月光







あれから静雄が聴きたいとねだる日は、臨也はたまにピアノを弾いてやった。
あまりクラシックは詳しくない。と言う割にそれなりに有名どころは分かっているようで、特にベートーベンをせがんで来る。
学校内でも有名な犬猿の仲の二人が、こうしてピアノ鑑賞などと滑稽だ。
少し校内で噂になっているらしいが、臨也は別に気にしていなかった。恐らく静雄も全く気にしていないだろう。元々静雄は自分の噂には無頓着だ。
さすがにいつ喧嘩になってもおかしくないと思われているのか、誰も音楽室には近付かない。つまり、二人きりのこの時間を邪魔する者は誰も居ないと言うことだ。
今日も静雄が求めれば臨也は弾いてやる。断ったことは一度もなかった。いつだって他のどんな予定よりも最優先している。静雄は多分知らないだろうけど。
臨也が弾いてる間、静雄は窓際の席に座って外を見ていた。いつもそこが指定席だ。
頬杖をついて、彩られた木々を見遣る姿は酷く絵になっている。金の髪の毛に、夕陽がキラキラと反射していた。
物思いにふける静雄を見ながら、臨也はその光景に僅かに苦笑する。静雄は本来綺麗な顔をしているし、元々細身で華奢な体格だ。とても東京中の不良が恐れているようには見えない外見を持っている。黙っていれば美少年の部類に入るだろう。だからこそ、見た目で何度も恋文を貰うのだろうけど。
臨也が演奏を終えても静雄はぼんやりと外を見ていた。臨也は近付いて静雄の前の席に座る。何を見ているのか気になって、同じく窓の外を見た。
校庭の回りに植えられた木々が、ハラハラと赤や黄色の葉を落としている。時折風が吹き、地面に落ちた葉が飛んでゆく。空は夕焼けのオレンジで彩られていた。遠い空だけがまだ青い。
「美しいね」
と臨也が言うと、静雄は低く「そうだな」と相槌を打った。
「今の曲、何て曲なんだ?」
「月光。ベートーベンの方の」
「へえ」
静雄は頷き、臨也の方を向く。臨也はまだ外を見ていた。端正な横顔が、夕陽で赤く染まっている。
「本当に月光の下で弾けたらいいのにね」
「夜じゃピアノは無理だな」
学校が開いてないし、忍び込んだとしても音でばれるだろう。
「俺の家にピアノあるから、今度おいでよ」
臨也は唇を吊り上げた。視線を窓から静雄に移し、赤い目を細める。
静雄は臨也のその目を見つめ返すと、軽く首を振った。
「ピアノ、今日で最後にする」
「どうして?」
臨也は腕を伸ばし、静雄の頬に手で触れる。静雄はびくっと体を震わせたが、何も言わなかった。
臨也の指先は優しく静雄の目許を撫でる。この指であの旋律を奏でているのかと思うと不思議な気がした。この手はナイフだって握るのだ。
「お前、今日本当は用事あったんだろ」
静雄のその言葉に、臨也はぴたりと手を止める。静雄から見れば無表情だったが、臨也は内心少し不機嫌になっていた。
誰から聞いたのだろう…どこから。臨也の表情が曇ってゆく。
「女と約束あったんだろ?」
「あんなの約束とは言わないよ」
一緒に帰ろうと言われただけだ。別に付き合っている女でもない。何度かデートしただけの、つまらない女。
ああ、うざい。臨也は静雄から手を離すと、あからさまに舌打ちをした。何で静雄の耳に入るのだろう、くだらない女の話など。
「俺が好きでやってるんだから、シズちゃんは気にすることはないよ」
臨也は静雄の顔を上目遣いに見た。静雄は不機嫌そうな、少し困った顔をしている。明らかに納得が言っていない顔だ。臨也はそれに溜息を吐いた。
「俺はシズちゃんとのこの時間が結構気に入っているんだよ。おかしいだろう?普段喧嘩してるのにさ」
この音楽室でピアノを弾いている間、静雄は臨也を見ても何もして来ない。これが他の場所なら容赦無く机の一つは飛んで来るだろう。勿論臨也からも何もしない。静雄を傷付けるような事はしないし、考えもしなかった。
普段は殺し合いにも似た喧嘩をしているのに、その相手と穏やかに過ごせるこの空間。臨也はこれが気に入っているのだ。
静雄は少し驚いた顔をしたが、直ぐにいつもの無愛想な表情に戻る。機嫌が悪いのではなく、照れているのだろう。頬が僅かに赤い。
臨也は再び静雄の頬に触れると、体を伸ばしてそのまま口づけた。びくん、と静雄の体が身動ぎする。
静雄とのキスはたまに気紛れで行われた。優しく触れるだけのキス。始めの頃はいちいち怒っていた静雄も、最近は臨也の好きにさせている。
唇を離し、臨也は静雄の髪を優しく撫でた。静雄は目を細め、擽ったそうにする。それが臨也には可愛らしい。
「…またいつでも弾くよ」
臨也がそう言うと、
「…ああ」
静雄は頷き、ゆっくりとまた視線を窓へと移した。
臨也も頬杖をついて、外の風景に再び目をやる。
空はもう一面の夕焼けだった。



「臨也、彼女と別れたんだって」
新羅がそう言うと、静雄は酷く驚いた顔になった。何故こんなに驚くんだろう。新羅は首を傾げたが、何も聞いたりしない。
「あいつ何人もいるんじゃねえの?」
「うん。だからその全員と」
新羅は、ははっと笑った。どうしたんだろうねえ、と言いながら。
静雄はへえ、と一言相槌を打った。他に言いようがない。へえ。
「嬉しくないの、静雄」
新羅が笑顔を張り付かせたまま言うのに、静雄は眉を顰める。
なんで俺が。と声に出したいのに、何故か黙り込んだ。言葉が出ない。
新羅も笑顔のまま無言になる。二人は無言のまま、池袋の街を帰路につく。
「新羅、俺は」
「誰にも言わないよ」
やがて口を開こうとした静雄に、新羅は言葉で遮った。
静雄は立ち止まり、後ろを歩く新羅を振り返る。新羅はそれに、にっこりと微笑んだ。
「誰にも言わない。セルティにさえね」
「…俺は別に」
「うん」
分かっている、と新羅は歩き出す。静雄の手を引いて。
静雄はただ黙ってそれに従った。
空を見上げれば、青空と夕陽が混ざった色をしている。遠くにはまだ白くて薄い月が浮かんでいた。
「…でもさ。多分、臨也は、」
新羅は静雄の手を離し、ぽつりと呟く。
「?」
「いや…何でもない」
新羅は口ごもり、後は何も言わなかった。
静雄も何も聞き返さない。
言う必要ないか。
新羅は内心苦笑する。だってきっと、静雄は気付いてる。いくら静雄が鈍くたって、臨也の態度で気付くだろう。臨也はそう言う人間だ。
きっと気付いているのに、認めないだけだ。
静雄がずっと空を見上げているのに、新羅も顔を上げる。
空は少しずつ赤が紺に浸食されていた。もう夜になる。
「日が落ちるのが早くなって来たね。もう月が出てる」
「それでもまだ、」
「ん?」
「まだ月光と言うには薄っぺらだな」
静雄は月を見上げて目を細める。低く笑いながら。
新羅は意味が分からずに首を傾げたが、何も言わなかった。




月光 Klaviersonate Nr. 14 op. 27 Nr. 2 cis-moll "Quasi una Fantasia"

(2010/09/11)
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