SNOW DANCE






静雄はゆっくりと紫煙を吐いてから、残った煙草を揉み消した。
時計を見るともうすぐ0時だ。それを確認した途端に眠気が襲って来る。
欠伸をしながらのろのろとソファーから身を起こした。読み掛けの雑誌を乱暴にテーブルに放り投げる。実の弟が表紙の雑誌。読み終わっても保存しておかねばならない。
部屋の明かりを消して、布団に潜り込んだ。ヒンヤリとした感触に、小さく身を震わせる。そう言えば今日は何だか酷く肌寒い。外はさぞかし寒いのだろう。
ああ、エアコンを切っていない。
静雄は軽く溜息を吐いて起き上がった。暗闇の中、エアコンのリモコンを探す。適当に放り投げて置くのでいつもリモコンは行方不明だ。
すると突然、着信音が鳴り響いた。静寂な部屋に響く面白みのないベルの音。静雄は驚いて携帯を見遣った。
無造作にフローリングに置かれた携帯は、仄かな光りを放っている。手に取って見るが、知らない番号だった。
無視しようか。
悩んでいる間にも、着信音はしつこく鳴り響く。
静雄は小さく舌打ちをし、電話に出た。
「…はい」
『外』
「あ?」
『外、見て』
電話に出た途端に言われた言葉に戸惑う。静雄は携帯を耳に宛てたまま振り返り、カーテンに閉ざされた窓を見た。
この声は聞いたことがある。耳に残る少し高めのこの声は。
カーテンを静かに開き、白く曇った窓を開けた。
冷たい風が入り込んで来る。はあっと吐いた静雄の息が真っ白に空へ昇った。
外は雪が降っていた。ハラハラと白い羽毛のような雪が地へと降り注ぐ。
静雄は驚いて暫し黙り込んだ。道に積もる程の雪は東京では珍しい。
『綺麗だろう?』
耳元で笑い声がする。電話の向こうの相手はご機嫌らしい。
「この為にわざわざ電話して来たのか」
なんとも言えない気持ちになって、静雄はぶっきらぼうに言う。
たかがこんな事の為に、馬鹿だな。
――…なんて。
本当は思っては居ないのだけれど。
『朝になったら消えてるかも知れないからね』
はははっ、と電話の相手は笑う。どんな風に笑っているのだろう。静雄には想像しか出来ないけれど、多分いつもの厭味な笑みを浮かべているんだろう。あの綺麗な顔を歪ませて。
「寝ようとしてたんだぞ」
迷惑そうに言ってやる。
だって本当に寝るつもりだったのだ。眠くて欠伸が出てたし、布団にだって一度潜った。
大体もし寝ている最中だったらどうしてたんだろう。きっと自分は電話に出ないし、着信が煩かったなら携帯電話を破壊していたかも知れない。
静雄の息が白く舞う。ふわふわと落ちて来る雪を見ながら、暗い夜空を見上げた。
『シズちゃん寝るの早いもんねえ』
揶揄するような口調が返って来るのに、不思議と腹は立たなかった。いつものあの姿がないからだろうか。
「俺は明日も仕事あるんだよ」
時間にルーズな仕事の手前と違ってな。と憎まれ口を叩いた。
片手で電話を握り締めたまま、空いている手を前へと伸ばす。開いた手の平に冷たい雪が落ち、やがてそれは溶けて消えた。
『そう言えばシズちゃんとこうして電話で話すの初めてだよね』
電話の相手がこう言うのに、そう言えばそうかも知れないなと考えた。
大体、犬猿の仲である自分達が電話なんて有り得ないだろう。用事も無ければ番号も知らない。かれこれ付き合いは八年余りになるが、仲が良かったことなど一度たりともないのだから。
「電話で話す事なんかねえだろ。手前と俺にはよ」
『その割に通話は切らないんだねえ』
くっくと耳元で笑い声がするのに、静雄はムッとした。何だか心を見透かされたみたいで腹が立つ。
「じゃあ切るわ」
そう言って咄嗟に電話を切ってしまった。
ツーツーツー…。機械音が冷たく響く。
くそっ、うぜえ。
携帯を床に投げ付けたい衝動に駆られるが踏み止まる。これが壊れたら多少なりとも生活に支障が出る。上司や親友の番号も登録されているのだ。
また電話が鳴った。
ディスプレイを見れば、さっきと同じ番号だ。静雄はチッと大きな舌打ちをして電話を取る。
「んだよ」
『切ることないじゃない』
耳に届いた相手の声は不機嫌だ。少しでも相手を不快に出来たのなら、静雄は溜飲が下がる思いがする。
「まだ何か用なのかよ」
出来るだけ無愛想に言ってやった。
本当は、もしかしたら、ひょっとして、たぶん、もう少しだけ。話していたかったけれど、相手には絶対に言わない。
『雪が見れて良かっただろう?』
耳に届いた声は意外にも穏やかなものだった。
静雄は思わず目を見開く。顔が見えない分、相手の感情が直接伝わってきた気がした。
静雄は何と言っていいか分からず、ぎゅっと携帯を握り締める。雪がふわりと落ちてきて、静雄の髪を濡らした。
くしゅん、と小さくくしゃみが漏れる。そう言えばずっと窓を開けていた。指先が冷たい。
『窓を閉めなよ。寒いだろうに』
相手も察したのだろう。僅かに苦笑したように感じた。
「平気だ」
まだもう少し見ていたかったから。
深夜のせいか人通りが少ない道は、どんどん雪が降り積もっていく。真っ白な雪は誰も踏み荒らしていない。こんな白い絨毯は、きっと今だけだ。
『そんな薄着じゃ風邪をひくよ』
この言葉に静雄は少し驚く。
「薄着って…何で分かるんだよ」
『見えてるからさ』
電話の相手は楽しげにそう言い、軽く笑い声を漏らした。
驚いて外を見回せば、真っ黒なコートを着た男が真っ白な道を歩いて来る。
男は白い息を吐き、携帯を耳に宛てたまま静雄を見上げて笑った。
「臨也」
静雄は携帯を耳から離し、呆れたように男の名を呼ぶ。こんな時間のこんな天気に、何を出歩いているのだろう。電車だって止まるかもしれないのに。
「やあ」
雪のせいだろう。臨也の髪は少し濡れているように見えた。彼の唇からは言葉と共に白い息が舞う。
「手前、何しに来たんだよ」
天敵の姿を見たと言うのに、静雄には怒りが湧いて来ない。どちらかと言えば驚きや戸惑いの方が強かったせいだろう。
「シズちゃんに逢いに」
本気なのか冗談なのか分からない口調で、臨也は緩やかに笑う。持っていた携帯を閉じると、ポケットにしまい込んだ。
「ふざけんな」
「残念ながらふざけてないよ」
声を荒げる静雄に対して、臨也は肩を竦める。
「雪だなあって思ったら、逢いたくなったんだよ」
「――…」
何と言っていいか分からなくて、静雄は黙り込む。
臨也の言葉は何だか真実味を帯びていて、静雄には否定することができない。無意識に拳を軽く握り締めた。
そんな静雄を臨也は黙って見上げている。真っ白な息を吐きながらじっと。雪が臨也のコートを濡らしてゆく。
「まあもう用は済んだしね。帰るよ」
いつまでもそうしてたら、シズちゃん風邪ひくよ。
臨也はそう言って踵を返す。背をこちらに向け、片手を上げて別れの挨拶をした。そしてそのまま歩き出す。
「臨也!」
静雄は咄嗟に名前を呼び、慌てて部屋を出た。窓から離れる瞬間に、臨也が振り返った気がする。
外に出ると臨也が驚いた顔で立っていた。真っ黒なコートのポケットに、両手を突っ込んで。
「どうしたの、シズちゃん」
「……」
問われても自分でも分からない。雪がハラハラと静雄にも積もって行く。
静雄は自身に舌打ちをしたい思いで目を逸らした。ひょっとしたら顔が赤いかも知れない。寒さなんて感じなかった。頬が少し熱い。
臨也は口角を吊り上げて、そんな静雄を見ていた。やがて手を伸ばし、静雄の髪に積もった雪を払ってやる。
静雄は真っ白な臨也の手が自分の髪を撫でるのを、黙って好きにさせていた。臨也の髪にだって雪は積もっているのに。
「こんな格好じゃ風邪をひくよ」
「…手前もだろ」
静雄は臨也の手に触れた。指先は自分なんかよりずっと冷たい。一体いつから外にいたのだろう。きっと他の箇所も冷たくなっているに違いなかった。
臨也は静雄をただ黙って見ている。赤い双眸を細め、金髪に雪が降り注ぐ様を。
静雄はそんな臨也の両手を掴み、はあっと息を吹き掛けた。ふわりと真っ白な吐息が空に舞い、消えてゆく。
「…冷てえ」
静雄はぽつりとそう呟いた。息を吹き掛けたところで暖かさなんて変わらないだろう。
「シズちゃん」
臨也は静雄のその手を逆に掴んだ。静雄は驚いて顔を上げる。その瞬間に唇が重なった。
掠めるようにして直ぐ離れたそれに、静雄は目をぱちぱちさせる。
「…何だよ、今の」
「シズちゃんが可愛すぎたから」
臨也は楽しそうに笑う。唇は温かいね、なんて言って。
「気持ち悪い事言うな」
静雄の顔は赤い。大体一瞬過ぎて、静雄には唇の温度を感じる余裕などなかった。
「シズちゃん」
臨也は静雄の手を引いて軽く抱き寄せる。静雄は驚きで体を硬直させた。
「俺、寒いんだ」
「…だから?」
「あっためてよ」
静雄の耳元に、臨也の声が吐息と共に触れる。電話と同じ声だ、と、静雄はなんだか不思議な気持ちになった。
「シズちゃんにしか暖められないからさ」
「…なんだそれ」
臨也の声は真剣で、静雄は少し戸惑う。自身の心臓がどくんと音を立てたのが分かった。
雪ははらはらと容赦なく二人に降り注ぐ。見た目は綺麗なのに冷たいそれは、二人の体温をどんどん奪っていく。
「おいで、シズちゃん」
臨也は静雄の手を引いて歩き出した。
「臨也、」
「シズちゃんちに行こう」
真っ白な雪に、足跡がついていく。白い白い道に、真っ黒なコートの臨也は随分と映える。
「部屋に入ったら、」
臨也は振り返らない。
「シズちゃんを抱く」
振り返らないまま言われたその言葉に、びくっと静雄が手を引いた。それでも臨也の手は離れない。
扉を開けて、中に連れ込まれた。部屋は出た時のまま、真っ暗だ。
電気をつけようとした静雄を制し、臨也は暗闇の中で静雄の手を引く。そのままベッドまで歩くと、細い体をそこに押し倒した。
「…本気かよ」
「愚問」
臨也の手が、静雄の衣服を剥いで行く。静雄は抵抗しなかった。ただ黙って臨也の赤い目を見詰めている。
「抵抗しないんだね」
臨也の静かな笑い声が、暗い部屋に響いた。雪で濡れた髪から、ぽたりと雫が落ちる。
「…あっためて欲しいんだろ?」
静雄は腕を伸ばすと臨也の髪に触れる。髪の毛は濡れて冷たい。
「…そうだよ」
臨也は笑いを消して、真摯な目で静雄を見下ろした。静雄はその目を見上げ、髪を優しく撫で続ける。
「ならあっためてやるよ」
そう言うと、臨也の赤い目が細められた。髪に触れる静雄の手を取り、指先に柔らかく口づける。
臨也も静雄も、もう何も言葉を交わさなかった。
暗闇の中で、衣服が擦れる音がする。冷たかった互いの肌が、熱を帯びて火傷しそうだ。



うっすらと目を開ければ、白く曇った窓から雪が見える。今は降っていても、きっと朝には消えてしまうだろう。魔法みたいに。

「雪、」
「ん」
「見れて良かった」
「そうだね」

静雄の言葉に臨也は頷く。
もう寒くはなかった。



(2010/09/20)
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