「どこに行くの」
臨也の声は冷たかった。
そこにはいつものような笑みは無く、至極真面目な表情をした臨也がいる。
腕を掴まれたまま、静雄は無言で目を逸らす。
何故ここにいるのかとか、何故分かったのかとか、色々聞きたかったが黙っていた。
何も話さない静雄に、臨也は腕を掴んだまま歩き出す。
「臨也。」
「……」
「臨也って」
「なに?」
「どこ行くんだよ」
「帰るに決まってるでしょ」
改札を通って駅を出て、高級マンションがある通りまでずっと引っ張られたまま歩く。
段々と掴まれた腕が痛くなってきた。
痛覚が鈍い静雄が痛さを感じるほどに、臨也の腕を掴む力が強い。
マンションにつくと乱暴にエレベーターのボタンを押し、臨也はそこで初めて静雄の腕を離した。
エレベーターが目的の階に着くまで、二人の間に重い沈黙が落ちる。
やがて部屋の前に来ると、臨也は鍵を開けて中に静雄を押し込んだ。
後ろ手で鍵を閉めて、臨也は静雄を睨みつける。
静雄がリビングに行こうとするのを手を掴んで引き戻し、廊下の壁に背中を押し付けられた。
「どこ行こうとしてたの?」
臨也の声は低い。
「…ブクロに」
「なんで?」
「…行っちゃいけねーのかよ」
静雄は段々と怒りが沸き上がるのを感じる。「俺がどこ行こうが勝手だろ」
臨也の目が細められた。それに冷たさが感じられて、静雄は口を噤む。
「俺はシズちゃんを甘やかし過ぎたみたいだね」
臨也は静雄の手を掴むと、そのまま引っ張って自身の寝室に入った。
薄暗い部屋の大きなベッドに静雄を放り投げ、その上に馬乗りになる。
「シズちゃんに首輪でもつけて、鎖で繋いでおかないと分からないのかな」
静雄の白い首に指先を這わせ、ゆっくりと鎖骨まで撫でていく。
「…俺はペットじゃねーし」
うんざりしたように言うが、臨也の指の動きに身体は震えた。
「何で逃げたの」
臨也の赤い双眸が、冷たく細められる。
「別に逃げたわけじゃない」
「ふうん。じゃあどうしてこんな時間に行こうとしてたの」
喉をなぞっていた手が、不意に首にかかった。緩く首を締めるように絡み付く。
「煙草買いにコンビニ行ったら、なんとなく…」
静雄はただ真っ直ぐに、自分を見下ろして来る赤い目を見上げた。
嘘をついてるわけではないし、正直にその時のことを話した。
ぼんやりと脳裏にコンビニの情景や、弟が載った雑誌が浮かぶ。
「俺が聞きたいのはその行動に行き着くまでの理由なんだけど?」
「……」
臨也の赤い目を見ながら、静雄は考える。
理由。理由は何だろう。
最近構って貰えなかったことや、他の女と会ってるんじゃないかとか。嫉妬や寂しさや様々な感情が浮かぶが、根本なことはもっと違うものな気がする。
――ああ、そうだ。

この男は俺のことを本当に好きなのだろうか?

「臨也」
「なに?」
「別れたい」
口にした途端、部屋の温度が下がった気がした。
そもそも付き合っているのか良く分からないのに、別れを口にするのは変な気分だ。
「嫌だね」
臨也は即座に否定し、静雄は多少驚く。
そんな静雄に対して、臨也は無表情だ。
「何でだよ」
「それは普通こっちの台詞じゃない?」
「……」
臨也は静雄の首から手を離した。
「何で別れたいの」
そう問いながら、臨也の手は静雄のTシャツの中に入っていく。
「…一緒にいる意味なくねえ?」
臨也の好きにさせたまま、静雄はずっと考えていた疑問を口にした。「俺は何でここにいるか分かんねえんだけど」
「俺がいて欲しいからでしょ」
Tシャツを捲りあげ、静雄の胸に口づける。
「…っ。」
びくんっと静雄の身体が揺れた。全身が一気に火照り、熱さを持て余す。
「じゃあ、」
飽きたら捨てるのか、と聞こうとして聞けなかった。返答に傷付くのが怖い。
身体の傷は直ぐに治るのに、心の傷はいつまでも癒えないからだ。
「じゃあ、何?」
臨也は囁くように言って、静雄の下肢に手を伸ばす。
「あっ…ん…」
段々と激しくなる動きに、静雄の口から声が漏れた。
それを恥じるかのように唇を噛み締める。
「黙ってちゃ分からないよ」
いつの間に脱いだのか、臨也はセミヌードだった。
薄暗い部屋に白い身体が目立つ。
「声、出して」
臨也の指先が、静雄の唇をなぞってゆく。
赤い舌を出してそれを舐めれば、臨也は低く笑った。
「誘うの上手くなったね、シズちゃん」
「…は…ぁ…っ」
黒いシーツを掴んでいた静雄の手を外して、臨也は自分の身体に回してやった。
密着する互いの身体。
その時、微かに香りがした。
甘い香水の香りが、臨也の髪から匂う。
静雄は身体が急激に冷めていくのが分かった。
「シズちゃん?」
「…い」
「え?」
「香水臭い」
一言告げると、静雄は臨也を突き飛ばした。
力を加減したが、突然のことに臨也はベッドから転がり落ちる。
ああ、うざいうざいうざいうざい…
静雄は怒りがふつふつと沸き上がってくるのを感じながら、脱がされたTシャツを乱暴に着た。
「ちょっとシズちゃん!」
珍しく慌てた様子の臨也に溜飲が少し下がるが、静雄は寝室を出て行こうとする。
「これは今日の依頼者の女のだよ!」
多分、と付け加えて臨也は静雄の腕を取った。
「何が多分だ。マジうぜぇ。いつもいつも香水くせえんだよ。もう死ね」
もう無理だ。我慢できない。
乱暴に臨也の手を振り払って、ズカズカと玄関まで歩く。
「ねえ、」
「もう無理だ。お前とは付き合えない」
声が震えてるのが自分でも分かった。
「一人でこんな家にいるのも嫌だし、いつか捨てられるんじゃないかって怯えているのももう嫌だ」
静雄はまくし立てるように感情を爆発させ、そのまま外に出た。
「シズちゃん!」
後ろから声が追ってくるけど振り返らない。
エレベーターを待つのも嫌で、階段を駆け降りた。
マンションから出て、全力で走る。
じわっと目に涙が浮かんだ。鼻がツンとする。
こんな女々しい自分にも嫌気がした。
もううんざりだ。二度と臨也には会わない。会いたくない。
ズキズキと胸が痛む。こんな思いはもう嫌だ。


夢中で走り続け、もうすぐ池袋と言うところで、漸く静雄は止まった。
見慣れた町並みに入り、少しほっとする。
いつものバーテン服ではないとは言え、自分はこの街では目立つ人間だと自覚はある。街は深夜で人も少ないが、なるべく路地裏を通るようにした。
電柱にもたれ掛かり、煙草を吸おうとポケットを弄るが、目的の物は無かった。どうやら臨也の家に忘れてきたらしい。
財布もなく、あるのは携帯電話だけという状況に、静雄は溜息を吐いて携帯を開く。
新羅にでも連絡しようかと悶々としていると、突然後ろから抱きしめられた。
腰に黒いTシャツの腕が見えて背中に頭が押し付けられた。温かい。
「見付けた」
そう言って、後ろの男は静雄を抱く力を強くする。
静雄は身体を強張らせた。
「GPSって便利。シズちゃんがどこに居ても分かっちゃう」
知ってた?と、静雄が持つオレンジ色の携帯に触れた。
「…離せよ」
静雄は身体を硬直させたまま、後ろから回された腕が振りほどけずにいる。
「離すわけないでしょ」
臨也はハァ、と溜息を吐く。「本当に首輪つけようかなぁ。シズちゃんが俺から離れられないように」
「バカじゃねえの」
「シズちゃん」
身体を反転させ、向き合わされた。
静雄はされるがままになりながらも、目は合わせない。
「ごめんね。香水は俺の配慮が足りなかった。相手の女とは本当に何にもないよ」
臨也は素直に謝罪する。「まあそんだけ俺を信用してないってことだから少しは頭にはきてるけど、嫉妬してくれたのは嬉しいから相殺ってことで」
「……」
「あと最近忙しくてほっといてごめん。シズちゃん明日休みでしょ?休み合わせようと思って無理しちゃった」
臨也のこの言葉に、静雄は目を見開いた。
「何で休みなの知ってんだよ」
「俺がシズちゃんのスケジュール把握してないわけないじゃん」
しれっとして言う。「俺はシズちゃんのことならシズちゃん以上に知ってるよ。」
それでも行動は予測不可能なんだけど。とは心の中で。
静雄は再び目を逸らして、視線をさ迷わせる。
そんな静雄を見上げながら、臨也は口角を上げた。
「で、後ひとつあったよね?」
「…もういい」
「そうなの?一番聞きたいんじゃないの?」
「……」
意地の悪い表情を浮かべる臨也に、静雄は赤い顔で舌打ちをする。
激昂するままに感情を吐露してしまった事を、静雄は後悔していた。
「シズちゃん」
臨也は静雄の手を取ると、甲にゆっくりと口づける。
「…っ、」
静雄が身じろぎすれば、頬に手を触れて視線を合わされた。
「俺は、シズちゃんを捨てたりなんかしないよ」
ちゅ、と音を立てて唇にキスをする。「シズちゃんはもう少し自分に自信を持った方がいい」
「自信…?」
「俺はシズちゃんが思ってるよりシズちゃんのこと好きだってことだよ」
そう言うと臨也は静雄に抱き着いた。
「うぜえ…離れろよ」
「やだよ。てかそんな顔赤くして言っても説得力ないし。…でさあ、シズちゃん」
「?」
「首輪つけていいかな?」
真顔で聞いてくる臨也に、静雄は眩暈がした。








(2010/07/06)
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