2.




気怠い体を起こして立ち上がると、体の節々が痛んだ。軽く頭痛がするのは酒のせいだろう。
ベッドの隣を見れば、臨也がまだ眠っていた。こんな風に無防備に眠る姿を見るのは初めてで、静雄は少し戸惑う。
起こさないようにゆっくりとベッドから降りた。ギシっとスプリングが揺れるのにさえ気を使う。こいつはきっと、眠っていても警戒心が強そうだから。
結局昨夜は散々犯されてしまった。風呂で抱かれて、寝室に連れ込まれて抱かれて、もう嫌だと言っても何度も何度も抱かれた。ウンザリとするぐらいに。挙げ句は中出しされた精液を指で掻き出されて、羞恥もピークだった。もう心底最悪だ。
裸体のまま部屋を出る。体中に付けられた情事の痕は綺麗さっぱり無視した。見たらムカつくし、考えないようにするのが利口だろう。
確か乾燥機に臨也が衣服を入れていた筈だ。さっさと着替えて帰ろう。臨也が起き出したら面倒だ。何を言われるか堪ったものではない。
案の定それは乾燥機にあったが、酷く皺くちゃで。静雄ははぁっと溜息を吐いてそれを身につける。ワイシャツが特に皺が酷い。家に着くまでの間だし我慢するしかないだろう。
髪の毛を手櫛で整え、サングラスをかける。それだけでいつもの自分に戻った気がした。残念なのは煙草が濡れて台無しになったことだ。あれでは到底吸えない。
マンションから出るとヒヤリと涼しかった。朝の清んだ空気に目を細める。鳥の鳴き声がし、空の色は薄い。太陽がまだ低い位置にいた。
早朝のまだ人通りが少ない街を歩きながら、静雄は考える。
何故抱かれたのだろう。世界で一番嫌いな男に。酔っていたせいだろうか。
いや、関係ないだろう。殆ど酔いが冷めていたのは自身で分かっていた。
臨也は。
何故自分を抱いたのだろう。
静雄は昨夜の臨也を思い出し、顔が赤くなるのを感じた。
臨也は珍しく余裕がなかった。掠れた声。優しい手つき。あんな風に熱情をもって、誰かに名を呼ばれたのは初めてだ。
…シズちゃん。
忘れよう。思い出さないようにしよう。羞恥で死にそうだ。
静雄は熱い頬を手で押さえ、早足になった。
暫く臨也に会うのをやめた方がいいなと思いながら。



目が覚めるともう隣に静雄は居なかった。
ベッドサイドに置かれた時計を見れば、もう朝とは呼べない時間になっている。短い針が11過ぎを指していて、思っていたよりも寝過ぎたようだ。
臨也は裸体のまま起き上がり、クローゼットから黒いシャツを羽織る。
カーテンもブラインドもない大きな窓からは、太陽がこちらを見ていた。凶悪な光りを放って。
静雄の服は乾燥機に突っ込んで置いたので、それを着て出て行ったのだろう。きっと皺くちゃだった筈だ。怒った顔が目に浮かんで、臨也は僅かに笑みが零れた。
昨夜、風呂で抱いた後に寝室に連れ込んでまた抱いた。何度も何度も。
悔しげに悪態をつきながらも快感に溺れていく様は、酷く臨也を興奮させた。今でも思い出すとヤバいくらいに。
高いコートを駄目にした分くらいはあったな、と口端を吊り上げる。お釣りが来るくらいだろう。あの姿態が見れたのは。
まさか自分が男を抱く日が来るとは思わなかったが、悪くはなかった。勿論静雄以外の男など御免だったし、今後も有り得ないだろう。
着替え終わって仕事部屋に入ると、もう助手がテキパキと仕事をこなしていた。昼に起き出した雇い主を見ても、チラリと視線を送るだけで何も言わない。優しいのか、冷たいだけか。恐らく後者だろう。
「君が来た時さ、誰か居なかった?」
「…恋人でも連れ込んでいたのかしら?居なかったわよ」
「そう」
一体何時に出て行ったのだろう。朝方まで抱かれていたと言うのに良く起きれたものだ。
あんなに抱かれて喘いでいたのに、いつものあの眼差しは少しも揺るぐことがなかった。最後まで悪態をついていたし、気を抜くとたまに殴りかかって来る。セックスで流されるのはやはり女だけなのか、それとも平和島静雄だからか。
「ねえ」
物思いにふける臨也に、助手は声をかける。
「なんだい」
「あなたさっきからニヤニヤしてるわよ」
気持ち悪いわ。
波江はウンザリとしたようにそう言って視線を書類へと落とす。それきりもう雇い主を見遣ることはなかった。
臨也はそれに心外だとでも言うように不機嫌な表情をしていたが、やがて鼻歌を歌って部屋を出て行く。きっとまた何か思い出しているのだろう。
そんな臨也を見送って波江はまた一言、
「気持ち悪い」
と呟いた。



その日から一週間と少し。臨也は静雄に全く会わなかった。
家にも帰っていないようだし、池袋を歩いても自販機も飛んで来ない。
相手は自分を察知する能力に長けているので、恐らく避けられているのだろう。
さてどうしたものか。
我に返って後悔でもしているのかも知れない。犬猿の仲にある自分に抱かれたのだから、当然と言えば当然か。
臨也は新調した真っ黒なコートを羽織り、池袋の街を歩く。何人か知り合いを見掛けるが、今は構ってはいられなかった。自販機は空を飛ばず、標識は我が物顔で道路に立っている。臨也には寧ろそれが非日常で、幾分気持ちが悪い。
臨也は溜息を吐くと、携帯を取り出した。



「で、なんで僕の所に来るの」
顔にはっきりと迷惑と言う文字を貼り付けて、旧友はお茶を啜った。
平日の夕方に近い時間帯。池袋にある高級マンションで、臨也は白衣の男と向かい合っていた。
「新羅ならシズちゃんの居場所知ってるかと思ってね」
臨也は同じくお茶を啜りながら新羅を探るように見る。お茶は少しだけ苦かったが、きっと高い茶葉なのだろう。まずくはない。
「静雄には最近会っていないよ。セルティなら会ってるだろうけど」
彼等は親友だからね。
そう言う新羅にはちっとも嫉妬など感じられない。友人として静雄を、恋人としてセルティを信用しているのだろう。
「て言うかね、君の情報網を使えば直ぐに分かるんじゃないのかい。静雄の居場所なんてさ」
「うん、まあね」
「……」
「……」
二人の間に沈黙が落ちた。
ずっとつけっぱなしだったテレビはUFO特集をやっている。勿論仕事で居ないセルティの為に、新羅が録画済みだ。
「静雄となんかあったの?」
聞こうか悩んで結局聞いた。二人の問題に口を挟む気は新羅にはなかったのだが、やはり気になる。
「抱いた」
ガチャン!
臨也が一言告げるのに、新羅は思わず湯呑みを落とした。中の薄緑色の液体が、テーブルの上へ広がる。
「わ!あちちっ、」
「何やってるのさ」
臨也は面白そうに新羅の反応を見る。予想通りの反応だったがなかなか愉快だ。
「抱いたって…あの、」
「セックス」
「…やっぱりそうなの」
テーブルに零れたお茶を拭きながら、新羅は口を噤む。セルティが今この場に居なくて良かったな、と心底思った。
「それって合意?強姦?」
「合意だよ。まあ相手は酔っていただろうけど」
強姦ではないはずだ。臨也は笑って肩を竦める。大体あの平和島静雄を強姦など、薬でも使わなければ無理だろう。薬さえも利くのか怪しい。
「君が静雄に抱かれた、ってよりは納得だけどさ」
新羅は苦笑して空になった湯呑みを片付ける。もうお茶を飲む気にはなれなかった。
「で。その後遭遇しなくなったから、多分避けられてるのだろうと思ってね」
「照れてるか後悔してるか、…まあそんなところかな?」
「だろうね」
臨也の顔が不機嫌に歪んだ。苛々としているのが目に見えて分かる。いつも余裕な態度な癖に珍しい。
「どうして抱いたの」
新羅は至極当たり前の疑問を口にした。
「臨也、静雄が大嫌いだって公言してたじゃない。なのにどうして抱いたりなんかしたの?」
臨也と静雄を知っている者なら誰しも抱くであろう疑問だ。彼等はそれくらい仲が悪く、まさに天敵と言う言葉に相応しい間柄だったから。
「さあ…、正直分からないかな」
珍しく臨也は歯切れが悪い。軽く溜息を吐いて新羅を見遣る。
「でもひょっとしたら好きだったのかも知れないけど」
「今更気付いたの」
新羅がははっと笑い声を上げるのに、臨也は眉を顰めた。
「なにそれ、どう言うこと?」
「だって君、静雄には異様に執着見せるしさ。好きな子を虐めるいじめっ子みたいだったじゃない。僕はてっきり一目惚れでもしたのかと思ってた」
あの日、あの時、入学式の学校で。
出会って直ぐに殺し合いに似た喧嘩をした臨也と静雄を、新羅は今でも鮮明に覚えている。
「あながち間違ってなかったみたいだね」
新羅は臨也に笑って、お茶のおかわりどう?と聞いた。それに臨也はむすっと首を振る。どうやら機嫌を損ねたらしかった。
「これからどうするの?」
「どうするって?」
「静雄をどうする気なの」
新羅はにこにこと笑っている。静雄を心配しているのか、それとも面白がっているのか。臨也には新羅の表情は読めなかった。両方なのかも知れない。
「告白でもしようかな」
「…完全に順序が逆な気がするけど」
「俺もそう思うよ。きっとシズちゃんを落とすのは大変だろうな」
ふふ、と臨也が笑うのに、新羅は肩を竦める。言葉とは裏腹に、臨也は随分と楽しそうに見えた。今更ながら、臨也に執着されている静雄に同情する。
「静雄も大変だね」
新羅は眼鏡の奥の目を細めて笑った。




(2010/09/15)
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