Trick or Treat






賭けをしよう。

あの日、あの教室で、臨也はそう言った。
放課後の誰も居ない教室。
整然と並べられた机。
夕陽は恐ろしい程に赤い。
夕陽と同じくらい赤い目をして。


静雄はあの時、なんて答えたのか良く覚えていない。ああ、だか、いいぜ、だか。とにかく了承した事だけは確かだ。
どうせ忘れると思っていた。きっとなかったことになると。
こんな、気紛れみたいな告白は。




あれから幾度となく季節は巡って、もう直ぐまたこの街に冬が来る。
木枯らしが吹き抜けて枯れ葉を揺らす。カサカサと葉がアスファルトに擦れて飛んで行った。
静雄はぶるっと寒さに身を震わせて60階通りを歩いていた。漂白されたみたいに真っ白なワイシャツ一枚では、さすがにこの時期は辛い。けれども大切な弟に貰ったこの衣装を変える気は静雄にはなかった。夏の暑い時でさえ。
これは武装だ。
静雄はそう考えている。
舐められないようにと先輩に勧められて染めた髪も、このバーテンダーの衣服も、今掛けている青いサングラスも。『平和島静雄』と言う人間を形作る武装。今、口に銜えている煙草でさえ、静雄にとっては武装の一部なのだ。
静雄はそんな武装に身を包み、すたすたと街を歩く。今日の仕事はもう終えて、後は帰宅するだけ。
今日は10月31日。池袋の繁華街はハロウィン一色だった。ショウウインドウにはオレンジ色のカボチャや骸骨が飾られている。ジャックランタン、色とりどりのお菓子。様々な音楽と匂い。行き交う人々。忙しない街だ。
早く。
早く帰ろう。
静雄は段々と歩幅が広まり、早足になった。早く帰らねばならない。見付かる前に。
空は茜色に夜の帳が浸食し始めている。もうすぐ完全な夜になって月が出るだろう。丸く、大きな月が。
青信号の横断歩道を渡り、角を曲がって路地裏に入った。人の気配が少なくなり、やっと静雄は少し安堵する。騒がしい人混みは苦手だ。雑踏に紛れた方が見付かり辛いのは分かっていたけど。
歩みを緩め、先の短くなった煙草を燻らせる。ふわりと紫煙が自身に纏わり付いた。
後少しで繁華街を抜ける、と言う所で突然腕を引っ張られる。そのまま強引に体を引かれ、体勢を崩しながらも静雄は驚いて振り返った。
見れば真っ黒な服装の男が立っていた。夕陽を背に、口だけを歪めた笑みを浮かべて。
「臨也」
「やあ」
臨也は静雄の背中をそのままビルの壁へと押し付けた。壁と臨也に挟まれて、静雄は驚きで目を丸くする。
「そんなに急いでどこへ行くのかな、シズちゃん」
「…っ、」
静雄はきつい眼差しで目の前の男を睨む。コメカミには青い筋が浮かんだ。
「俺が街にいるのにシズちゃんが気付かないなんて珍しいね」
低く、くぐもった笑い声を出し、臨也は静雄の眼差しを受け止める。「それとも敢えての無視かな?」
「毎回手前に構ってられる程、暇じゃねえんだよ」
静雄は至近距離にいる天敵を、目を反らさずに睨み続けた。腕を引かれた拍子に口から落ちた煙草は、臨也によって綺麗に踏み消される。
「俺はシズちゃんに用があって」
青いガラスによって目が隠されているのが気に入らず、臨也は静雄のサングラスを取った。中から現れた瞳は殺意や怯えが宿っていて、臨也はその目に見詰められるだけで体が熱くなるのを感じる。
「俺にはねえよ。返せ」
そう言いながらも静雄は取り返そうとはしない。まるで壁に縫い付けられてしまったかのように体が動かなかった。
「まあそう言わずに話に付き合いなよ」
臨也は口端を片方だけ吊り上げて、赤い双眸を楽しげに細める。取り上げたサングラスを畳み、静雄の胸ポケットへと入れた。
「今日はハロウィンなんだ」
「…だからなんだ。お菓子でも欲しいのか」
ハロウィンと言う単語に鼓動が跳ねたのを、臨也が気付かなきゃいいと静雄は願う。
「残念ながらお菓子を欲しがる歳じゃない。俺が欲しいのはもっと違うものでね」
臨也はそう言って静雄の顎を掴んだ。ぴくっと静雄の肩が揺れる。きつかった眼差しに怯えの色が濃くなった。
「その様子じゃ覚えているみたいだねえ」
顎に触れていた臨也の手が、親指だけ静雄の唇に触れる。赤く乾いた薄い唇を、ゆっくりと指腹で撫ぜた。
自分を見つめる臨也の後ろに赤い空が見え、静雄は軽く眩暈がする。
恐ろしく赤い夕陽。

あの時と同じ。






放課後の誰も居ない教室で、静雄は臨也に口づけられていた。
静雄の手が、抵抗しようと臨也の肩を掴む。それは僅かに震え、力が入っていなかった。
臨也は角度を変えて、何度も口づける。唇を噛み、歯列を舐めて、口腔の奥に逃げ込む静雄の舌を探し出した。
飲みきれなかった唾液が、静雄の口から零れ落ちる。それすらも舌で掬い取って、臨也は何度も何度も舌を絡ませた。
窓から見える夕陽は恐ろしい程に赤い。
けれど今の静雄にはそれを見る余裕さえもない。静雄の意識は、今目の前にいる男にだけ全身全霊向けられていた。
やがて唇を離すと、臨也は静雄の濡れた唇を親指で拭ってやる。静雄の目は生理的な涙で僅かに潤み、臨也の目は情慾で光り輝いていた。
「…シズちゃん」
名を呼ぶ臨也の声は掠れて低い。
「好きなんだ」
その言葉に、静雄の体が熱く震える。
「好きだ」
「俺…は…っ、」
静雄はぎゅっと自分の制服を胸元で握り締めた。指先が震えている。みっともないくらいに。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
お前はいつだって俺を陥れて来たじゃないか。俺に大嫌いな暴力を使わせて。
「シズちゃん」
「…俺は、信じな…い」
唇を強く噛んで、静雄は目を反らす。顔を照らす赤い夕陽が鬱陶しい。
「お前が今までしてきた事、考えろよ」
静雄が吐き捨てるようにこう言うと、臨也は低く「そうだね」と呟いた。長い睫毛を伏せて。
「どうしたら信じてくれるのかな」
「……」
臨也の言葉に、静雄は黙り込む。ずっと握り締めていた制服は、既に皺になっていた。
「賭けをしよう」
不意に臨也が言い出して、静雄は顔を上げる。
臨也は赤い目でじっと静雄を見詰めていた。
「何年か経っても、まだ俺がシズちゃんを好きだったら信じてよ」
「…何年後だよ」
「五年後の今日。10月31日のハロウィンまで」
「…いいぜ」
五年も経ったら、どうせ忘れてるに決まっている。例え本気で好きだったとしても、心変わりだってするだろう。
「五年後、シズちゃんを抱くよ」
この言葉に、静雄は驚いて目を丸くした。臨也は口端を吊り上げて笑う。夕陽と同じくらい赤い目をして。
「それまで待ってて」
「…死ね」
静雄は目を反らして悪態をつく。
赤くなった頬は、夕陽で分からなければいいと思った。







「五年ってさ、結構長かったよ」
臨也はそう言って、静雄の下唇を尚も指で撫で続けた。指先が唇を行き来する度に、静雄の体が微かに震える。
「さすがの俺でも少し後悔した」
「…いい加減、離せよ」
静雄はやっと動いた右手で、臨也の手を掴んだ。臨也はそれに、片方の眉を吊り上げる。
「シズちゃん」
やんわりとその手を離させ、臨也は逆に静雄の指先に口づけた。そのまま指の一本一本を舌先で舐めてやる。静雄はそれに酷く動揺し、耳が熱くなった。きっと顔は真っ赤だろう。夕陽のせいではなく。
臨也は静雄の腰に手を置き、少し強引に引き寄せた。吐息が触れるほど至近距離に顔を寄せられ、静雄は心臓が早鐘のように打つ。
「いざ…」
や、と名前を呼び終わる前に唇が重なった。開いていた唇から臨也の舌が入り込み、あっという間に舌を絡み取られる。口腔内を思う存分蹂躙され、静雄は羞恥にぎゅうっと目を閉じた。
大体ここは路地裏とは言え外だ。誰かに見られたらどうするのだろう。犬猿の仲の自分達が、こんな。
静雄はそれでも抵抗しなかった。ただ黙って臨也を甘受する。何故なら自分はその資格がないから。
だって、賭けは、


「賭けは俺の勝ち」
臨也は唇を離し、よく響く声でそう宣言した。静雄は赤くなった顔を手で隠し、小さな舌打ちをする。
こいつは本当にバカなんじゃないだろうか。
自分なんかのどこがいいのだろう。何故五年間も、どうして。
臨也は静雄の顔を両手で包み込み、顔を寄せて額を合わせる。赤い双眸は、真っ直ぐに静雄の瞳を見ていた。逸らすことを許さずに。
「シズちゃんを抱く」
そう囁いた臨也の言葉に、静雄はびくりと体を強張らせる。囁いた臨也の声は、熱っぽく掠れていた。
「…いちいち言うんじゃねえよ、死ね」
静雄は軽く溜息を吐いて、臨也の肩口に額を埋める。今の自分の顔を、臨也に見られたくなかった。
「シズちゃんの言う『死ね』が、こんなに嬉しかったの初めてだ」
笑う臨也に、静雄はまた言ってやる。
「死ね」
それに臨也は声を上げて笑い、静雄の体を強く抱き締めた。



(2010/09/27)
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