相手の拳を利き腕の方向へ避けて、鳩尾に膝蹴りをする。
後ろから殴り掛かられるのを一歩だけ移動して避けて、振り向かずに肘鉄をする。
ナイフは手で受け止める。簡単な事だ。自分の体はナイフで傷などつかない。相手が怯んだのを見て、顔面を殴ってやった。
殆ど無駄のない動き。平和島静雄は先程から同じ箇所に立っている。相手から受ける暴力を、受け止め、跳ね返し、防御しているだけだ。
臨也はそれを2階の廊下の窓からずっと見ていた。
「またやってるの?」
いつの間にやら新羅がやって来て、臨也の隣で静雄を見ている。
「そう。全くシズちゃんはバケモノみたいだね」
「静雄も君には言われたくないだろうね。どうせ相手をけしかけたの君だろう?」
新羅の言葉に臨也は薄く笑うだけだ。窓枠に肘を掛けて、臨也は視線を静雄から離さない。
新羅はそんな臨也を、少し冷たい目で見ていた。
「ねえ臨也」
「なんだい」
「君、静雄をどう思ってるの」
この問いに、臨也は静雄から新羅へと視線を移した。少し驚いた顔で。
「愚問だね。どうしてそんなことを今更聞くのかな?」
「気に入らなくて、死んで欲しい?」
「分かっているのなら聞かないでよ」
「じゃあさ、あれ無駄なんじゃない?」
新羅は校庭で格闘している静雄を指差した。何十人と居た不良たちは、もう僅かに数人だ。
「何の為にあんなことするの?静雄にはナイフも刺さらないし、車に轢かれても死なない。つまり外傷で死に至るのは有り得ない」
新羅の言葉を聞きながら、臨也はまた視線を静雄に戻した。
新羅は無表情とも言える顔で、更に言葉を続ける。
「殺したいならそれこそ毒殺とか内側からじゃないと無理だよ。なのにどうしてやらないの?」
「…殺人を唆すみたいな言い方だね」
臨也は低く笑った。その赤い双眸はこれっぽっちも笑ってはいなかったけれど。
「殺したくないんだよね?」
新羅は尚も続けた。「君は平和島静雄が憎くて目障りで邪魔で仕方がない癖に、実際には死んで欲しくないわけだ」
「それを確認して何かあるの」
臨也の声は冷たい。きっと声と同じく表情も冷たいのだろう、と新羅は静雄を見ながら思った。
「別に?なのに何であんなことするのかなって素朴な疑問」
静雄は最後の一人を殴り飛ばしたところだった。気絶した怪我人の山の真ん中に、ただ真っ直ぐに立っている。息さえも乱れていない。
「終わったみたいだね」
臨也は新羅の問いには答えず、楽しげに笑った。
静雄は汚れた自身の衣服をはたくと、真っ直ぐにこちらに顔を向ける。始めから、臨也がそこにいるのは分かっていたのだろう。
「見付かった。じゃあね、新羅」
臨也は笑いながら廊下を駆けて行く。
校庭にいた静雄も駆け出していた。これからいつもの追っ掛けっこが始まるんだろう。
「静雄だってあんなだけど人間なんだよ、臨也」
ポツリと新羅は去っていった背中に呟く。学ラン姿の臨也は、やがて階段を駆け下りて見えなくなった。
「あんまり虐め過ぎると、いつか壊れてしまうよ」
新羅は僅かに苦笑し、先に家に帰ることにする。きっと数時間後、二人とも治療に来るだろうから。



夏だ。
青い空。大きな白い雲。照り付ける陽射し。
高校三年生の最後の夏休みを、静雄と臨也は今日も追っ掛けっこをしている。明日から学校が始まり、今日が夏休み最後の日だというのに。
臨也との追いかけっこは命がけだ。勿論自分は丈夫なせいでそう簡単には命の危険になんて遭わないのだけど、車には轢かれるわ、高い場所から突き落とされるわ、臨也の執拗な攻撃はさすがに静雄も鬱陶しい。
肉体的には平気なのに、精神的に疲弊して行く気がした。毎日毎日絡まれて嫌いな暴力を振るわされ、憎悪と嫌悪と言うマイナスの感情を抱かされ、本当に本当に心底うんざりする。
臨也が走って逃げて行くのを静雄は追わなかった。
手にしていた標識を放り投げて空を見上げる。空は真っ暗で今にも雨が降りそうだ。稲光が遠い空に見える。きっと土砂降りになるだろう。

案の定、雨は激しく降り注ぎ、佇んでいた静雄の体を濡らした。
ビルの軒下に逃れて、濡れた髪の毛を鬱陶しげに掻き上げる。衣服もびしょ濡れで、白のTシャツは透けて肌が見えていた。
さすがに豪雨のせいか路地裏には人影がない。ネオンの光りがぼんやりと見える。そういえば今何時なのだろう。携帯を取り出して確認するのも面倒だった。
座り込んで膝を抱える。寒くはなかったが、こうしていると紛らわすことができた。何かからは静雄自身にも分からない。恐らく寂しさとか温もりとか、そういうもの。
俯いていたので、傍らに人が立ったのに気付くのが遅れる。はっとして顔を上げれば、臨也が傘を差して立っていた。口端を吊り上げて。
「風邪を引くよ」
「うるせえ、あっち行けよ」
静雄はうんざりして手で牽制する。疲労している時に、これ以上この男の顔を見たくなかった。
臨也は黙ってまた笑うと、屈み込んで静雄に傘を差し出す。自分がそれによって濡れるのも厭わずに。静雄は訝しげに眉を顰めた。
「捨てられた子犬みたいだね」
「死ね」
「ははっ」
臨也は静雄に傘をさしたまましゃがみ込む。彼の真っ黒な私服が濡れていくのに、静雄は僅かに目を細めた。
「手前のが風邪ひくんじゃねえの」
「心配してくれるの」
臨也が笑ってそう言うのに、静雄は舌打ちをする。土砂降りの雨音が煩いのに、互いの声だけはよく聞こえた。
小さな傘の中に、臨也と静雄のふたりきり。それはまるで密室みたいだ。こんなに外の雨音が酷いのに、この傘の中の空間だけ切り離された感じがした。
臨也の酷く綺麗な顔が近付いて来るのを、静雄は人ごとのように感じる。唇が重なっても、目は開いたままだった。
臨也の唇は冷たく、飴でも食べていたのか苺のような味がする。チロリと上唇が舐められるのに、静雄は薄く唇を開いた。その途端に舌がぬるりと入り込んで来る。静雄の体がぴくりと揺れた。
強い雨が降り注ぐ。
臨也が傘を手放して、静雄の頭を優しく両手で掴んだ。空と自分たちを隔てるものがなくなって、二人とも直ぐにずぶ濡れになる。アスファルトに落ちた傘が土砂降りの雨で転がってゆく。
静雄はそれを横目で見つつ、やがてゆっくりと目を閉じた。口づけが深くなるのに、思わず静雄は腕を臨也の細い首に回す。臨也はそれに驚いたのか、体を微かに震わせた。
舌を絡ませ合い、何度も互いの唾液を舐める。じわじわと体が熱くなってゆく。雨が体の熱を奪っている筈なのに。
長いキスが終わり、唇が離れると、臨也の赤いそれと目が合った。雨のせいか、それは潤んでいるように見えた。熱に浮された赤い目。
なんて目で見るのだろう。静雄はゾクリとした。こんな目で、誰かに見られるのは初めてだ。
急に臨也は静雄の腕を取って立ち上がる。まだキスの余韻で力が抜けていた静雄は、引きずられるように歩かされた。
「おい、臨也」
「今だけ俺の言うことを聞いて」
臨也は静雄の腕をきつく掴んだまま、更に人気のない路地裏に入って行く。雨が酷くて視界が見づらかった。臨也に掴まれた腕だけが熱い。
真っ白な壁の建物に連れ込まれる。明らかにホテルらしい部屋のパネルがあり、ここがラブホテルだと気付く。 静雄が驚いて一瞬足を止めるが、ぐいっと引っ張られた。
「臨也」
「おいで」
さっさと部屋を選んで、先払いの金を払う臨也に、静雄は何も言えなくなる。男同士でも入れるのか、なんて静雄は少し間抜けなことを考えた。
鍵を開けて部屋に入り、臨也は静雄を引っ張り込む。中は薄暗く、大きなベッドが真ん中においてあった。
ずぶ濡れで重くなった衣服のまま、臨也は静雄をベッドへと押し倒す。ぎしっとスプリングが揺れ、静雄は驚きで臨也を見上げた。
「シズちゃん、初めて?」
「何が…」
「こういうことするの」
臨也はそう言って静雄の濡れたTシャツを捲り上げる。静雄ははっとして臨也のその手を掴んだ。濡れていた手は、酷く冷たい。
「こういうことって…」
「ラブホテルなんだから、ここ。…分かるよね?」
馬乗りになった臨也は、静雄の目を見ながらゆっくりと掴まれた手を振りほどいた。
「…俺は男だぞ」
静雄は視線をさ迷わせる。動揺のせいか、濡れて寒いせいか、指先が震えた。
「男のシズちゃんはこれから俺に強姦されちゃうんだよ」
臨也はその手を掴むと、静雄の指先に口づける。赤い双眸で静雄を見つめたまま。
「強姦って、お前」
口を開いた静雄のそれを、臨也は再び塞ぐ。声は発せられずに、静雄は言葉を飲み込んだ。
強姦と言う割にキスは優しく、啄むように何度も交わされる。その間にも臨也は静雄の衣服を脱がせていく。白い体中に今日ついたであろう傷があった。きっと数時間後には跡形もなくなるんだろう。臨也がどんなに痕をつけても。
肌は雨で冷えたのか酷く冷たい。臨也は自身も服を脱ぐと、体を密着させた。ぴくりと静雄がびくつくのが分かる。
「怖い?」
臨也の赤い双眸がじっと静雄を見下ろしてくる。そこにいつもの笑みはなかった。
「なんで、こんなこと」
静雄は臨也を押し返すみたいに肩に手を置く。その肌は冷たくてしっとりとしていた。
「なんでだろうね」
臨也は薄く笑って静雄の首筋に顔を埋める。臨也の熱い唇に、静雄の冷たい肌が粟立った。
「本当は分かってるのかも知れないけどね」
俺も、君もさ。
臨也の声を聞きながら、静雄は体の力を抜く。
「頭がいかれてるな」
俺も、お前も。
そう言って静雄は目を閉じ、臨也は笑った。









(2010/09/05)
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