それは、あの時と同じ。







青い空。斑の白い雲。風は少しだけ乾いている。秋の空だ。
臨也はフェンスに背中を預け、煙草を吸っていた。学校の屋上で。
今は授業中で、誰かが来る可能性は低い。授業に出ていない臨也を、探しに来る勇気がある教師もいない。だからこそ堂々と煙草を燻らせていた。空を眺めながら。
秋の少しだけ肌寒い風が、臨也の漆黒の髪を揺らす。煙草の煙が風で掻き消される。
臨也にとって学校は退屈だ。面白くない授業、頭が軽いクラスメイト、代わり映えのない毎日。
一つだけ面白いと思えるのは、天敵を相手にしている時だけ。例えそれが嫌悪や苛立ちと言った忌ま忌ましい感情であったとしてもだ。
不意に屋上の重い扉が開く音がして、臨也は少し驚いた。こんな時間にここに現れる可能性がある人間を、臨也は残念ながら一人しか知らない。
臨也はその人物を思い浮かべ、校舎の影へと身を隠した。まともに鉢合わせをしたら、さすがに臨也もかなりの労力を使う。それくらい面倒な相手だった。
やがて現れたのは予想通り、金髪で背の高い青年。先程思いを巡らせていた、天敵である平和島静雄だ。
彼は颯爽と歩いて空の下へやって来る。どうやら臨也には気付いていないらしい。気付いていたのなら、ここはいち早く戦場になっていただろう。彼は喧嘩っ早いのだ。
静雄は屋上に備え付けられたベンチ座り、上着を脱いだ。もう秋だと言うのに、汗をかいているのが臨也からでも分かる。
手が傷だらけだ。どこかで喧嘩でもしたのだろう。けしかけたのは臨也だったので、喧嘩相手を予想するのは容易い。今日はきっとあそこの高校だな、と考えた。
静雄はワイシャツの袖を捲り上げる。現れた肌は真っ白だった。腕は細い。背は高いのに、体は細く華奢だ。顔は大人しそうだし、とても東京中の不良に恐れられている存在には見えない。
手に滲む血を、静雄はペろりと舐めた。どうせ直ぐに塞がる傷。その様子はまるで猫みたいで、臨也は少し笑みが零れる。猫だなんて可愛らしいものではないことを、臨也自身が一番良く分かっていた。
臨也はフェンスから背中を離すと、静雄の方へ近付いて行く。静雄は直ぐに臨也に気付き、眉間に皺を寄せた。いつものきつい眼差しで臨也を睨んで来る。まるで猫が毛を逆立てるみたいに。
「なんで手前がいるんだよ。出て行けよ」
こっちに来るな、と静雄は目だけで威嚇して来る。
臨也はそれに口角を吊り上げた。
「俺が先にいたらシズちゃんがやって来たんだよ」
ふぅっと煙をわざと静雄の方へ吐き出す。静雄はそれを鬱陶しそうに手で払った。
「煙草吸うのかよ、手前」
「たまにね」
口に煙草を銜えながら、臨也は内心おや?と思う。静雄が臨也の姿を見ても何もして来ないとは。宥め役の新羅も居ないと言うのにこれは珍しい。
どうやら静雄はかなり疲労しているようで、臨也に構う気分ではないようだった。口だけであっちに行け、と臨也を牽制する。いつもは口より先に手が出ると言うのに。
臨也は煙草を口に銜え、静雄の隣の席に腰を下ろした。静雄はそれにしかめっつらになるが、何も言わない。どうやら文句を言うのを諦めたらしい。臨也から視線を反らし、遠くの空に目を細めた。秋の高い空に、白い雲がゆっくりと流れてゆく。
臨也は煙草を燻らせながら、ベンチに置かれた静雄の手に視線を落とす。傷だらけの手は白く、指は細く長い。綺麗な手だな、と思った。この手があんな理不尽な暴力を振るうなんて、誰も思わないだろう。
静雄はずっと無言だ。臨也の存在は無視することにしたらしい。ただぼんやりとフェンス越しに、ビルだらけの街を眺めていた。風が時折金の髪を揺らす。傷んでいるせいか、少し癖がある髪。睫毛は長く、瞳の色は少し色素が薄い。肌は綺麗できめ細かく、今は喧嘩後のせいか少し薄汚れている。
不躾な臨也の視線に、静雄の目がこちらを向いた。きつい眼差しで睨んで来る。
「さっきから何だよ」
じろじろ見やがって、と赤く薄い唇から文句が出た。
「シズちゃんの顔を間近で見るの初めてだなあって」
臨也にしては珍しく、ありのままを口にする。悪意や他意がないのを感じたのか、静雄の目が僅かに見開かれた。
静雄は再び黙り込み、二人の間に沈黙が流れる。元来静雄はあまりお喋りな方ではない。新羅と二人の時も大抵は聞き役だ。まして今は天敵と二人きり。共通の話題などない。
静雄はちらりと臨也の煙草に視線を移した。眉間に皺を寄せて。
「美味いのか、それ」
「吸ってみる?」
臨也は唇から煙草を離し、静雄の方へとそれを差し延べた。まるでキャンディを勧めるように。
「…いらねえ」
静雄は顔を逸らす。煙草なんて百害あって一利無しだろう。大体未成年で煙草なんて、と静雄は至極真面目なことを思っていた。
静雄の考えが読めて、臨也は口端を吊り上げて笑う。手を伸ばして静雄の顎を掴むと、強引にこちらを向かせた。そして驚きで薄く開いた唇に、煙草を無理矢理差し入れる。
静雄の目が見開かれ、ちょうど勢いよく煙草を吸い込んでしまった。次の瞬間、けほけほと咳込む。ぐいっと煙草を持った臨也の手を押し退けた。
「吸い込み過ぎだよ」
咳込む静雄に、臨也が背中をさすってやる。
静雄はその手も振り払って、涙目で臨也を睨む。
「手前が急にやるから吸い込んじまったんだろうが!」
「ははっ」
臨也は声に出して笑った。灰を屋上の床に落とし、また煙草を吸う。ふわりと煙が舞った。
静雄はまだけほっと軽く咳込んでいる。目尻に涙が滲んでいるのが可愛らしかった。
「そう言えば間接キスだねえ」
これ。と、臨也は煙草を見せて言う。赤い目が揶揄するように静雄を見た。
静雄はその言葉にウンザリと舌打ちをし、ゴシゴシと唇を手の甲で拭う。目許は僅かに赤く、先程の咳込みのせいで目はまだ潤んでいる。
臨也はそれに更に笑い、短くなった煙草を揉み消した。持っていた携帯灰皿にそれをしまい込む。吸った跡が校舎で見付かったら面倒だ。色々と。
静雄は尚も唇を拭っている。余程嫌なのだろう。全く酷い扱いだ。臨也は少しだけ不愉快な気持ちになるが、ふと思いついて口端を吊り上げた。
「シズちゃん」
静雄に顔を近づける。
名を呼ばれて訝しげに顔を上げた静雄の唇に、そのまま自身の唇を重ねた。
柔らかい感触。
化け物みたいでも唇は柔らかいのだな、と臨也は思った。
静雄の目が驚きで丸くなるのを、臨也は同じく目を開いたまま見る。やがて唇を離されても、静雄はぽかんと驚きの表情のままだった。
「間接キスならぬ、直接キスだねえ」
臨也はそう言って自身の唇に人差し指で触れた。しー、をするみたいに。
静雄の驚きの顔が、徐々に怒りに染まっていく。こんな風に人の表情は一変するのだな、と臨也はいやに冷静な感想を抱いた。
「死ね!」
怒りに支配された静雄の拳が飛んで来るのと、臨也が屋上から走り去るのはほぼ同時だった。
空を切った静雄の拳は屋上のコンクリートを勢い良く粉砕する。その頃にはもう臨也は出口の扉に手を掛けていた。
「退散するよ。シズちゃんにそれはあげる」
臨也はそう言い残して屋上から出て行く。あははと笑い声を響かせながら。
静雄はそれに忌ま忌ましげに舌打ちをしたが、後は追わなかった。
後に残されたのはソフトケースに入った煙草だけ。
静雄はそれを見下ろし、ウンザリして頭を掻きむしる。暫し悩んだ末、ポケットにしまい込んだ。


それから静雄はヘビースモーカーになり、臨也は逆に煙草をやめてしまった。
不思議なものだな、と臨也はあの時のことをたまに思い出す。秋の空や煙草の煙、傷だらけの手、唇の感触。鮮明に覚えている。キスはいろんな相手と何度もして来たが、あの時のキスが一番印象に残っていた。
ギシッとベッドのスプリングが揺れ、臨也は目を開ける。薄暗い部屋の中で、静雄が煙草に火をつけたところだった。
臨也の視線に気付き、静雄が首を傾げる。なんだよ、と言いながら。あの頃と少しも変わらぬ眼差しで。
「煙草、美味しい?」
「まあな」
静雄は短く返答し、煙を吐き出した。あの頃に比べたら随分と吸うのが上手くなったものだ。
静雄の白い肌にはたくさんの赤い痕がある。臨也がつけた跡。それは白い肌にいやに目立っていた。
あの時気紛れで口づけなければ、こんな関係にはなっていなかっただろうか。煙草同様に、臨也にはそれも感慨深い。
臨也は身を起こすと、静雄の手から煙草を取り上げた。
「おい、」
静雄の抗議の声を無視し、それを口にする。煙を深く吸って、ゆっくりと吐き出した。真っ白な煙が部屋に舞う。
「…まずい」
臨也はそう言って、まだ長いそれを近くの灰皿で揉み消した。それに静雄は眉間に皺を寄せる。
「勿体ねえ…」
愚痴る静雄の腕を引っ張り、臨也はベッドに押し倒した。静雄の目が、驚きで丸くなる。色素の薄い瞳、長い睫毛。臨也が気に入っているもの。
臨也は赤い目を細め、静雄に顔を近付けた。その意図を察したのか、静雄がびくりと体を震わせる。
やがて唇が重なった。お互い目を開いたままで。


キスはあの時と同じ、煙草の味がした。


(2010/09/22)
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