嘘つき。




好きじゃない。



何度もそう繰り返される言葉。
しかし何度聞いても静雄にはその言葉は慣れなかった。こんな言葉を慣れる奴なんているのだろうか。


整列された机、落書きされた黒板、薄暗い教室、遠くの喧騒。壁に掛けられた時計が、チクタクと音を立てる。
静雄は机に腰を掛け、黙って外を見ていた。外はもう秋の装いで、木枯らしが枯れ葉を揺らしている。きっと外はさぞかし寒いのだろう。
臨也はそんな静雄を視界に入れることなく、先程から熱心に本を読んでいる。わざわざ放課後の教室で読む必要があるのだろうか。静雄には臨也の考えはいつだって分からないし、分かろうとする気もなかった。
静雄は鞄を手にすると立ち上がる。教室を出ようとし、
「どこ行くの」
と声を掛けられた。本から目を上げないまま。
「帰る」
一言そう静雄が言うと、臨也は初めて顔を上げた。
「ここにいて」
「臨也、」
「いろよ」
強めに言われ、静雄は黙り込む。溜息を吐いて、肩に掛けた鞄を机の上に下ろした。
臨也は再び本に視線を戻す。
静かな教室に、チクタクと秒針の音だけがする。静雄は臨也から二つ離れた席に座り、頬杖をついてまた外を見た。
空はもう薄暗い。赤い空がどんどん闇に浸蝕されてゆく。薄い色をした月がぽっかりと空に浮かんでいた。遠くで掛け声がする。学校に残っている部活動の生徒のものだろう。今こうして何もせずに教室にいるのは静雄ぐらいかも知れない。
突然ポケットに入れていた携帯が振動し、静雄は驚いた。思わず臨也を見るが、臨也は本から目を逸らさない。
携帯を開くと親友からだった。新羅と喧嘩してどうとか、珍しく愚痴だ。
思わず笑みが零れ、返信を返す。静雄はこの口がきけない親友が大好きだった。
返信を送ると、また直ぐに返事が来る。余程堪えているのだろう。直接会って愚痴を聞いてあげたいが、今静雄は動けない。
ふと顔を上げると、臨也がこちらを見詰めていた。その赤い双眸は冷たく、静雄には感情が読めない。
「…なんだよ」
静雄は眉を顰める。おとなしく待ってやってるのにまだ何か不満なのだろうか。
「誰から?」
「?」
「メールだよ」
臨也の声は冷たい。読んでいた本を閉じ、無造作にそれを机に置いた。
「手前には関係ねえよ」
静雄はそう言ってまた携帯に目を落とす。
不意に視界に影がさし、顔を上げた。いつの間にか臨也が側にいて、手にしていた携帯を取り上げられる。
「おい!?」
焦る静雄を無視し、臨也は窓を開けると携帯を外に放り投げた。
「なにすんだよ!」
「ムカついたから」
憤慨する静雄に、臨也は低い声で答える。顔にはいつもの笑みがなかった。
「…死ね」
静雄は同じく低い声で一言そう口にし、鞄を持って席を立つ。捨てられた携帯を取りに行かねばならない。ここは二階だったし、機能は絶望的だろう。
「またここに戻っておいで」
教室を出て行こうとした静雄に、後ろから声が掛けられる。臨也の冷たい声。
静雄はそれに振り返って、きつい眼差しで睨みつけてやった。
「手前には付き合ってられねえよ。もう先に帰る」
「静雄」
不意に名前を呼ばれ、静雄は驚いて黙り込んだ。いつものふざけた愛称ではなく、名前で呼ばれたのは初めてだったから。
「戻っておいで」
臨也の声は、有無を言わせない力がある。静雄は目を伏せ、盛大な舌打ちをした。手にしていた鞄を机に戻し、不機嫌に教室を出て行く。
廊下を逃げるように早足で歩きながら、また舌打ちをする。ああ、もうっ。いい加減にして欲しい。あのクソ野郎が!
最近臨也はいつもこうやって静雄を振り回す。何が気に入らないのか毎日機嫌が悪い。静雄はその度にウンザリしてもう付き合わないと思うのに、結局は言うことを聞いてしまう。
静雄は生徒玄関から内履きのまま外に出た。部活動の生徒たちが静雄に気付き、即座に目を逸らす。静雄はこの学園では有名人だ。臨也と新羅と同様に、他の生徒たちから恐れられている。静雄はそれを全く気にせずに、すたすたとグラウンドまでを歩いた。
枯れ葉が足元を飛んでゆく。外はやはり風が冷たかった。もうすぐ秋が終わって冬が来るのだろう。秋の期間は短い。
校舎に近付いて携帯を拾い上げる。それは一目見て壊れているのが分かった。ディスプレイにヒビが入り、本体部分はひしゃげている。もう使い物にはならないだろう。はあ、と静雄は深く溜息を吐いた。せめてデータが引き出せたら良いのだけど、無理そうだ。
壊れたそれをポケットにしまい込み、静雄は来た道を戻る。本当に自分は何をやっているのだろう。あんな男に逆らえないなんて。
静雄は多分、認めたくはないけれど、臨也が好きだった。そしてそれを、臨也も気付いている。静雄の気持ちを分かっていて、臨也はいつもこう言うのだ。
俺は君が好きじゃない、と。


教室に戻ると臨也は居なかった。荷物もないし、帰ったのかも知れない。そういう男だ。
静雄ははぁっとまた溜息を吐いて、窓際の席に座る。先程まで臨也が座っていた席だ。
まだ夕陽で赤く染まる空を暫く見つめ、やがて机に顔を突っ伏す。
戻って来いとは言われたが、待ってろとは言われていない。だから待つ必要なんてないのだけれど、静雄は動く気になれなかった。まるで忠犬ハチ公だ。
きっと、帰ってしまったんだろう。臨也は静雄を虐げるのが好きだから、こんなことは平気でやるはずだ。
そう分かっているのに、静雄はここから動けない。
チクタクと時計の音がする。部活動の生徒の声も、今はもうしない。静かな教室に自分一人だけ。
どれくらいそうしていただろう。ひょっとしたらウトウトと微睡んでいたかも知れない。かたんとドアが開く音がして、驚いて顔を上げた。
もう教室は殆ど真っ暗で、静雄は目を何度か瞬かせる。暗い暗い教室の入口に、臨也が立っていた。
臨也は真っ暗な教室を、電気もつけずに入って来る。
「臨也?」
戻って来たのか。
静雄は近付いて来る臨也を、目を見開いて見ていた。
臨也は静雄の前の席の椅子を引き、そこに腰を下ろす。薄暗いせいで表情は見えなかった。ひょっとしたら静雄を嘲笑っているのかも知れない。
「いつまでいるつもりだったの」
臨也の声はまるで疲れているかのように、酷く抑揚が無かった。
静雄はそれに顔を伏せる。何かを口にしたら、臨也が怒り出すような気がして黙っていた。
二人の間に沈黙が落ちる。もう殆ど夜と言ってもいい時間帯で、そろそろ校舎に居残るのは限界だった。
「顔を上げて」
やがて臨也にそう言われ、静雄は顔を上げる。臨也の酷く端正な顔が近付いて来るのを、静雄は瞬きもせずに見ていた。
唇が触れ合い、口づけられる。目の前には臨也の赤い瞳があった。微かにコロンの香りがする。臨也の匂い。
キスをされたのだと静雄が気付いた時には、唇がもう離れた後だった。
「…なんの真似だ」
静雄は臨也を睨みつける。驚きで丸くなっていた瞳を、鋭くきついものにして。
臨也はそれには答えず、ただ口端を吊り上げて笑う。ポケットから何かを取り出すと、机の上にそれを置いた。
「あげる」
置かれたのは新しい携帯電話だった。静雄も見たことがある。臨也のと同じ機種だ。
「データは俺の番号だけ入ってるけど、後は好きに使うといい」
静雄はそれに目を見開く。
「なんで」
「壊したお詫び」
臨也は短くそう言うと立ち上がった。暗い教室を、出口へ向かって歩く。
残された静雄は机に置かれた携帯電話を、困ったように見下ろしていた。きっと高いのだろう。気軽に受け取るのは抵抗がある。
「シズちゃん」
扉に手を掛けて、臨也は振り返った。薄暗い中でも、臨也が薄く笑っているのが静雄には分かる。
「帰るよ」
静雄は黙って臨也を見返した。臨也は僅かに首を傾げ、おいで、と言う。
やがて静雄は溜息を吐くと携帯を手に取った。それを無造作にポケットに入れ、鞄を手に立ち上がる。
「…んとに手前は何考えてるか分かんねえよ」
吐き捨てるようにそう言って、臨也の後に続いて教室を出た。
そんな静雄に肩を竦め、臨也は先を歩く。
「でもシズちゃんはそんな俺が好きなんだよね」
臨也のそんな言葉に、静雄はウンザリと舌打ちをする。こいつはなんでこんなことを平気で言えるのだろう。本当にムカつく野郎だ。
「…好きじゃねえよ」
暫く黙り込み、漸く静雄はこう答えた。静雄のその答えに、臨也は口端を吊り上げる。
「シズちゃんは嘘つきだ」
「…手前もだろ」
好きじゃない、なんて。
この嘘つき野郎が。
静雄のこの言葉を、臨也は否定しなかった。ただ笑って、そうだねと呟いただけだった。


(2010/09/19)
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