熱情







臨也がピアノを奏でるのを、静雄はじっと見ていた。
白く細い指が鍵盤を軽く叩く。部屋に響く美しい旋律。静雄には演奏の良し悪しは分からないけれど、臨也のピアノは好きだと思った。音に性格は出ないのだな、と少し意地悪なことを考えながら。
激しい曲調だったせいか、演奏が終わると臨也はふうと息を吐く。さすがに全部の楽章を弾くわけではないが、疲れるのだろう。
「それ、なんて曲だ?」
「熱情」
臨也の言葉に、静雄はふうんと頷く。名前だけは知っている。またベートーベンだ。
「タイトルは本人がつけたわけじゃないらしいけどね」
「熱情、か」
静雄はそれを口にし、それっきり黙り込んだ。いつもの席で、頬杖をついて、じっと外を見る。外は夕陽で赤い。もう木々は大部分が葉を落としていて、酷く淋しげだ。もうすぐ冬が来る。
臨也はピアノの蓋を閉め、静雄の傍までやって来た。赤い双眸は外を見る静雄から離れずに。
静雄は臨也に視線を送ることなく、顔を窓に向けたままで声を掛ける。
「臨也」
「なに?」
「女と別れたんだって?」
静雄のこの言葉に臨也は目を見開いた。
「…シズちゃんって、もっと噂話に疎いと思ってたよ」
「新羅に聞いた」
「ああ」
臨也は僅かに笑って席に着く。確かに新羅はゴシップ好きなところがあるな、と思いながら。
「煩わしいから別れた」
「煩わしいって…好きだったんじゃねえの」
静雄は臨也に視線を戻した。眉を顰め、咎めるように言う。仮にも付き合っていた相手に、良くもそう言うことが言えるものだ。至極真っ当な神経を持つ静雄には、臨也のこんな性分が全く理解できない。
臨也はそれに口端を吊り上げる。漆黒の髪の毛をゆっくりと掻き上げた。
「厳密に言うと好きだったわけじゃないしね」
自分から告白したわけではないし。付き合ってほしいと言われて、文字通り付き合ってあげただけだ。
「くずだな」
静雄は心底そう吐き捨てると、臨也からまた視線を逸らした。しかし口調ほどは怒ってはいないらしい。表情はどちらかと言えば穏やかだった。
「俺だって好きな子ぐらいいるんだよ」
臨也がそう言うのに、静雄は驚く。思わず頬杖をやめ、臨也をまじまじと見てしまった。
「そんなに驚くこと?」
臨也は肩を竦める。
静雄は少しばつの悪そうな顔になった。
「…好きな奴いんのに他と付き合ってんのかと思ってよ」
「そんなもんだよ、皆」
俺は単なる暇つぶしだけど、とは内心で。口にしたら静雄は間違いなく怒るだろう。
「でもこれで、シズちゃん気にしなくていいじゃない」
「何が」
「俺の予定。無くなったんだし」
「お前、」
静雄の顔が不機嫌に歪んだ。臨也をきつい眼差しで睨みつける。
「まさかたかがその為に別れたんじゃねえだろうな」
「どうかな」
臨也は眉目秀麗なその顔に、冷たい笑みを浮かべた。
「だったらシズちゃんどうするの?俺に対して申し訳ないとか思うわけ?それとも顔も知らない女の為に怒ったり、同情してやるのかな?」
臨也は芝居がかった仕草でベラベラと良く喋る。
静雄はうんざりと舌打ちをし、溜息を吐いた。
「もしそうなら俺が思うことは一つだろ」
「うん?」
臨也は首を傾げる。口端を吊り上げて。
「手前は大馬鹿だ」
静雄が真顔でこう言うのに、臨也は少しだけ目を丸くした。が、直ぐに酷く楽しげな笑みに変わる。
「俺もそう思う」
あはは、と笑い声を上げて。
静雄はそれ以上何も言わなかった。臨也も何も言わない。暫く二人の間に沈黙が落ちる。
時折強い秋風が吹いて、窓をがたがた揺らしていく。枯れ葉が風で地を這い回るのを、静雄はただじっと見ていた。
「シズちゃん」
やがて口を開いたのは臨也の方だった。静雄は顔をそちらに向ける。臨也はいつものように意地の悪い笑みを浮かべていた。
「俺と付き合ってみない?」
臨也はそう言って静雄の頬に触れた。親指で目許を撫ぜる。ぴくりと睫毛が震えるのが親指に伝わり、中指で耳朶を優しく擦った。
静雄は何も言わず、ただ真っ直ぐに臨也の双眸を見詰め返す。臨也の目は酷く真摯で、そのままの熱情を伝えて来た。
静雄は長い睫毛を伏せて、吐息を吐く。臨也の指先は意外にも温かい。
「…好きな奴いるんじゃねえのかよ」
「だから告白してるんだけど」
さらりと返す臨也に、静雄は少し驚いた。丸くなった目が、臨也を怯えたように見詰めて来る。
怖がらなくてもいいのに。
臨也は思う。
人から愛されるのが怖いのか、それとも臨也が相手だからか。恐らく両方なのだろう。
「シズちゃんが好きな人、誰だか知ってるしさ」
「…いねえって言っただろ」
静雄はちっと舌打ちをし、臨也の手を振り払った。臨也は肩を竦めて手を引っ込める。
「まあ、そう言うことにしておくけど」
今だけは。
何て笑って言う臨也に、静雄はうんざりとした。臨也の目は赤く、全てを見透かすようだ。静雄はこれが大嫌いだった。
「付き合ってくれる?」
綺麗で薄い唇が動いて言葉を紡ぐ。まるで悪魔との契約を促されてるようだ、と静雄は思った。
臨也が当て擦りで何人もの女と付き合ってるなんて、とっくの昔から知っていた。そんなの、絶対に口にはしてやらないけど。
「…いいぜ」
やがて静雄はそれを受け入れる。諦めにも似た気持ちと共に。
ふと耳元にピアノの音色が響いた気がする。臨也が奏でる音色。
臨也のピアノを聴いてなければ、こうならなかっただろう。一生、隠し続けるつもりだったのに。
静雄の答えに臨也は嬉しそうに頷き、そのまま静雄に顔を寄せる。近付いて来る臨也の唇に、やがて静雄はゆっくりと目を閉じた。



熱情 Sonata No.23 in F minor, op.57 "Appassionata"
(2010/09/12)
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