不可視光線






おまけ。



夏の熱い日差しの中、少しでも風を通そうと静雄は教室の窓を開けた。
殆ど風は入ってこなかったが、蒸し暑い教室よりはマシな気がして静雄は溜息を吐く。パタパタと下敷きで扇いで見るものの、暑いものは暑い。
ふと外から聞こえるガヤガヤと騒ぐ声に、静雄はそちらへ顔を向ける。見れば隣のクラスの連中だった。門田と臨也もいる。
視界に入って来た天敵に、静雄は思わずカーテンに隠れる。ふわりと揺れるカーテンに、臨也がこちらを見た気がしたけれど、きっと気付かれてはいない。
静雄はカーテンの隙間からちらっと視線を送った。
臨也が門田と何やら話している。静雄には見せない表情で。あれが臨也の素なのだろう。年相応の。
静雄は開けたばかりの窓を閉めた。パタン、と音がするのに臨也がこちらを見たが、静雄は気付かない振りをして窓際から離れた。






はぁはぁはぁ。
静雄は走る。まるで何かに追われているかのように。夜の池袋の街をひたすらに駆けて行く。
雑踏も喧騒も、全てを置き去りにして静雄は走る。
頬が熱い。唇も。
汗が額に流れ、風と共に散ってゆく。
どこまでも走っても、月だけはずっとついて来た。丸く大きな月。
静雄はやがて立ち止まるとビルの壁に背を預ける。そのままズルズルと座り込んだ。
久しぶりに全速力で走った気がする。あの天敵を追っている時でさえ、こんなに走ったことはないかも知れない。
はぁ、と息をついて、手の甲で唇を押さえる。
柔らかな感触。臨也の香水の香り。
あの赤い双眸が驚きで見開かれるのに、静雄は少しだけ溜飲が下がる。あの男はいつだって余裕がある態度だったから。
殴るつもりだった。直前まで。実際に拳は握り締めたし、手に力も込めた。
なのに。
「…っ、」
唇の感触を思い出して静雄は俯く。頬は熱く、耳まで赤い。
なのに。何故か唇を重ねてしまった。衝動的に。
「何やってんだ、俺…」
最後だから、と思ったからか。
もう二度と会わないと言われたからか。
「何やってんだ…」
静雄はもう一度そう呟いて、顔を手で覆った。





薄い空に白い雲が疎らだ。少し冷たい風が吹いて、枯れ葉が飛んでゆく。秋の気配。
秋はなんだか寂しく感じる季節だ。赤や黄色の木々は綺麗だというのに。
静雄は校舎に背を向け、ぼうっと校庭を見ていた。
校庭には先程静雄が倒した不良たちの山が転がっている。
はぁ、と溜息を吐く。暴力は嫌いだって言うのに、相手はいつも容赦なくやって来る。まるで静雄のこの力を進化させようとしてるみたいだ。
静雄は鞄を手にし、歩き出す。校門の方で新羅が手を振っている。静雄の喧嘩が終わるのを、待っていたのだろう。
背中に視線を感じる。痛いぐらいに。毎日毎日。それは静雄を見ていた。
恐らく不良をけしかけているのはあいつで、その結果を確かめているのかも知れない。けれど視線はとても熱くて、静雄はいつも振り返れない。振り返ってあの目を見たら、もう駄目な気がしていた。何が駄目なのか分からないけれど。





臨也は静雄を追って走っていた。
幸いというか何なのか、静雄は池袋では有名な高校生だ。少し情報を集めようとするだけでいくつも目撃談が出て来る。
臨也は正確に、確実に静雄の通ったコースを辿って行く。
路地裏に入り、廃ビルがある方へと進む。段々と人通りが減って行った。
三年間、追い掛けっこをして来た臨也は池袋の街を知り尽くしている。恐らく相手も同じ筈だ。
喧噪から離れた、薄暗い通りに、彼は座り込んでいた。





「雪だ」
新羅がわぁ、と声を上げるのに、静雄は教室の外を見た。
寒いと思ったらちらほらと粉雪が舞い降りている。東京に雪だなんて珍しい。
「どうせならクリスマスに降ればいいのに」
新羅が笑って言った。「静雄はクリスマスなんか予定ある?」
「特に」
「じゃあうちにおいでよ。セルティが会いたがってるし」
「ん」
静雄は頷いて雪を眺める。こんな粉雪じゃ積もらないだろう。少し残念だ。
「臨也は?」
新羅がその名前を出したのにハッとした。窓から視線を移せば、少し離れた席に天敵の姿。
臨也は静雄を見ると口端を吊り上げた。いつもの折原臨也の顔。
「そうだなぁ、シズちゃんが意地悪して来ないなら行こうかなぁ」
「何が意地悪だ。手前が来るなら行かねえよ」
「まあまあ」
空気が険悪になるのに、新羅がにこにこと間に入る。
静雄は舌打ちをしてそっぽを向いた。
「手前は女と過ごせばいんじゃねえの」
「ん?」
「前に門田から聞いた」
付き合ってるの何人もいるらしいって。
静雄がそう言うと臨也は少し動揺したようだ。珍しい、と静雄は思ったが口には出さなかった。
「…いないよ、そんなの」
「ふうん」
「じゃあ皆でパーティーしよう!」
新羅はぽん、ぽん、と静雄と臨也の肩を叩く。「その時は喧嘩なしで頼むね」
結局その日も大喧嘩になるのだが、それはまた別の話。




じゃり、と足音がして、静雄は顔を上げた。
目の前には先程別れたはずの男が立っていて、静雄を見下ろしている。
「臨也」
静雄はその男の名を口にした。三年間、毎日何度も怒りで口にして来た名前。
「シズちゃん」
臨也は静雄の前にしゃがみ込み、そのまま静雄の体を抱きしめた。静雄の目が見開かれる。
「何で追い掛けて来るんだよ」
静雄は僅かに自分の声が掠れているのに、動揺した。微かに体まで震えている。
「何でさよなら何て言うのさ」
臨也が静雄を抱きしめる腕に、力が入る。
「…手前が二度と会わないとって言ったんじゃねーか」
「だからキスしたの?」
びくっと静雄の体が動いた。顔が羞恥で赤くなるのが分かった。
臨也は静雄の肩に手を置いたまま、顔を覗き込む。薄暗い路地裏でも静雄の頬が赤いのが見て取れ、臨也はくすっと笑った。
「シズちゃん」
臨也の白い手が伸びてきて、静雄の顎を持ち上げる。静雄の眼差しが自分を捉えただけで、臨也は自身の鼓動が跳ね上がるのを自覚した。
そのまま両手で頬を包み込み、ゆっくりとした動作で唇を重ねる。一瞬抵抗するみたいに静雄が臨也の腕を掴むが、その手に力は入っていなかった。
ぬるりと唇を舌で舐めてやれば僅かに開く。舌を侵入させ、歯列の内側を舐めた。
逃げる相手の舌を掴まえて絡ませる。少し強引に吸えば、ちゅくちゅくと水音が響く。静雄は羞恥に顔が赤くなった。
やがて唇を離すと、二人の間には透明な糸が引いて切れる。臨也は舌で唾液に濡れた静雄の唇を、ベロリと舐めてやった。
「もう会わない、なんて撤回するよ」
「…なんだよ、それ」
「シズちゃんのこと諦められないからさ」
「……」
臨也の目に垣間見れる熱情に、静雄は目を逸らす。何やら舌打ちをして悪態をつくが、その頬は赤い。
「もう新宿に引っ越したんじゃねえのかよ」
「シズちゃんに会いに来るよ」
臨也はにこっと笑った。いつもの厭味な笑い方ではない、普通の笑みで。静雄は唇を手の甲で押さえ、睨みつけてやる。
「わざわざ新宿から来んのかよ」
「うん」
「手前を見掛けたら自販機投げるぞ」
「うん」
「…標識も」
「うん」
「…他のもんだって」
「うん」
「……」
「構わないよ」
臨也は笑って静雄の体を抱きしめる。「シズちゃんが俺と会ってくれるなら」
まあ全部避けるんだけどね、とは心の中で。
「お前…バカだな」
静雄は溜息を吐くと、笑って臨也の背中に腕を回した。臨也は静雄の肩口に額を押し付けて笑い返した。
「ところでシズちゃんってファーストキス?」
「うるせえ、悪いかよ」
「そっかぁ…。でも実は」

俺、寝ているシズちゃんにしたことあるんだ。

は?






春の風が静雄の前髪を揺らす。金の髪がさらりと前髪に落ちた。
臨也は真っ青な青空の下、屋上で眠る静雄を見下ろしていた。
時折強い風が吹く。暖かい風。パタパタと静雄の制服が揺れる。
聞こえてくるのは穏やかな寝息。遠い空で鳥が鳴いていた。暖かい日差しが降り注ぐ。
臨也は目を細め、ただじっと静雄を見下ろしていた。他に誰もいない二人だけの屋上で。
どれくらいそうしていただろう、臨也はやがて寝ている静雄の傍らに膝をついた。片手を脇について、スッと身を屈める。
臨也は目を伏せ、ゆっくりと静雄の唇に己の唇を重ねた。
それは数秒触れただけで離され、臨也は立ち上がる。
柄にもなく顔を赤くし、臨也は軽く舌打ちをした。誰も見ているものは居ないと言うのに。
臨也は溜息を吐いて屋上から出て行く。
静雄は一人、春の麗らかな陽射しの中で眠っている。今起きたことなど気づかずに。
春の風が金髪を揺らして通り抜けて行った。



(2010/08/30)
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