可視光線 3






高校生活の三年間は二度ともう戻らない。
例えどんなに後悔しても。



卒業式を終えたその日、ボロボロな体で静雄は新羅のマンションに居た。
体が頑丈なせいで目立った外傷はないが、シャツの所々に血が滲んでる。制服はボロボロのよれよれ。幸い今日を最後にもうこの制服を着る事がないのがせめてもの救いだ。
「最後くらい仲良くすればいいのに」
新羅は静雄の体を治療しながら苦笑する。結局入学式から卒業式まで、こうやって三年間治療する羽目になってしまった。
「あいつと仲良くとか一生ないだろ」
静雄は吐き捨てるように言う。静雄は度重なるいがみ合いに心の底からうんざりしていた。
「臨也、君のことが好きなのに」
新羅が不意に言った言葉に、ぴくりと静雄の片眉が吊り上がる。
ギロリとこちらを睨んで来る静雄に、新羅は笑って肩を竦めただけだ。
「臨也の愛は歪んでるからね」
僕は同じ歪んだ愛を持っているから分かるんだよ、と新羅は笑って言う。
同時に静雄やセルティのような真っ直ぐな人には分からないだろうな、とも思いながら。
静雄はそれを聞いても別段怒らなかった。ただ黙って新羅が作業する手先を見ているだけだ。眉間に皺を寄せて。
「臨也さ、新宿に引っ越したらしいよ」
新羅が唐突に言った言葉に、静雄は顔を上げる。
「多分もう池袋には来ないつもりだと思う」
「…へえ」
静雄は適当に相槌を打ち、それきり黙り込んだ。会わなくて済むのなら清々する。他に何も思う事なんてなかった。…ないはずだ。
やがて治療が終わり、新羅は立ち上がる。
何か飲む?と聞いてくるのに、静雄は頭を振った。明らかに元気がなくなった静雄に、新羅は苦笑して溜息を吐く。
全く素直じゃないんだから。
「そういえばさ、臨也が教室から毎日君を見てたの知ってた?」
この言葉に、静雄は目を僅かに泳がせた。その目が動揺で揺れたのを、新羅は直ぐに気付く。
「知ってたんだね」
「…あいつは目立つからな」
やっぱり分かってたか。
新羅は苦笑した。静雄はそう言うのには鋭いから、分かっていないわけはないと思っていた。分かっていて、知らない振りをしてたのか。
「いいの?」
「何が」
「臨也のこと」
「……」
沈黙が落ちる。今更ながら、ずっとつけっぱなしだったテレビの音がいやに煩く感じられた。大して面白くないバラエティ番組の笑い声が耳障りだ。
「もう会うことねえだろ」
ぽつりと静雄が口を開く。それは何だか諦めてるみたいな口調で、新羅は目を細めた。
「あと一回だけチャンスがあるよ」
この言葉に静雄は訝しげに眉を顰める。
「クラスで飲み会があるんだって。場所は勿論池袋。多分臨也も来る」
「あいつがそんなのに来るかよ」
「門田くんに無理矢理誘うように頼んでおいた」
あはは、と新羅は笑う。
静雄は驚きで目を見開いた。そんな静雄に、新羅は穏やかに微笑む。
「最後のチャンスだから会って来るといい。暴力じゃなくて言葉でちゃんと伝えておいで。臨也には暴力じゃ伝わらないよ」
そう続ける旧友に、静雄は少しだけ悲しそうな顔をした。唇を噛んで、僅かに視線を横に反らす。
「何でお前がそんなお膳立てするんだよ」
「三年間、君達の戦いを特等席で見せてもらったからね。お礼だと思えばいい」
「何が礼だよ…」
ち、っと静雄が舌打ちをして、苦笑いを浮かべた。どうやら怒ってはいないらしい。
「君が臨也に何て答えようが自由だよ。受け入れてもいいし振ってもいい。でもこれを最後にするのなら、きちんと卒業しておいで」
折原臨也と言う存在から。
新羅そう言って、白く畳まれた紙を静雄に差し出した。手渡されたメモには飲み会の場所と日時。
静雄は手を伸ばすと、それを黙って受け取った。






静雄は花壇の縁に座りながら、ぼんやりと夜空を見上げた。
どんよりと曇ったような空に、満月が浮かんでいる。
残念なことに星は見えなかった。こんな都会の空では当たり前だろう。星はいつだって隠れたりはしていないのに。
少し風が肌寒く、静雄は両肩をぎゅっと手で包み込んだ。薄手のパーカー一枚で来たことを後悔する。
…帰ろうか。
自分は何のためにこんなところにいるのだろう。
来るんじゃなかった、と思い始める。一体今更会って、何の話しをする気だったのか。
静雄は溜息を吐くと立ち上がった。
「静雄」
そのタイミングで声を掛けられ、静雄は顔を上げる。
見れば赤信号を挟んだ向こう側に、門田が立って片手を振っていた。
少し後ろにはクラスメイトたちだろうか、数人のグループがいる。そして臨也が驚いたようにこちらを見ていた。黒いスラックスに黒いコート。私服も黒だらけの男だ
静雄は目を逸らし、チッと舌打ちをする。やっぱり来るんじゃなかった。姿を見ただけで、何だか心臓が痛い。
静雄は臨也を無視し、そのまま背を向けて歩き出す。カチカチと反対側の青信号が点滅するのに、走って渡った。
会いに来たと言うのに何故逃げるんだろう。自分でも良く分からないまま、静雄は早足になる。雑踏を抜け、人通りが少ない場所に来て、やっと静雄は足を止めた。歩道橋の階段を昇り切り、はぁっと息を吐く。
新羅や門田には後で謝っておこう。せっかく会えるようにしてくれたと言うのに、自分は逃げてしまった。

「シズちゃん」

突然名を呼ばれ、腕を掴まれる。はっとして向けば、臨也が息を切らして立っていた。
「シズちゃん早いよ。見失わないように必死だった」
臨也はそう言ってはぁっと深く息をつく。こんな風に余裕のない臨也を見るのは初めてだ。
静雄はただ驚いて臨也を見つめている。
「お前…追い掛けて来たのかよ」
「ドタチンが追っ掛けろって言うからさ」
早く行け、と門田が声を荒げたのを臨也は思い出す。
静雄はお前に会いに来たんだろ、とも。
「俺に会いに来たの?」
臨也の問いに、静雄は視線を逸らした。何て答えればいいのか分からずに、黙り込む。
そんな静雄を見て、臨也は溜息を吐いた。
「そんな顔してさ…。会いに来たのにどうして逃げたの」
「…離せ」
静雄はまだ掴まれたままの腕を乱暴に振り払う。臨也はそんな静雄の態度に顰めっ面になったが、何も言わなかった。
「別に逃げたわけじゃねえよ。ちょうどそろそろ帰ろうと思ってただけだ」
「……」
臨也は無言で静雄の手を取る。静雄がはっとして手を引こうとするのを、きつくそれを握って止めた。
「手、冷たい」
「…離せよ」
「こんなになるまで待っててくれたの」
臨也は微かに笑って、静雄の手をそのまま自身の頬に触れさせる。静雄の手がぴくりと震えたが、振り払いはしなかった。手の平で感じる臨也の頬は、冷たい。
「何か話しがあるんでしょ?」
頬から静雄の手を離すと、今度は指先に柔らかく口づける。臨也の唇は静雄の冷たい手には酷く熱く感じた。火傷するかと思うほどに。
「…新宿に行くって聞いた、から」
自分の手から視線を逸らし、静雄はぶっきらぼうに呟く。手は臨也の好きにさせたままで。
「うん。もう引っ越したよ」
臨也は笑って静雄の手を離した。突然去った温もりに、静雄は少し戸惑う。
「…何で今更引っ越すんだよ」
「振られちゃったしね」
「最初から分かってて言ったんだろ?」
引っ越しがそんな直ぐに出来るわけない。始めから新宿に行くつもりだったんだろう。告白なんてする前から。
「そう…。もう二度とシズちゃんに会うつもりはなかった」
はっきりとそう告げられて、静雄は胸がズキンと痛む。ギュッと、薄い唇をきつく噛んだ。
「でもまさかシズちゃんが会いに来るなんて思わなかったな」
そんな静雄には気付かずに、臨也は自嘲するように笑う。
「何しに来たの?また殴りに来たのかな?卒業式の時だけじゃ殆ど仕返し出来てないもんね。そりゃあまだまだ君の怒りはおさまってないだろうな。貴重な高校生活三年間を散々踏みにじられて来たんだし」
「臨也」
「なのに俺が新宿に逃げるだなんて許せないんだろ?責任もとらず逃げ出してさ。だから俺が池袋にいる最後のチャンスに、やっぱり殺そうと思ってやって来たってとこなのかな?」
「臨也!」
少し大きな声で名を呼ばれ、臨也は黙り込む。
静雄は真面目な顔で、真っ直ぐに臨也を見詰めていた。
「俺は手前を許せねえよ」
「…うん、分かってる」
「手前のせいで俺の高校生活はめちゃくちゃだった」
「だね」
「けど、」

静雄は軽く息を吐く。金の髪が風で揺れた。彼の頭上には大きくて丸い月。
「それなりに悪くなかったぜ。お前との追い掛けっこも」
そう言って静雄は笑った。緩やかに、優しく。

臨也はそれに目を見開く。
それは三年間で、臨也が初めて見る、平和島静雄の普通の笑顔だった。
極親しい友人や、家族にしか見せたことのない、素の。

「でもな、一発くらい普通に殴らせろ」
それでチャラだ。
静雄は口端を吊り上げて、いつもの鋭い目付きで臨也を見る。だけどその目には憎悪や嫌悪はもうなかった。
臨也はそれに苦笑して俯き、両手をポケットに突っ込んで肩を竦める。
「まいったなぁ…。本当にシズちゃんは格好いいね」
たった一発のパンチで、三年間分をチャラだなんて。
「どうする?」
「いいよ。お手柔らかに」
臨也は顔を上げ、目を閉じる。例え手加減されたとしても、静雄の拳を受けたらただでは済まないだろう。それなりの負傷は覚悟しなくてはならない。
ひゅっと風を切る音がする。臨也は予想される衝撃に、奥歯を噛み締めた。

ふわりと。
唇に柔らかな感触が落ちて来る。
鼻先にはシャンプーの匂いがした。
臨也は驚いて目を開く。
目の前に飛び込んできたのは視界いっぱいの金髪。長い睫毛。整った顔。
静雄に口づけられているのだ、と一瞬にして理解する。
触れただけのキスは直ぐに離され、臨也は目を丸くしたまま静雄を見詰め返した。
「さよならだ、臨也」
静雄は少しだけ悲しそうな顔でそう言うと、素早く踵を返した。
「シズちゃんっ、」
そして臨也が呼び止めるのも聞かず、そのまま走り去っていく。
歩道橋の手摺りから見下ろせば、もう階段を下りて駆けて行く後ろ姿が見えた。
「シズちゃん…」
臨也は指先で唇に触れる。まだ残っている感触に、軽く眩暈がした。
何だこれは。
何で何で何で、何でこんなこと。
臨也は混乱して頭を抱え込む。
「こんなんされたら…さよならなんてできないじゃん」
あんな笑顔も。こんなキスも。あんな…、
さよなら、なんて。
本当に平和島静雄と言う存在は折原臨也にとって、行動が予想できないのだ。いつだって、いつまでも、この三年間がそうだったように。
…諦めてなんかやるか。
臨也は顔を上げる。頭上には丸く大きな月。
諦めるだなんて所詮無理だったのだ。三年もの間、ずっとずっと好きだったのだから。
臨也はぎゅっと拳を握り締めると、静雄を追って走り出す。
歩道橋の階段を駆け降りて、行き交う人々を潜り抜けて。
今度こそ逃がしたりなんかしない。さよならなんて取り消してやる。


臨也が静雄に追い付くまで、約10分。


(2010/08/29)
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