど。
「もうあいつとは終わったよ」
静雄は淡々とそう言った。新羅のあからさまな言葉にも、怒ることなく。
「えっ?どう言うこと?別れたの?」
驚いた拍子にまたコーヒーを零しそうになり、新羅は慌てて手で支える。意外におっちょこちょいなところも、新羅は昔から変わっていない。
「どうせただの性欲処理だったしな」
大体、別れたと言う言葉は当て嵌まらないだろう。付き合ったことなんてないのだ。
「ただの性欲処理で何年も続くもんなの?まあ僕には分からない間柄なんだろうけどさ」
新羅はずり落ちた眼鏡をかけ直した。
静雄も臨也も、考えは新羅の想像の範疇を超えている。だからこそ二人と居るのは面白いのだけど。
大体君らは顔だけは良いんだから、黙ってればモテるだろうに。性欲処理なんてたくさん作れるんじゃないの。…なんて思ったけれど、新羅は口にしなかった。静雄の鉄拳を喰らわずに済む為に、黙り込む事も学んでいるのだ。
その時、インターホンが鳴った。



(2010/09/29)
×
- ナノ -