パタンと音を立てて閉まった扉を、臨也は黙って見送った。やがてドア越しに聞こえて来る玄関の扉の音。外に出て行ったのだろう。こんな早朝から。
臨也は軽く息を吐くと、ベッドに再び横になった。けれど目はいやに覚めていて、残念ながら眠れそうにない。最近いつもこうだ。彼が帰った後は。
真っ白なシーツに手を這わせる。先程まで静雄が寝ていた場所。もう温もりはない。少しだけ皺になっているだけだ。静雄の匂いが染み付いてる気がして、臨也は軽く眩暈がする。女々しい考えだ。
臨也は寝るのを諦め、身を起こした。衣服を身につけると部屋のブラインドを開ける。外はもう明るい。今日も暑くなりそうだ。早く秋になれば良いのに。
静雄は自分から臨也のマンションには滅多に来ない。来たとしても殴りに来たとか、そんな物騒な理由だ。
いつから。
いつから静雄を欲するようになったのだろう。
高校時代は少なくとも本気で大嫌いだった。死ねばいいといつも思っていたし、何度もそんな計画を立てた。その願いはこれっぽっちも叶わなかったが。
卒業して新宿に引っ越した時、会う回数が減ったことにほっとしたものだ。姿を見るだけで苛々していたから、やっとそれから解放されるのだと思った。
しかし実際は会わない方が苛々したし、結局池袋へと何度も足を運んでしまっていた。来ると高確率で相手は見付けてくれる。あの怒りで火が着いた目で見られるのは、なかなか気分が良いのだ。
初めて抱いた時の静雄の表情は忘れられない。こんな顔もするのか、と酷く驚いたものだ。怯えていたようだったし、初めて与えられた快感に戸惑っていたようでもあった。
ああ、やばい。思い出したらやばくなる。体の熱が下半身に集中するのに、臨也は無理矢理思考を切り替えた。昨夜何度も何度も抱いたと言うのに、自分が気持ち悪い。
臨也は自身に舌打ちをすると、ブラインドを閉めた。



静雄の唇は甘い。
正確に言えばヤニ臭いわけだが、臨也には生憎と気にならなかった。
舌を絡ませれば怖ず怖ずと従ってくる。きつく吸って舐め取って、唇も噛んでやった。
ぽたぽたと飲みきれなかった唾液が顎を伝って落ちる。唇を離してそれも舐めとった。
「やあ」
まだ呆然としている静雄に、臨也は笑いかける。目は潤んでいるし、唇は赤い。本人は分からないのだろうな。と、臨也は楽しい。
「離せ、バカ」
静雄が離れようと臨也の肩を両手で押しやって来る。その力は静雄にしてはとても弱い。臨也は笑って離してやった。
「何か用かよ」
不機嫌な顔で言う静雄に、臨也は肩を竦めて見せる。
「シズちゃんに会いに来たんだよ」
そう臨也が言うと、静雄は少し困ったような顔になった。戸惑っているのだろう。
「じゃあ用は済んだよな?俺は帰っていいよな?」
静雄はそう言ってさっさと立ち去ろうとする。臨也は再び静雄の手首を掴むと、身体を引き寄せた。
「まだだよ。小学生みたいな事言うねえ」
「おいっ、」
静雄は身を捩るが、臨也は離す気はない。離そうものなら本当に帰ってしまう。静雄はそう言う人間だ。
「俺んち行かない?」
「嫌だ」
「うん。行こうか」
あはは、と笑い声を上げて、臨也は歩き出す。静雄の腕を掴んで。
静雄がこうやって人の目がある場所で、こう言った行為をするのを嫌がるのを分かっていた。たかが手を掴んでいるだけなのに。
「俺は構わないよ。嫌なのはシズちゃんだろう?」
「……」
こう言うと静雄は黙り込んでしまう。臨也は楽しくて唇を吊り上げた。楽しい、などと口に出そうものなら怒ってしまうだろうが、可愛いものだなと思う。
手を引いているところを見られようが、口付けを見られようが。臨也にはどうってことはない。寧ろ周囲に分かればいいのにとさえ思ってる。静雄が自分の物だと言うことを。
「…車がいい」
ボソっと低い声で静雄がこう言うのに、臨也は「分かってるよ」と笑った。駅に行きたくないのだろう。駅は目立つから。
どこかでタクシーを拾わねばならない。拾えるところはどこだったかな、と考えながら臨也は静雄の手を握る。自分より少し暖かいそれは、華奢で手触りが滑らかだ。臨也は静雄と手を繋ぐことが割りと気に入っている。多分静雄もそうだろう。相手は一生口にはしないだろうが。
家に着いたら、直ぐに抱こう。静雄を抱くのは五日ぶりだ。たった五日。それが臨也にはとても昔のことのように感じる。静雄の体も声も感度も全て気に入っていて、毎日だって抱きたいぐらいになっていた。臨也にはそんな自分が少し恐ろしい。
思わず静雄の手を握る手に力が入る。静雄が訝しげにこちらを見遣るが、臨也は気にしない。
タクシーを拾って中に静雄を押し込んだ。車の中でも手は離さなかった。タクシーの年配の運転手は、幸い二人の繋ぐ手には気づいてなさそうだ。
静雄は嫌な顔をしたが、何も言わずに臨也の好きにさせている。静雄はいつもこうだ。結局は臨也の好きにさせ、それを受け止める。本人は多分、無意識なのだろう。
静雄の指をゆっくりと撫でた。ピクっと静雄の手が動く。サングラス越しに睨んで来るのに、臨也は口端を吊り上げて笑った。






「もう帰るの?」
ベッドからさっさと出て行く静雄に、臨也は欠伸をしながら声をかけた。
静雄はいつもさっさと出ていく。泊まってはいかない。
「仕事ある」
「まだ5時だよ」
「早く帰りたいんだよ」
静雄はぶっきらぼうにそう言って、衣服を身に着け始める。臨也が乱暴に脱がしたそれらは、全て床に散らかっていた。
「シズちゃん」
臨也は真っ黒な髪の毛を掻き上げると、口端を吊り上げた。
「今日はシャツのボタンをしっかり留めたほうがいいよ」
「…死ねよ」
苛々と低い声で悪態をつき、静雄は首まできっちりとワイシャツのボタンを留める。静雄の白い体には自分がつけた痕が無数にあった。所有印、とは良く言ったものだと思う。これは俺のもの、だと言う証。
臨也は酷く楽しくて、思わず笑い声を上げた。裸体のままでベッドから立ち上がる。床に落ちたコートのポケットから、静雄に渡そうと用意をしていたのを取り出した。
「ねえシズちゃん、これ持っておいてよ」
銀色に光るそれを、臨也は静雄へと差し出す。それはこの家の鍵だった。
「なんだよこれ」
「鍵。このマンションの」
「…なんで俺が持つんだよ」
静雄の顔が訝しげにしかめられた。薄暗い部屋でも、頬が赤いのが見て取れる。
「え、分からないの?シズちゃんってそこまでバカだったんだ」
あははっとわざと高い声で笑ってやった。静雄が不機嫌にこちらを睨んでいる。顔が赤いので、それは可愛いらしいものだ。
「自由に入っていいってことだよ」
はい、と臨也は鍵を差し出す。静雄はそれに少し驚いたようだった。
「…何で」
「本当は分かってるくせに」
臨也は目を細めて意地の悪い笑みを再び浮かべる。静雄はチっと舌打ちをして目を逸らした。
静雄が黙り込んで俯く様を、臨也は同じく黙って見つめている。恐らく葛藤しているんだろう。自分の中で。
鍵を受け取ることがどういうことか、静雄にだって分かっているはずだ。
もう後戻りはできない。自分の気持ちにも、相手のそれにも。
「シズちゃん」
「…なんだよ」
「逃げられないよ」
臨也の赤い目が、スッと細められた。臨也の言葉に、静雄が顔を上げる。
「だって俺がシズちゃんを逃がすわけないからさ
「……」
そう言う臨也の顔は、酷く真摯だった。静雄はそれに黙り込む。
暗にプロポーズのような言葉だな、と臨也は内心苦笑した。それはあながち間違いではないのだけれど。
「はい」
臨也は真っ直ぐに静雄を見て、それを差し出した。
静雄はじっとそれを見下ろし、うんざりしたようにまた舌打ちをする。
「…使わねえかも知れないぞ」
「持ってるだけでいいよ」
臨也はくすっと笑う。静雄が家主がいない家に入り込んだりするタイプではないことを、臨也は分かっていた。
「……」
静雄は暫く臨也の手の平を見ていたが、やがて諦めたように溜息を吐く。その細い手が動いて、鍵を受け取った。
カチリと。鍵を掛けた音が響いた気がして、臨也は口端を吊り上げる。
これは鎖を繋ぐ鍵だ。臨也はそんな風に考えて静雄の顔を見詰める。多分、静雄自身もそれを分かっているだろう。
「…帰る」
「またね?」
静雄が扉を開けて部屋から出ていく様を、臨也は黙って見送った。



臨也は再びベッドに横になった。シーツに染み付いた香水の香りに混ざって、静雄の匂いがする。それは酷く甘美だ。
次はいつ行こうか。
鍵を与えたところで、静雄はここには自分から来ないだろう。迎えに行かねばならない。
暫く会わなくして突き放して見ようか。相手がこちらを求めるように。
なんて考えて、無理だろうと苦笑した。こちらがきっと堪えられない。別れたばかりの今でさえ、既にもう抱きたいのに。
「鎖で束縛されてるのはどちらなのかな」
臨也は一人そう呟き、やがて目を閉じた。


(2010/09/09)
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