HONEY 唐突に意識が覚醒した。 けほっと軽く咳込む。 どうやら何か夢を見ていたらしい。それも嫌な夢を。 体は嫌な汗をかいていた。微かに指先が震えている。嫌な夢だったと言うのは分かるのに、内容は覚えていない。 静雄はのろのろと起き上がり、軽く頭を振った。まだぼんやりとした思考が徐々にはっきりして行く。 ベッドの隣を見れば一緒に寝ていた筈の相手はいなく、真っ白なシーツには温もりさえなかった。シャワーでも浴びているのかもしれない。ここは相手の家だから、家から居なくなるのは有り得ないのだし。 静雄はベッドから下りると、床に散らばった服を手に取った。それはいつも乱暴に剥ぐように脱がされる。いつだったかボタンが千切れた時は殴りかかってやった。躱されたけれど。 静雄は取り敢えず下着とスラックスを身につけた。上半身はワイシャツだけを羽織り、扉に向かって歩く。扉の開閉にカチリと音が響いた。 廊下を出て浴室の前に来るが、水音は全くない。どうやらあの男はシャワーではないらしい。 となると違う部屋か。 仕事をしてるか、例のくだらない趣味で何かしているのか。 どちらにしろ携帯やパソコンを弄っているのだろう。寝る間も惜しんで呆れたものだと思う。 静雄は溜息を吐いて寝室に戻った。マンションから出て行ってやろうかとも思ったが、きっと後からぐちぐちと言われる。 シャワーを浴びる気にもなれず、静雄はベッドに横になった。 大きなベッドに丸くなって寝転がる。先程の夢が少し心に不安を落としていて、酷く寂しく感じられた。 早く朝になればいい。 静雄は軽く唇を噛み締めると、ゆっくりと目を閉じた。 「もう会うのやめるかな」 低く、淡々とした声で呟いた静雄の言葉に、テレビを見ていた新羅は顔を上げた。テレビはワイドショーをやっていて、くだらない芸能ニュースを先程から報じている。 「臨也の話?」 「まあ元々付き合ってるとかじゃないし」 好きだとか言われたこともないし。 静雄はそう言って煙草を燻らせる。紫煙がふわりと舞って消えていった。 「会わないって…無理なんじゃないかな」 新羅は両腕を広げて肩を竦める。 臨也がそれを承諾するとは思えなかった。あの旧友は静雄には異様に執着しているから、昔から。 それを無意識ながらも分かっている静雄は煙を吐く。 「それに会ってもあれしかしねえし」 「あれ?」 新羅は首を傾げる。 静雄は不機嫌な顔でそっぽを向いた。僅かに頬が赤い。 「ああ…、あれね」 性交渉か。 新羅は頷いた。 「そう言う言い方きめえ」 「はっきり言うよりいいだろう?」 新羅はズズズ…とお茶を啜る。静雄はそれに仏頂面だ。 「…それにあいつ仕事忙しいし」 「なんか倦怠期の夫婦みたいだね」 あはは、と笑う新羅に静雄がきつく睨んできた。新羅は慌てて笑いを引っ込める。下手な冗談も命取りになりそうだ。 「でも仕事は仕方ないじゃないか。そこは分かってやらないとさ」 「……」 静雄は口を噤む。静雄だってそんなことは分かっているのだ。 「他に何かもっと理由があるのかい」 「別に」 静雄は即座に否定し、煙草を灰皿で揉み消した。 何だろう、何かもっとありそうだ。 静雄を見ながら、新羅はうーん、と考える。浮気でもしたのかな、臨也。顔だけは良いからモテるしなぁ…。 「今日にでもあいつに会いに行って来る」 静雄はちらっと時計を見た。時間を確認する。 「最終通告でもするの?」 「…そんときに考える」 「そう」 新羅は頷くとテレビに視線を戻した。もう話題はただのニュースになっている。 「静雄が決めたなら、仕方がないね」 新羅はそう言って、手に持っていたお茶を飲み干した。 ゆっくりとした足取りで静雄は新宿の町を歩く。 新宿は嫌いではないが、やはり池袋の雰囲気の方が静雄には合っている。こちらにあの男が住んでなければ新宿には来る機会など皆無だろう。 マンションのエントランスを抜け、中に入った。目的の階数までエレベーターに乗る。到着を知らせる機械音がいやに響いて聞こえた。 合い鍵は渡されていたが一応の配慮でインターホンを鳴らす。暫くすると中から扉が開かれた。 「来るのはいいんだけどさ…俺、仕事がまだあるんだけど」 静雄を見た臨也は眉を顰め、一言こう言った。 静雄はむっとして黙り込む。じゃあ帰る、と言うのに腕を掴まれて中に引きずり込まれた。 「おい、…仕事あるんだろ」 強引に玄関に入らせられて、静雄は腕を掴む手を振り払う。臨也はさっさとその間に扉に鍵をかけてしまった。 「あるけど帰れとは言ってないよ」 臨也は再び静雄の手首を掴み、中へと引っ張り上げた。静雄は慌てて靴を脱ぐ。 そのまま静雄をリビングのソファーに座らせると、臨也は両肩を掴んで強引に唇を重ねた。静雄の目が驚きで丸くなる。薄く開いた唇に臨也の舌が入り込み、口腔を思うさま蹂躙していく。 「…んっ」 思わず静雄が声を上げた頃、強引で性急な口づけは唐突に離された。 「いつ終わるか分からないけど待ってて」 臨也は静雄の赤く濡れた唇を指で拭い、耳元で囁く。 我に返った静雄が顔を真っ赤にして蹴りを繰り出すが、もう臨也は静雄から身を離していた。 「死ね、バカ」 「あはは」 臨也は笑い声を上げて部屋から出て行く。 静雄は腹立たしさに、臨也が消えた扉へとクッションを投げつけた。 臨也は床に転がった酒の瓶を見て溜息をついた。 フローリングの上には液体が零れ、部屋の中は酒臭い。ところどころには食べ物が散らかっているし、後片付けが面倒臭そうだ。 臨也は取り敢えずカーテンを開けて、窓も開けた。 冷えた夜の空気が部屋に入り込んで来る。 臨也は一旦寝室に引っ込むと、毛布を持って戻ってきた。それをソファーに寝ている男にかけてやる。 眠る金髪の男は身じろぐ気配すらない。寝顔は幼く、安らかだった。 時計を見るともう明け方の5時近い。静雄が家にやって来たのは9時ぐらいだったから、およそ8時間経っている。 なるほど。部屋の惨状を見て理解した。 これだけの時間を放っておいたのだ、拗ねるのは当たり前だろう。よく帰らなかったものだ。 臨也はソファーの傍らに屈み込み、寝ている静雄に触れるだけのキスをする。 そして金の髪を優しく撫でて、リビングから出て行った。 朝に目が覚めるともう太陽は真上に来ていて、昼食を準備していた助手に「もう朝って言わないわよ」と呆れられた。 リビングは綺麗に片付けられていて、当然ながら静雄の姿はもうなかった。 「君が来た時、シズちゃんいた?」 「いたわよ。でも部屋を片付けて直ぐに出て行ったわ」 「ふうん」 ソファーの上には毛布が綺麗に畳まれて置かれていた。臨也はまるで温もりを確かめるようにそれに手を伸ばす。勿論温もりなんてとっくになくなっていた。 波江は少し冷めた顔で臨也を見、軽く息を吐くと机の上に鍵を置いた。 「これ渡して欲しいって頼まれたの」 臨也は顔を上げ、眉間に皺を寄せる。 「暫く来ないそうよ」 波江の言葉を聞きながら、鍵を手にした。 「ふうん…」 なるほど。やっぱり怒っているらしい。 手にした合い鍵を弄びながら臨也は不機嫌な顔になる。仕事なのだから仕方がないと言うのに。大体約束をしていたわけでもないのにやって来たのはあっちなのだし。 考えているうちにムカついてきた。 「随分と余裕のない顔ね」 助手の言葉は冷たい。 「シズちゃん相手に余裕だったことなんて一度もないよ」 臨也は合い鍵をポケットに入れて部屋を出て行く。 「それでも相手には余裕な態度を見せるのね。…馬鹿みたいだわ」 波江がぽつりと漏らした言葉は臨也の耳には入らなかった。 それから日々が経ち、夏だった空はもうすぐ秋だ。 意外にも臨也からは全く連絡がなく、静雄は少し拍子抜けだった。 高校の時からいつもいつもしつこく何かしらちょっかいかけて来ていた癖に。 会わない時間が経てば経つほど苛々が募って行く。 「結局静雄も臨也に会いたいってことでしょ?」 「違う」 新羅がけらけら笑って言うのに、静雄は殺気を発して睨んだ。新羅は即座に黙り込む。 「僕のところにも全く来ないから池袋自体に来てないのかもね」 「来なくて清々する」 「素直じゃないなぁ」 パリンっ。 静雄が持っていたコップが割れ、新羅は再び黙り込んだ。 でもこれは新羅にとっても意外だ。あの臨也が静雄に会いに来ないなんて。 もうそれは高校の時から365日、何年間も執着し続け静雄が自分しか目に入らないようにしたくせに。 「なんだか寂しいなぁ。君達が別れるなんて」 「別に付き合ってねえし」 「じゃあ友情が崩壊したのが悲しい」 「俺とあいつが友達だったことはねえ」 静雄はにべもない。 確かにそうなんだけど、と新羅は溜息を吐いた。 じゃあどんな関係なのだと問われれば、静雄だって答えられない。 「ねえ、いい加減教えてよ」 「なんだ」 「何で臨也と会わないって思ったの」 「……」 新羅の言葉に静雄は暫し黙り込む。何かを思案してる様子に、新羅は黙って見守った。 「簡単に言うと」 「うん」 「目を覚ますと隣にいねえから」 「…それだけ?」 新羅は面食らう。何かもっと大層な理由があると思っていた。 「それだけってなんだ」 静雄はギロリと新羅を睨みつけながら悪態をつく。 「いやあ、静雄にしては可愛らしいね」 「気持ちわりぃ」 「ははっ、でも気持ちは分かるよ」 新羅は眼鏡の奥の目を細めた。 「一緒に寝てたはずの相手が目覚めた時に居なかったら、きっと寂しいだろうね」 新羅の言葉に、臨也は眉を顰める。 静雄が新羅のマンションを出て行ってからきっかり2時間後、同じマンションに臨也の姿があった。 「なんだい、藪から棒に」 「いやあ、臨也はどう思う?寂しくない?」 「…新羅がそんな質問してくるなんて気持ちが悪いよ」 臨也は不機嫌な顔で新羅を見遣る。訪問時に新羅が入れてくれたコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。 「臨也みたいなタイプは平気なんだろうね、きっと」 新羅はテレビを見ながら笑う。テレビはくだらない恋愛ドラマ中だ。 「新羅って俺をかなり冷酷な人間だと思ってるよねえ」 「違うの?」 「俺だって悲しいと言う感情はあるし、寂しいと思うことはあるよ」 臨也は口角を吊り上げる。眉目秀麗が笑みを形作る様は、それなりに綺麗だ。例え厭味のような笑みだとしても。 「それってつまりはさっきの質問の解答なんだよね?」 すなわち肯定。 新羅はすっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干す臨也を見遣った。 「まあ相手によるけどね」 「静雄なら?」 新羅の口から出てきた名前に、臨也は一瞬口ごもる。 「何でそこにシズちゃんの名前が出て来るのかな」 「臨也と言えば静雄。静雄と言えば臨也。だろう?」 何だか良く分からないことを言って、新羅はあははと笑った。 「最近会ってないんだって?」 「池袋に来たのも一ヶ月振りだから」 「珍しいねえ」 「用事がないからね」 今日だって仕事がなければ来なかっただろう。 「臨也が静雄に構わないなんてさ」 新羅の言葉に臨也は黙り込む。眉間に皺が寄り、不機嫌な顔になった。 「シズちゃんが暫く来ないって言ったからね」 「新宿に?」 「そう。暫くってどれくらいなのやら」 軽く息を吐いて遠くを見る臨也に、新羅は笑う。 「お姫様を迎えに行くのは王子様の役目なんじゃないの」 「いつも甘やかしてるからたまには放っておく」 臨也は口端を吊り上げた。 一応は甘やかしている自覚は多少あるらしい。新羅はますます笑ってしまった。 「でもちょっと放置し過ぎなんじゃない?」 「そうかな」 「せめて起きた時ぐらい一緒にいてやったら」 「え?」 臨也の目が怪訝そうに新羅を見る。 「あれ?気付かなかった?」 さっきの質問は静雄の事なんだけど。 新羅はそう言ってまた笑った。 続 (2010/09/03) ×
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