悲愴







放課後の学校内は物静かだ。
遠くで部活動に励んでるであろう生徒の声がする。少し薄暗い廊下。窓にはうっすらとした雲と夕陽。教室はオレンジ色に染まっている。
静雄は颯爽と廊下を歩く。180は超えているであろう高身長だったが、彼は猫背にはなったりはしない。堂々といつも歩いていた。長い廊下をすたすたと。
カサリと胸のポケットに入った紙が揺れる。今の静雄にはそれが重い。朝に、机に入っていた手紙だ。
廊下の窓が開いていて、少しだけ風が入ってきた。木々が揺れる音がする。金の髪が風でふわりと揺れて、静雄は目を細めた。
ふと、どこからかピアノの音がして思わず足を止める。悲しげな旋律。聴いたことがある曲だ。ベートーベンだろうか。
校内でピアノがある場所なんて講堂か音楽室しかない。おそらく後者だろう。旋律は音楽室がある方向から聴こえて来た。
静雄は無意識に胸ポケットに手で触れて、廊下をまた歩き出す。
段々と近くなる音色に、静雄は半ば確信をしていた。多分弾いているのはこの手紙を出した人物なのだろう。
静雄は音楽室の前に来ると立ち止まった。目的の場所はここで、胸のポケットに入った手紙にもそう書いてある。静雄は軽く息を吐いて、扉に手を掛けた。
それは静かに開かれる。窓から漏れる夕陽の光りに、静雄は一瞬目を細めた。
薄暗い音楽室のピアノの前には、酷く端正な顔をした男が座っていた。静雄がこの世で一番大嫌いな男。折原臨也。
何故ここにこの男が居るんだろう。静雄は驚いて目を見張る。臨也の方は静雄には気付いて居ないのか、ずっとピアノを演奏していた。悲しげな旋律が部屋に響く。
やがて男は静雄に気付き、唐突に演奏をやめた。その赤い双眸と目が合い、静雄は思わず目を逸らす。旋律が途中で止まったことを、少しだけ残念に思う。
「何で手前が居るんだよ」
静雄は低い声でそう言い、開けっ放しの扉に凭れ掛かった。
「シズちゃんを待ってた」
臨也はピアノの前に座ったまま、楽しげに唇を歪める。眉目秀麗な顔が笑みを形作るのはそれなりに美しい。最も静雄には全く効果のない微笑みだったが。
「これ手前の悪戯か」
静雄はウンザリとそう吐き捨て、ポケットから白い手紙を取り出して見せる。朝に机に入っていた、所謂ラブレターと言うものだ。
「残念ながらそれは本物」
臨也は立ち上がり、ピアノの蓋をゆっくりと閉める。窓を背にこちらを向くが、逆光で表情が良く見えなかった。
「それを書いた彼女には帰って貰っただけ」
この臨也の言葉に、静雄は眉を顰める。帰って貰ったとは、どう言う意味だろう。
「どうせ断るつもりだったんだろう?」
臨也は肩を竦めて見せた。シズちゃんはいつもそうだものねえ、と笑いながら。
「だからシズちゃんの代わりに振ってあげたんだよ」
さらりとそう告げる顔はちっとも悪びれていない。
静雄はウンザリとして舌打ちをした。
「余計な事すんな」
「ねえシズちゃん」
臨也はゆっくりと静雄の側まで歩いて来る。夕陽を背にしたまま。
「なんでいつも付き合わないの?その歳で女に興味がないとか言わないよね」
「うるせえ」
「結構モテるのにね。もう今年で振るの何人目?」
「俺は手前とは違う」
静雄はきつく臨也を睨みつけた。臨也が色んな女と付き合っているのは知っていたから。
静雄の言葉に臨也は笑い声を上げる。嫌な笑い方だ。静雄は嫌悪感に吐き気がしそうになった。
「シズちゃんが、別れてくれって言うなら別れるよ」
全員と。
臨也がそう笑うのに、静雄はますますウンザリした。何が全員だ。本当にこいつ死ねばいいのに。
「手前が誰と何人と付き合おうが俺が知ったことか」
「ふうん」
臨也は片眉を吊り上げると、静雄の手から手紙を奪い取った。
「おい」
声を上げる静雄の手を制し、臨也は中の手紙を取り出して目を通す。
「お話があるので音楽室まで来て下さい…単純な内容だね。この子、知ってるの?」
「…知らねえ」
「まあそうだろうね」
臨也はそのまま手紙を破り捨てた。パラパラと細かくなった紙が床に散らばる。
静雄は何も言わなかった。顔も知らない女に、少しだけ同情しただけだ。自分なんかを好きになったばかりに。
「好きな人でもいるの?」
臨也は手紙だったそれを足で踏みつけて、静雄が凭れている扉に片手をついた。
「こんなに断り続けてるのは理由があるんじゃないかと思ってさ」
「…手前には関係ねえだろ」
至近距離に迫った臨也の顔を、静雄は臆することなく睨みつける。臨也はそれに低く笑い声を漏らすと、睫毛を伏せて顔を近付けた。
開け放されたままの扉から、たまに生徒の笑い声がする。誰が通り掛かってもおかしくない場所で、静雄は臨也に唇を奪われていた。
「…っ、」
触れただけの唇を離し、臨也はその端正な顔を痛みで歪めた。手の甲で唇を拭えば、血が滲んでいる。どうやら静雄に噛まれたらしい。
「酷いなあ、シズちゃんは…」
「死ね」
静雄は悪態を吐くと、唇を拭った。自身にも臨也の血がついているのに、眉を顰める。
「代わりに断ってあげたんだからさ、教えてよ」
尚も食い下がる臨也に、静雄は溜息を吐く。
「いるって言ったら、どうするんだよ」
「……誰?」
臨也の赤い双眸が、スッと細まった。急に温度が変わった気がして、静雄は顔を上げる。臨也はじいっと静雄を見上げていた。
「誰って…」
「誰」
「…いねえよ」
臨也の真摯な眼差しに、静雄は目を逸らす。「好きな奴なんて、居ない」
「……」
「居たとしてもお前になんか教えねえよ」
静雄が言うと、臨也は肩を竦めて笑った。さっきまで酷く真摯な顔をしていたくせに、あっという間にいつもの臨也の顔だ。
好きな奴、なんて。
静雄は目を閉じる。
一生誰にも言わない。
臨也には特に。
臨也はそんな静雄を黙って暫く見詰め、やがて至近距離だった体を離した。
「臨也」
静雄は目を開くと、臨也の赤い目を見つめる。
「さっきの曲、また聴きたい」
「…いいよ」
臨也は穏やかに笑い、またピアノへと戻る。
ピアノを弾き始めた臨也を見て、静雄は音楽室の扉を閉めた。
二人しかいない部屋で、ピアノの旋律だけが響く。臨也の白くて長い指が鍵盤を滑るのを、静雄は黙って見ていた。
…ああ『悲愴』だったな。ベートーベンの。
突然曲名を思い出し、静雄は軽く息を吐く。
嫌な名前だ。
それは今の自分にぴったりな気がした。




悲愴 Klaviersonate Nr. 8 c-Moll "Grande Sonate pathétique"
(2010/09/10)
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