続 嘘つき。1



これ の続き?



真っ白な壁、真っ白な天井、真っ白なシーツ。
静雄は今、ベッドに押し倒されて、首を絞められている。
親指で喉を押さえ付けられ、息苦しさに涙が滲んだ。喉からは思わず呻き声が漏れ、開いた唇からは唾液が垂れる。視界が霞み、意識が遠退く瞬間に手が離された。
同時にけほけほっと息を吸い込む。ポタポタと涙がシーツに零れるのを、静雄は霞んだ目で見下ろした。
臨也の手が伸びてきて、体を強引に起こされる。顎を掴んで上を向かされた。赤い双眸と目が合う。
臨也はそのまま顔を近付けて、静雄の涙に舌を這わせた。べろりと熱い舌が目尻を舐めるのに、静雄はびくっと体を震わせる。赤い舌先が、瞼の奥にある眼球を更に舐めた。
趣味が悪い男だ。
静雄はひゅう、と息を吸い込んで臨也の肩に手を置く。押し返して抵抗してやろうかと思ったが、結局置かれたままにした。
「死ねばいいのに」
臨也が笑いを含んだ声で言う。
「手前が死ねよ」
静雄はきつい眼差しで臨也を睨んだ。それに臨也がまた笑う。
茶番だ、これは。
死ねばいいと言うのは本心だった。だが殺す気はない。ない、のだろう。多分。
だから静雄は首を絞められても抵抗をしないし、臨也は絞めていた手は必ず離す。殺したいのに殺せない。死んで欲しいのに死なせたくない。
こんな矛盾な気持ちをいつだって抱いている。もう何年も。
「シズちゃん」
臨也はベッドから下りて、髪をかき上げた。床に散らばった静雄のシャツを拾い上げ、静雄の方へと投げて来る。
「今日は顧客来るから少し出て来て。1時間したら戻って来るといい」
「戻って来ねえよ。帰る」
静雄は身を起こしてシャツを羽織った。身体に残る痕を見ないようにして、さっさと衣服を着て行く。
「シズちゃんは戻って来るだろう?」
臨也の言葉に顔を上げれば、酷く冷たい目と合った。その赤い双眸に、これは命令なのだ、と静雄は理解する。
「…分かったよ」
静雄は目を逸らし、髪を整えた。サングラスをかけ、煙草と携帯を持って部屋を出て行く。
扉が完全に閉まる瞬間に、臨也が真摯な顔でこちらを見ていたが気付かない振りをした。


煙草を銜え、Zippoで火を付ける。ふわりと紫煙が視界を覆った。
勝手を知らない新宿の街を歩き回る気にはなれず、ぼんやりと駅の側の喫煙所で煙草を吸う。池袋より風俗営業店が多いこの街は、バーテン服はあまり違和感がない気がした。とは言えさすがに駅前では少し視線を集めてしまう。静雄はそれを全く介せずに煙草を燻らせていた。
空を見上げれば曇り空だ。雨が降るのかも知れない。そんな匂いがした。雨の独特な匂い。
雨が降ったら面倒だな、と思いながら、静雄は煙を吐く。
臨也と自分との関係は、もう八年近くにもなる。八年で何かが変わったわけではなく、変わらないまま八年が過ぎた。
臨也は相変わらず冷たく、気紛れで、静雄は振り回されてばかりいる。逆らえず、いつも黙って甘受してしまう自分に反吐が出る思いだった。
体を繋げるようになったのも高校の頃からで、今でもそれが続いている。多分臨也が静雄に飽きて捨てるまで、それは続くのだろう。惰性のように。
ふわり、と白い煙が風で空に舞う。枯れ葉がカサカサと音を立て、遠い地へ飛ばされて行った。街路樹はもう殆ど葉が残っていない。もうすぐ冬が来るのだな、と静雄は目を細めた。

きっかり1時間後、静雄は臨也のマンションへと戻る。
入口をくぐろうとした時に、臨也の助手にばったりと会った。確か名前は矢霧波江、だったか。
波江は静雄を見るなり困ったような複雑な表情の顔をする。この女は静雄から見ても綺麗な部類だったが、大抵表情は無愛想だ。
「今は行かない方がいいと思うわ」
この言葉に、静雄は無言で首を傾げる。波江はそれに溜息を吐いて一言こう告げた。
「中に女がいるから」
静雄はそれに目を見開く。
ああ、なるほど。と、妙に納得した。急速に冷えた頭で。だから戻って来いと言ったのか。なるほど。
「ありがとう」
静雄は波江に礼を言い、マンションへと入って行った。波江はそれ以上何も言わない。引き止める権利なんて誰にもない。ただ眉間に皺を寄せて、静雄の後ろ姿を見送った。




静雄は中に入るとドアノブに手を掛け、ふうっと息を吸う。久し振りだ。こんな風に緊張するのは。
きっと、自分は傷付くだろう。分かっているのに、この扉を開けなくてはならない。命令だったから。
静雄は覚悟を決めて、扉を開けた。
部屋の中は静かだった。静雄はゆっくりと中へ足を運び入れる。部屋の真ん中では案の定、臨也と知らない女が抱き合っているのが見えた。
臨也の赤い目が女の肩越しに静雄を捉え、口端を吊り上げて笑う。待っていたよ、と声が聞こえた気さえした。
静雄は眉間に皺を寄せ、目の前の光景から目を反らす。ああ、もう。やっぱりだ。予想通り過ぎて笑いが込み上げそうだ。
静雄はあの助手の女に感謝する。まだ教えられていた分、少しだけ心の準備ができていたから。
相手の女に見つからぬように扉を閉め、静雄は踵を返す。胸が痛いのか苦しいのか良く分からない。胸元の衣服をギュッと握り締め、静雄はマンションを出た。
逃げ出た事で後から臨也に嫌味でも言われそうだ。それでも今の静雄にはあの場所は不快で、息をするのも苦しい。
足早にどこをどう歩いたのか静雄には分からなかった。気付けば辺りは暗くて、見知らぬ新宿のどこかだ。暗いのは雨雲のせいで、雨が降り始めている。ぽつぽつとアスファルトに黒い染みが広がっていた。
これからどうしようか。
自分はどうしたら良いのだろう。
何年も何回も続けられて来たこの扱いに、疲れ始めていた。身体じゃなくて心も疲れるのだと静雄は身を以て知る。もうウンザリだ。
ポケットに入れている携帯が鳴った。電話に出る気がしない。携帯を見なくたって相手が誰か分かっている。
静雄は携帯を手にすると思い切り人がいない方向へ放り投げた。ガシャン、とそれは遠くのアスファルトに当たり、砕け散る。きっとアスファルトにも穴が開いているだろう。静雄にはそんなことはどうでもいい。
降り注ぐ雨は静雄の金髪を濡らして行く。白いワイシャツは透けて肌の色が顕わになった。冷たい秋の雨。
「だから言ったじゃない」
声がして振り返れば、あの男の助手が立っていた。真っ青な傘を持って。
「入らない方がいいって」
「……」
静雄は雨に濡れたまま、何度か瞼を瞬いた。目の前の女の顔が、傘のせいか酷く顔色が悪く見える。
「風邪ひくわよ」
波江が自身の傘を差し出して来た。静雄はそれに首を振る。もう静雄の体はびしょ濡れで、今更傘など意味を成さなかったから。
波江はそれに僅かに笑ったようだ。
「あんな男、付き合うのやめたらどうかしら」
仮にも雇い主に対して、あんな男と波江は言う。
「…そうだな」
静雄はそれに思わず笑った。あんな男。確かにその通りだ。
もうやめた方がいいのだろう。本当に。あんな男。
静雄は笑って空を見上げる。サングラスに水滴が散って、視界は最悪だ。
波江はそんな静雄をただ黙って見ていた。傘をさしたまま、ずっと。






(2010/09/23)
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