1.


「声、かけないの」
新羅は臨也に笑いかけながら、眼鏡の位置を直した。
「静雄が来てる。気付いているんだろう?」
臨也は新羅を見遣ると唇の端を歪める。ただ歪めただけで作られた笑みは、眉目秀麗なこの男には十分妖艶に見えた。
もうすぐ暦上は秋だと言うのに外はまだ残暑が厳しい。朝晩が涼しくなってきた事だけがせめてもの救い。そんな季節。
夏休みが終わり、新たな学期が始まったと言うのに、静雄は殆ど登校して居なかった。静雄は存外真面目なのでこれはかなり珍しい。
新羅は一時心配をしたが、どうせ臨也絡みだろうと考えるのをやめた。セルティは相変わらず静雄びいきなので、静雄が学校を休んでるだなんて言えやしない。
「これで毎日来るようになればいいんだけど」
新羅が言うのに、臨也は目を細めるだけだ。
新羅に言われる前から、臨也は静雄の存在に、とっくに気付いていた。
あの男は目立つのだ、とても。金の髪も容姿も、独特の雰囲気も。どんなに群衆に紛れていても、臨也はあの男を見付ける自信があった。
予鈴が鳴って、新羅が自分の教室に戻っていく。新羅は静雄と同じクラスなのだ。臨也はそのことを少し羨ましく思っている。口には出さないけれど。
臨也は自嘲気味に笑い、もう誰もいない廊下を後にした。



静雄は長い廊下を歩いていた。
静雄の属する教室は一番奥にあり、必然的にここは通らなくてはならない道になる。
廊下の窓から見える風景は真っ青な空だ。雲一つない。こんな日はどこかに遊びに行きたいな、と思う。今の時期なら暑くもなく寒くもなくて気持ちが良いだろう。
昼休みでざわつく廊下を、静雄はスタスタと歩く。静雄はこの学園では有名人だ。静雄が通ると、他の生徒たちは直ぐに道を空ける。それに臆することもなく、静雄は無関心に先を歩いてゆく。
窓の外ばかり見ているのは理由がある。一番奥のクラスに行くと言うことは、嫌なクラスの前を通らねばならない。静雄がこの世で一番会いたくない相手がいるクラス。
ふと廊下のざわつきが止んだ。水を打ったように。
さすがの静雄も異様な雰囲気に気付いて顔を上げる。そして顔を上げて直ぐに後悔した。廊下の真ん中に酷く端正な顔をした、静雄がこの世で一番嫌いな男が立っていたから。
「シズちゃん」
臨也は謳うように天敵の名を呼ぶ。静雄はそれには答えずに舌打ちをした。それが答えのようなものだ。
廊下にいた同級生たちは次々と教室に避難して行く。触らぬ神に祟りなし。とでも言うのだろう。
「今日もまた不機嫌そうだねえ」
「手前の顔を見たからだろ」
静雄は真っ直ぐに臨也を睨む。臨也の方もその視線を受け止めて、口端を吊り上げた。
「休んでいたんだってねえ」
知っているだろうに、わざとこんな言い方をする臨也に、静雄は心底嫌気がさす。
「手前には関係ねえ」
「本当に?」
臨也が悪意のある笑みを浮かべたまま、静雄へと近付いて来る。静雄は動かない。
「俺に逢いたくなかったから、じゃないの。あんなことされて」
その言葉に静雄はカッとなり、右手を振り上げた。
しかしその手は後ろから伸びてきた手によって阻まれる。
「お前ら、もうすぐ授業だぞ」
門田が静雄の手首を掴んで立っていた。
静雄はちっと舌打ちをすると、門田の手を乱暴に振りほどく。そして臨也を見ずにさっさと教室へと行ってしまった。まるで逃げるように。
「逃げられちゃった」
臨也が楽しそうに肩を竦めるのに、門田は溜息を吐く。
「あまりあいつに構うなよ。放っておいてやれ」
門田は一応、静雄が怒らせなければ穏やかな性格なのを知っている。ただでも沸点が低いのに、臨也の揶揄で更に低くなるのだ。
「嫌だよ」
あはは、と笑い声を上げて臨也は髪を掻き上げた。「だってシズちゃんは俺の物だからね。どう扱うかは俺の勝手だよ」
楽しそうな臨也に、門田は溜息を吐くしかない。臨也にとって静雄は玩具なのだろう。それもかなり上質な。本当に折原臨也は歪んでいる。
「そしてシズちゃんも実はそれを知っている。俺達はこう見えて、お互いに依存しているんだよ」
臨也は少しだけ真摯な顔で、そう言った。
門田は何も言わなかった。二人の歪んだ関係に口を挟む権利など、持ち合わせてはいなかった。
「俺はただ自分が安穏に学校生活が送れればいいさ」
門田は苦笑して教室に戻ってゆく。臨也は唇を歪めたが、何も言わなかった。何も言わずに、ただ黙って静雄が去った廊下を見つめていた。






運命って信じるかい?

あの全てを分かっているとでも言うような赤い目で、臨也はそう言った。
俺はそんなものちっとも信じちゃいないけれど、ひょっとしたらこれは運命なんじゃないかって思う時がたまにあるよ。
静雄は真っ白なシーツに体を預け、ただ黙って臨也の言葉を聞いていた。
体のあちこちにある鬱血の痕。擦り傷や切り傷や打撲傷。数え出したらキリがないそれらを、静雄は無かったことにしよう、と冷えた頭で考えた。
臨也の顔は真っ白で、表情はない。何を考えているのか静雄には分からない。分かりたくもなかった。
運命。
そんなものがあるのだろうか。あるのなら、これは運命なんだろうか。俺とこいつが出逢ったのも。こんな風な関係になったのも。
少し眠りなよ。
臨也がそう言ったのに、静雄は黙って目を閉じる。
うとうとと微睡みに落ちていく際に、優しく頭を撫でられた気がしたのはきっと気のせいなんだろう。
犯された相手に優しくされるなんて、有り得ないことだから。



(2010/09/06)

見れない方がいたので分けました(2010/12/09)
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