蝉の声がする。
朝っぱらからご苦労なことだ。こんなビルや繁華街だらけの汚い街にでも蝉は生息している。
静雄は煙草を取り出すと口に咥え、Zippoで先端に火をつけた。ふわりと紫煙が舞うのにサングラスの奥の目を細める。
体の節々が少し痛い。無理な体勢を何度も取らされたせいだろう。全く反吐が出る。
手首の内側にも痕が残されていたし、きっとこの分だと体中に痕があるのだろう。あの男の。
思い出しかけて、チィっと静雄は舌打ちをする。本当にうんざりする。早く池袋に帰りたい。
新宿は嫌いだ。理由は明確であの男が住んでいるからだ。もう二度と来ない来ない来ない来ないと何度も思うのに、いつも強引に連れて来られる。昨日だって。
結局思い出してしまう自分に、静雄は盛大にまた舌打ちをした。
分かっている。自分の力を考えたら『強引に』なんて有り得ない。力はこちらの方が上なのだし、本気で抵抗したら振りほどけるだろう。
絆されているのか、流されているのか。静雄には分からないし、考える気もない。あの男が『強引に』で、いいと思っている。相手も何も言わないし。
ああ、クソッ。
静雄は歯軋りをする。早く帰らなくては。池袋に帰ったら、思い出さないようにしよう。新宿でのことなんて。




その日。静雄は煙草を吸いながら路地裏を歩いていた。
煙がふわりと空へ昇っていく。空はもう夕陽のせいか殆どが赤く、青空と夕陽が混ざり合う部分は薄紫色で綺麗だった。
仕事も終わり、日常になっている親友との会話も終えて、今は家路を急いでいる。もう夜に近い時間帯だと言うのに、まだ外は蒸し暑い。
家に帰ったら真っ先にシャワーを浴びよう。夕飯はその後に考えればいい。早く部屋のエアコンで涼みたい。
煙草を燻らせてぼんやりと歩いていると、突然腕を掴まれた。脇道に引っ張られ、腰を掴んで抱き寄せられる。驚きで煙草を地面に落としてしまうのに、その相手は踵でそれを踏み消した。
そのまま唇が重ねられる。
サングラス越しに、赤い目が合った。柔らかな唇。きっと相手にとってはヤニ臭いキスだ。それなのに薄く開いた唇から舌が入り込んできた。歯列を舐められ、上顎にも舌が這う。温かい舌は、奥に隠れた静雄の舌を見つけだした。ぬるっと舌が絡められる。唾液を飲み、舌が吸われて、静雄が息苦しくなる頃にやっと唇は離された。離される瞬間に唇を僅かに噛んで。
「やあ」
ぴたりと体を密着させた状態で、相手は口角を吊り上げて笑う。折原臨也。自分の天敵。
何がやあ、だ。静雄のコメカミがヒクついた。きっと自分の今の顔は赤いんだろう。臨也のキス一つで、心臓はバクバクだ。
「離せ、バカ」
静雄が離れようと臨也の肩を両手で押しやると、意外にも腕はあっさり離された。
「何か用かよ」
静雄は苛々と地面に踏み潰された煙草を見遣る。家に帰る、と言う解放的な気分を害された事に苛々していた。
「シズちゃんに会いに来たんだよ」
臨也は笑って大袈裟に肩を竦める。その顔は冗談なのか本気なのかさっぱり分からなかった。
「じゃあ用は済んだよな?俺は帰っていいよな?」
静雄はそう言ってさっさと立ち去ろうとする。臨也は再び静雄の手首を掴むと、身体を引き寄せた。
「まだだよ。小学生みたいな事言うねえ」
「おいっ、」
静雄が身を捩る。しかし今度は離してくれないようだ。
「俺んち行かない?」
「嫌だ」
「うん。行こうか」
あはは、と笑い声を上げて、臨也は歩き出す。静雄の腕を掴んで。
静雄はその手を払うこともできず、ただ引かれて歩いた。こんなところを誰か知り合いにでも見られたらどうするのだろう。繁華街から離れているとは言え、自分たちは目立つ存在なのに。
「俺は構わないよ。嫌なのはシズちゃんだろう?」
「……」
こう言われると黙り込んでしまう。
臨也は寧ろ楽しげだ。犬猿の仲と呼ばれる自分達が、こんな風に会ったりしてるなんて、静雄には気持ちが悪いのに。
高校生の頃はこうじゃなかった。本当に本当に仲が悪くて、こいつが新宿に引っ越すと知ってホッとした。やっと解放されるのだと。
なのにいつからこんなことに。
臨也が自分に対して執着してるのは分かっていたが、まさか抱かれるなんて思っても見なかった。
「…車がいい」
電車は目立つ。
静雄がこう言うと、臨也は「分かってるよ」と笑った。
いつの間にか掴まれていた腕は手を繋ぐみたいになってる。臨也の手は静雄の手より、少し冷たい。
こうやっていつも静雄は臨也に逆らえない。自分から見付けた時は自販機でも何でも投げ付けてやるのに、逆になるとどうにも弱い。
臨也がこうやって静雄に会いに来るのは何かの用事のついでなんだろう。まさかわざわざ自分に会いに池袋まで来ているわけはないはずだ。そう思いたかった。そうじゃなきゃやっていけない。なにを?とは言えないけど。




新宿の臨也のマンションに着くと、直ぐに抱き締められた。口づけられて、服を脱がされる。
服を脱がされながら寝室に連れ込まれた。衣服が床に散らばって、やっとベッドに押し倒される。
ああ、もう。汗くさくて気持ち悪いのに。夕飯だって食べてない。こいつの頭にはセックスしかないんだろうか。
臨也のベッドは香水の香りがする。臨也の匂い。
女とか連れ込んだりしてるんだろうか。自分をここに連れて来たみたいに強引に。
「何を考えているか当てようか」
臨也が口端を吊り上げて、静雄を見下ろしている。
「いらねえよ」
静雄はその赤い目を睨みつけてやった。臨也の細い指が、静雄の両手首を掴んでいる。こんなことしなくたって、逃げたりなんかしないのを知っているくせに。
「生憎と今はシズちゃんだけなんだ。セックスの相手」
「そうかよ」
低い声で答えながら、内心驚いた。本当に見透かされていた事にも、臨也の答えの内容にも。
「まあ、久しぶりなんだし一回犯らせてよ」
スッと臨也の手が内股を撫でるのに、静雄はびくっと体を震わせた。
「久しぶりって…前会ったの先週じゃねえか」
まだ五日ぐらいしか経ってない。
「俺にとっては五日間とか長いんだけどね?」
臨也はそう言って、静雄の胸に舌を這わせる。ぬるりとした感触に、静雄は唇を噛んだ。
「…俺、腹減ったんだけど」
「終わったら好きな物食べさせてあげるよ」
「汗臭いし、シャワー浴びてえ」
「シズちゃんの匂いがするから俺はいい」
言いながら臨也は静雄の首筋を舐める。かあっと静雄は自身の頬が赤くなるのが分かった。
ああ、もう。何なんだこいつ。こいつのこう言うところが大嫌いなのだ。いつだって。
「お前…良くそう言う事言えるよな」
「今は俺に身を任せてなよ」
臨也はそう言って静雄に口づける。それは直ぐに舌が入り込んできた。
徐々に深くなる口づけを受けながら、静雄は内心舌打ちをしたい気分になる。ウザったい。気持ち悪い。本当に腹が立つ。
静雄は分かっていた。拒否しない自分に一番ムカついている事に。世界で一番大嫌いなはずの男の手が、心地好い、だなんて。
静雄は諦めに似た気持ちになりながら、ゆっくりと臨也の背中に腕を回した。





「もう帰るの?」
ベッドからさっさと出て行く静雄に、臨也は欠伸をしながら声をかけた。
「仕事ある」
「まだ5時だよ」
「早く帰りたいんだよ」
静雄はぶっきらぼうにそう言って、衣服を身に着け始める。乱暴に脱がされたそれらは、全て床に散らかっていた。
結局一回抱かれた後、夕飯を食べてまた抱かれてしまった。何度も何度も。風呂場でも抱かれたし、床の上でも抱かれた。本当に見境がない奴だ。お陰で静雄の身体はあちこちが痛い。
「シズちゃん」
臨也は真っ黒な髪の毛を掻き上げると、口端を吊り上げた。
「今日はシャツのボタンをしっかり留めたほうがいいよ」
「…死ねよ」
苛々と低い声で悪態をつき、静雄は首まできっちりとワイシャツのボタンを留めた。どんな痕が残されてるかなんて、見なくても分かる。
そんな静雄に、臨也は笑い声を上げてベッドから立ち上がった。裸体のままで。床に落ちたコートのポケットから、何かを取り出して来る。
「ねえシズちゃん、これ持っておいてよ」
臨也が差し出して来る手を静雄が訝しげに見やれば、それは鍵だった。
「なんだよこれ」
「鍵。このマンションの」
「…なんで俺が持つんだよ」
「え、分からないの?シズちゃんってそこまでバカだったんだ」
あははっとわざと高い声で笑う臨也に、静雄は心の底からげんなりする。何が楽しいのか、いつも本当に良く笑う男だ。
「自由に入っていいってことだよ」
はい、と臨也は尚も鍵を差し出す。先ほどまでの嫌な笑いを引っ込めて、幾分穏やかな顔で。
静雄は目を見開いて臨也を見返した。
「…何で」
「本当は分かってるくせに」
臨也は目を細めて意地の悪い笑みを再び浮かべる。静雄はチっと舌打ちをして目を逸らした。
受け取りたくなかった。受け取ったらきっと変わってしまう。せっかくずっとずっと気付かない振りをしていたのに。
何でそれを平気でこの男はできるのだろう。静雄は本当にこの男が理解できない。
「シズちゃん」
「…なんだよ」
「逃げられないよ」
臨也の赤い目が、スッと細められた。臨也の言葉に、静雄の体が一瞬揺れる。
「だって俺がシズちゃんを逃がすわけないからさ
「……」
静雄は黙り込んだ。何を言えば良いのか分からない。
臨也とて、静雄からの答えは端から期待してないだろう。
「はい」
臨也は真っ直ぐに静雄を見て、それを差し出してくる。
静雄はじっとそれを見下ろし、うんざりしたようにまた舌打ちをした。




静雄は煙草を吸いながら新宿の街を歩く。もうすぐ駅だ。
温い風が吹いて金髪を揺らした。
青い空を見上げて、今日も暑くなりそうだと眉を顰める。
歩くたびにチャリチャリとポケットから音がする。ポケットにあるそれと、Zippoがぶつかっているのだろう。
静雄はそれを聞きながら、これは鎖の音に似てるなと思った。


(2010/09/08)
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