誰もいない放課後の教室というのも、なかなか楽しいものだ。
その人物は据わった目つきで、目の前のボロボロに切り刻まれたそれを見下ろす。
手持ち無沙汰に、左手の中でクルクルと回していたものを、ぽいとゴミ箱へ投げ入れると、不気味な笑みを残してその人物はそこを去った。


この気持ちが、愛でありますように。



雪村千鶴は、誰からも認められる優等生だった。
彼女の周りにはいつも学友が絶えず、クラスでも人気者、先生からも一目置かれている。
そんな彼女と隣の席になった俺は周りから羨望の眼差しを向けられたが、俺にとっては雪村千鶴などどうでも良かった。
ただ隣の席になると、必要最低限関わらなければならない時が多々ある。
そんな時間を通して俺は、誰からも好かれる雪村千鶴という人間を、暇潰し程度に観察し始めたのだった。


雪村千鶴は、それなりに可愛らしい顔をした平凡な女子生徒だった。
俺としては見た目はさほど重要ではないというのが第一意見だが、やはり顔の整った人間に対して少なくとも悪い気を起こすということはない。
彼女の瞳は大きくぱっちりとしていて、愛嬌があるとでもいうのだろうか。
どうやらそれも人気の一つと見て間違いないのだろう。
授業中、彼女の横顔を眺めていると、その長い睫毛が不規則に上下を繰り返しているのが分かる。
そういえば、通路一つ分を挟んだ真横から見つめているのに、彼女は何故俺の視線に気付かないのだろう。
気付いてほしいわけではないが、授業中に横顔を盗み見る度に不思議に思っていた。
鈍いのだろうか、と思案しながら頬杖を付きなおして彼女から視線を外した瞬間、コツンと何かが俺の足に当たった。

おそらく、雪村千鶴の消しゴムだった。
大方、机から落ちてここまで跳ねてきたのだろう。
体を屈めて拾ってやると、彼女は既に俺の方を向いていて、

「ごめんね。ありがとう、斎藤君」

とたった一言、小声で俺に向かってそう言った。
消しゴムを渡す際に触れた手は俺と違って温かく、微笑んだその顔は確かにどの女子生徒よりも可愛らしい。

「あぁ」

そしてそれが、俺と彼女の初めて交わした会話だった。


雪村千鶴は誰にも優しく接する、思いやりのある人物だった。
誰かが困っていれば自分から進んで助けるし、依頼されたことは嫌な顔一つせず引き受ける。
その上教師の補助にも積極的で、友達に頼まれると宿題まで写させてしまうのは些か問題だと俺は感じたが、それもまた彼女の美点の一つのように思える。

「さっきの授業ね、この問題分かった?」

綺麗な字が並ぶノートを広げた彼女は、授業が終わって休み時間に入ると俺にそんな質問をしてきた。
それに対して珍しいものでも見るかのような周りの視線を一気に集めたが、当の本人は全く気にしていない、いや、気付いていない。
その時の俺は、よく分からない優越感にも似た感情を持った気がした。
説明を終えると、彼女はまた屈託のない笑みを浮かべて丁寧に礼を述べる。

「斎藤君の説明って凄く分かりやすいね」
「そんなことを言われたのは初めてだが…」
「ううん、本当に分かりやすいよ。良かったら、また教えてもらっても良い…?」
「…あぁ、勿論だ」

そんな中、俺達の会話を遮るように何人かがやってきて、あっという間に彼女は囲まれてしまった。
その中の数人から鋭い視線を受けた気がしたが、どうでも良いことなので、それよりも俺は雪村千鶴のことについて考えた。


もしかすると俺はどこかで彼女を誤解していたかもしれない。
彼女は人にチヤホヤされたからと言って、驕るような傲慢な人間ではなかった。
むしろその性格は謙虚で、健気で、誰よりも努力を惜しまずひたむきな気がする。
俺は横目で煩く騒ぎ立てる隣を見た。
あの中の何人が彼女を本当に理解しているのだろう。
俺にはどうしても、お喋りが得意なだけのあの女子と、下心が隠し切れていないあの男子には、彼女の中身まで見えていない気がする。
そう考えると、何か言い知れぬ感情が胸のうちに広がった。


22、と書かれたこの紙切れをどうとるべきだろうか。
席替えで騒がしいクラスの端で、俺と雪村は顔を突き合わせていた。

「もしかして斎藤君、私の隣?」
「そのようだ」

席替えとは一種の気分転換だ。
せっかく移動した先でまた前回と同じ人間が隣だと嫌がられるのではないかと少しはらはらとしたが、それは杞憂に終わった。
雪村がぱん、と両手を合わせて笑う。

「そっかぁ…!嬉しい、また宜しくね」
「こちらこそ、宜しく頼む」

半ば彼女につられるようにして笑ってしまった自分に、らしくなかったと少し後悔したが、その時はそれどころではなかった。
次第に彼女の周りにはわらわらと人が集まって来る。
またもや何人かからの決して歓迎されていない視線が俺に向けられていたが、やはりそんなことはどうでも良かった。
心が躍る、とでも言うのか。
全く自分らしくもないが、その通りだったのだ。



そうして俺はようやく、ある一つの純粋な心と、腹の中で不気味に渦巻く、しかし今はまだ小さな気持ちに気付いたのだった。



昼休み、騒がしい教室から逃れるようにして足を運んだのは静寂に包まれる図書室。
適当に本を取って手近な席に座ると、向かいに座っていたのは意外な人物だった。

「雪村…?」
「あれ…斎藤君も自習?」
「いや、俺は読書をしに」

ぱっと顔を上げた彼女を見ると、昼休みだというのに参考書を広げていた。
当たり前だがやはり彼女が優等生で居られるのは、こういう努力の影あってこそなのだ。
しかし俺はてっきり、雪村は今頃教室であの騒がしい連中と昼食を食べているものだとばかり思っていたのだが。

「斎藤君はここによく来るの?」
「まぁ、ここは教室よりも静かだからな」
「そっか。私もね、どっちかって言うとこんな所でこんな風に一人で何かするのが好きなんだ」
「そうなのか?」
「意外…かな?」
「いや、そういうわけでは」

どちらかと言うと雪村はそっちのタイプの人間だと踏んではいたが、なんせ教室での待遇があれだ。
一人で居るところなんて見たことがないと言っても過言ではない。
だからこんな風にして静かな場所でひっそりと勉強しているのは珍しかった。
しかし、そうか。
これが本当の雪村だったのか。
やはり思った通りだった、とどこか嬉しく思う自分が居る。
クラスの誰も知らない本当の雪村千鶴を見た気がして、今度こそ優越感以外の何物でもないものを持った。

「雪村。無理をして周りに合わせる必要はない」
「え?」
「雪村は雪村のありたいようにあれば良い。俺からはどう見ても、雪村が周りに合わせているようにしか見えない」
「心配してくれてありがとう。でも私はそんなつもりじゃないから、大丈夫だよ」

嘘か本当かは知らないが、そう言われてしまえばこちらとしては黙る他はない。

「でも、またここに来ても良いかな」
「…?学生なら図書館は出入り自由だ」
「あ、そうじゃなくてね」

軽く両手を横に振る雪村は、少し頬を染めながら笑う。

「ここの、斎藤くんの向かいの席」

席が隣だから、こうやって正面から斎藤くんと顔を合わせるのって新鮮だね。
そう付け足した雪村は、せかせかとペンを動かしはじめた。
それを見て、つられるように俺も手元の本に視線を落とすが、心臓の音が煩くて最早読書どころではない。

「…」
「…」

会話の一つもない、ただ向かい合って座っているだけのこの時間が、いっそ止まってしまえば良いと思った。

「あーっ!居たー!」
「もー探したんだからぁ」

しかし突如として静かな図書室に鳴り響いたいくつかの声に、俺は我に返って入口の方へ視線を向ける。
わらわらと、数人の男女が騒がしく入って来た。
見覚えのある、あいつらは確か雪村の…。

「み、みんな…!」

目の前の雪村が、慌てたように立ちあがり、彼らの方へ走っていく。

「どこに行ったのかと思ったら、こんな所で勉強なんかしてたの?」
「昼休みぐらい肩の力抜けってー」
「俺ら今からトランプするんだけど、千鶴も一緒にしねぇ?」
「でも午後の授業の予習がまだ終わってなくて…」
「一回ぐらい予習なんかしなくたって平気だって」
「そうそう、千鶴が居なきゃ楽しくないよー」

困惑しきった様子の雪村を取り囲んだ彼らは、雪村を教室に引き戻したいと言うわけだ。
だが、見れば分かる通り彼女は彼女のやることをやっていた。
友だと言うのなら、本人の意思を尊重するべきだろう。
なのに一体何なんだ、あいつらは。

暫くしてからこちらに戻って来た雪村は、広げていた参考書やノートを片づけ出した。

「行くのか」
「うん」
「それは本当にお前の意思か?」

一緒に居たくもないのに、あいつらに強要されているようにしか俺には見えない。
雪村が悪いわけではないのだが、苛々としていた俺はつい、彼女に強く当たってしまった。

「お人よしなのは結構なことだが、優しすぎるのも…」
「!…お人よしなんかじゃない!」

珍しい、滅多に出さないような大きな声で反論される。

「どうして何も知らないのに、そんなこと言うの…?」
「ゆ、雪村…」
「確かに私は皆にチヤホヤされるような人間じゃないかもしれないけど、皆は私を必要としてくれる、大切な友達なんだよ…!?」

それだけ言い残して、ダッと入口の方へ駆け出した雪村は、あっという間にあいつらの中に紛れ込んでしまった。
また静まりかえった図書室で、一人になった俺は、いつまでも雪村が駈けて行った方向をぼうっと見ている。
彼女の最後の言葉だけが、頭の中で渦巻いていた。

大切な友達?
果たして誰が?
悪いが俺には雪村の言葉が理解できない。

雪村は優しい。
その優しさ故に、誰かれ構わず受け入れてしまうのだ。
あいつらは、彼女にふさわしくない。
彼女と釣り合っていない。
彼女と一緒に居るべきじゃない。
あいつらは、彼女の大切な友達なんかじゃない。

雪村はきっと苦しんでいる、そうに違いない。
だから今のように、ため込んでいた感情を爆発させて、彼女らしくもなく俺にきつく当たったのだ。
じゃあ一体、誰が彼女を救ってやれる?
俺しか居ない。
本当の雪村を知っているのは俺だけだ。

すう、と言いしれぬ闇が俺の心に広がり始めた。


「おはよう、雪村」
「おはよう斎藤くん…」
「…どうかしたのか?」
「あ…うん…。実は…」

雪村は言いにくそうに、自分の足元を指さした。
そこにあるのは、ボロボロになった彼女の上履き。
ところどころハサミかカッター等で切られたような跡があり、黒色のマジックペンで、乱雑な筆跡で暴言が羅列されている。
とても履けるような状態ではなかった。

「これは…。誰が一体こんなことを」
「分からないの…昨日は何ともなかったんだけど、今朝登校したら…」

雪村が悲しそうに上履きを見つめる。
俺はそれを持ち上げ、クラスを見回した。
雪村の周りにいつも群がっている奴らは、まだ登校していないようだ。

「心当たりはないのか?」
「うん…、でももしかしたら、私が相手に嫌な思いをさせてしまったのかも…」
「だからと言ってこのような真似をしていいわけではない」
「斎藤君…」
「…友達に言いにくいのなら、俺に言え。相談ぐらいは乗る」
「あ、ありがとう…あんまり迷惑かけないようにするね」

それから暫くして、クラスの人数が集まりだした。
もう少しで朝礼の時間だ。

「千鶴おはよーっ!」
「あれ?どうしたの?体育館シューズなんか履いて」
「お、おはよう皆。実は上履き、濡らしちゃって…」
「あーそりゃ駄目だわ。何なら俺の上履き履く?」
「やめとけ千鶴。こいつの上履きマジくせーから」
「あ?なんだと?」

あははは、と朝から耳をつんざくような爆笑が巻き起こる。
その中で雪村は、小さく縮こまるようにしてボロボロになった例の物を隠していた。


キーンコーンカーンコーン…

今朝の上履きの事件は、一体誰によるものだったんだろう。
思い当たる節はないけど、斎藤君に言った通り私が気付いていないだけかもしれない。
でも、なんとかあれ以外に何事もなく一日が終わって良かったな…。
安堵のため息をついて掃除に向かっていると、後ろからやって来た友達に声をかけられた。

「千鶴!千鶴!」
「大変なの、聞いてよ…」
「どうしたの?」
「見てよコレ!」

二人から目の前に突き付けられたものは…、彼女たちのスクールバック?

「これがどうかしたの…?」
「ここに落書きされてるの!」

指をさされた箇所を見ると、確かにそこには白色のマジックペンで…
そこまで頭が働いてから、私は思わず漏らした。

「やだ…何これ…!」
「でしょ!?気持ち悪くない!?」

そこに書かれてあったのは、“ユキムラチヅルニチカヅクナ”というカタカナのメッセージ。
どうしてこんなことを友達の鞄に…!

「あーもう最悪。これじゃ買い直さなきゃなんないよ〜」
「!ご、ごめんね二人とも…!」
「なんで?千鶴がやったんじゃないでしょ?」
「そうだけど…それ、私が悪いみたいだし…」
「…もしかして何か心当たりでもあんの?」

その質問に対して首を横に振ると、だよねぇと二人は頷いた。

「とりあえず、犯人見つけたらタダじゃおかないし」
「ほんと。千鶴も気をつけなね」
「うん…ありがとう二人とも」

二人の背中を見送って、私は廊下に立ちつくす。
上履きの件と、何か関係があるのかな…。
それより一体誰がこんなことを。
ドクドクと鼓動が速まる。
少し、怖い。

「雪村、どうしたこんな所で」
「!斎藤くん!」

そんな時、丁度目の前からやってきた彼に私は無意識に駈け寄る。
斎藤君と居ると、なぜか安心できるんだ。

「あのね…、今朝の上履きのことと、何か関係があるのかは分からないんだけど…」

私は斎藤君にさっきの出来事を全て話した。
彼は真剣に聞いてくれて、声一つ出さなかった。

「私に恨みがあるのなら、私に何かすればいいのに…」
「…雪村…」
「私のせいで、友達まで巻き込みたくないよ…!」
「あまり一人で背負いこまない方が良い。俺に出来ることがあるなら、言ってくれ」

斎藤君の手が、慰めるように私の頭をなでる。
どうしてこんな私に優しくしてくれるの…?
一緒に居たら彼にも迷惑がかかるかもしれないのに。
不謹慎にも、ドキドキと高鳴る胸をそっと押さえこんだ。


次の日。
登校すると、私の体操服がなくなっていた。

「見てこのルージュ、可愛くない?」
「あー結局買ったんだぁ!新作のやつでしょ?」
「色が超綺麗なんだよねぇ、ブラッドレッドっていうの?とにかく赤色がさぁ〜」

友達と三人で中庭を歩いて移動している時も、昨日からの不可解な嫌がらせのことをぼうっと考えてしまう。
どうしよう、もしかしてこのまま嫌がらせを受け続けるの?
そんなの嫌だ…。
犯人は誰なんだろう。
同じ学年?
もしかして、クラスの中の子…?
やだ、クラスメイトを疑うなんて…。

「ちょっと千鶴、聞いてる?」
「あ、うん…。…ごめん二人とも、私ちょっと用事があるから先に行くね!」
「あっ…」
「行っちゃった…」

一人で悩んでても仕方ないよね。
斎藤君に相談しよう。
斎藤君、どこに居るかな。

「うわ…見ろよアレ。ひでぇな」
「本当だな…いじめか?」

廊下を歩いていると、すれ違った男の子たちが窓の外を見てそんなことを話していた。
なんだろうと思い私も視線を向けると、目に入った光景は。

「…うそ…」

誰かの体操服が、ぷかぷかと校舎裏の小さな池に浮かんでいるものだった。
急いでそこまで走り、浅い池の中に浮かぶそれを確認する。
…私のものだ。

「ひどい…」

思わず拾うことも諦めて、その場にしゃがみ込む。
体操服はやはり、ところどころ刃物で切り刻まれていた。

「ひどいよ…!」

悔しさと不安のあまり、ぼろぼろと涙が独りでに溢れてくる。
なんでこんなことをするの。
何かあるのなら、私に直接言いに来てよ。
本人の見えない所でこんなことをするなんて、ひどいよ。

ふと視線を感じて涙をぬぐいながら後ろを見ると、少し距離の離れた所に、いつも私と一緒に居る友達の男子たちが居た。
私と目が合うや否や、彼らはそそくさと校舎へ入っていく。
そこで初めて、考えたくもない、嫌な可能性を見つけてしまった。

私に恨みがあってこんなことをするのなら、少なくとも私と関わったことのある人間だ。
でも私は部活に入っていなければ、委員会にも入っていない。
つまり、クラスの中だけなのだ。
そんな中で特に私に恨みがあるとすれば…普段から一緒に行動している、友達…?
ううん…そんなことあるはずない。
だってあんなに仲が良かったのに。
喧嘩だってしたことないし、いつも皆は私を頼りにしてくれていて…。

…本当に?

本当に皆は私のことを頼りにしてくれていたの…?
絶対にそれは、私の勘違いではない…?

「………」

目の前のボロボロになった体操服を見つめる。
冷たい汗が、額を伝った。



見ろよ…
お前の教科書もかよ…!実は俺のやつも…
マジ!?私も…
あぁ。“ユキムラチヅルニチカヅクナ”…だろ?
何なのこれ…本当に気持ち悪いよね…
そう言えばリカとまゆなんか、昨日中庭歩いてたら上から植木鉢降って来たらしいよ
信じらんない…
犯人やばくね?
千鶴は今日は欠席だし…
あいつの体操服、池に捨てられてたんだろ?
可哀そう…。誰かメール送ってあげなよ
お前が送れよ
やだよ。だってまた嫌がらせ受けるかもしれないじゃん
本当にね。これ以上千鶴と一緒に居たら、次に何されるか分からないよね
てかさ…これって千鶴に原因があるんじゃね…?
まあな。俺ら何もしてねーし
でも千鶴だってしてないじゃん
そうは言っても、犯人の怒りの矛先は千鶴なんだろ?
確かに。もうあんまり千鶴と関わらない方が良いかも
だよな…





昨日は学校、どうしても行きたくなくて休んじゃった…。
皆に何か起きてなければいいんだけど。
…でも、くよくよしてても何も進まないよね。
皆の為にも、早くこの問題を解決しなくちゃ。

教室に入ると、一挙に注目を浴びた気がした。
何だろう…何か、居心地が悪い。
昨日ずる休みしたせいかな。
ふと教卓の辺りで楽しそうに話をする皆を見つけて、声をかけに行く。
良かった、皆元気そうだ。

「おはよう、皆。昨日は何も…」
「!」

だけど、私が話しかけた瞬間に皆はあからさまに円を崩して散っていった。
何…?
どういうこと…?
まさか、と思いながら一番近くにいたリカに声をかけてみる。

「ねぇ、リカ、今日の一時間目さ…」
「……」
「リカ…?」

こっちを向いてくれない。
リカは頬づえをついて、雑誌をめくり始めた。
なんで?どうなってるの?

「ねぇ…、もしかして昨日何か」
「話しかけないでよ!」

バン!
リカが手のひらを机に打ちつけた音に吃驚して何も言えないでいると、彼女はおびえた表情で私を見た。

「千鶴のせいで、私達危うく死にかけたんだよ!?」
「どういう…こと?」
「一昨日、まゆと三人で中庭を歩いてたでしょ。千鶴が用事とか言ってどこか行った後に、私とまゆの間に上から植木鉢が落ちてきたのよ」
「嘘…っ!?」
「嘘じゃない!ていうかさぁ、千鶴怪しくない?なんで千鶴が居なくなった後に落ちてくるわけ?」
「し、知らないよ!」
「あんたが仕組んでんじゃないの?」
「違う!私は何もしてない!」

しん、と教室が静まりかえった。
クラスメイトの全視線が私に降り注ぐ。
それはいつものような、信頼の視線ではなかった。

「違うよ、私じゃない…!私は何もしてないよ…!」

誰か、信じて…!
祈るように心の中で叫んでいると、皆の中からたった一人、口を開いた人が居た。

「俺は雪村を信じる」

皆の視線が一斉に向けられる。
斎藤君だ…。

「その植木鉢が落ちたのは昼休みだろう。その時、雪村は池で体操服を拾っていた。雪村は植木鉢を落とせるような場所には居なかった」
「斎藤…」
「それに俺には、むしろお前達の方が怪しく見えるが」

じろりとした目つきで何人かを見回した斎藤君に、非難の声が飛び交う。

「なんだと斎藤!俺たちは何もしてねーよ!」
「そうよ、なんで私達が千鶴に何かするのよ!」
「むしろお前がやってるんじゃねーの?」
「大人しそうな顔して、こいつに気があるんだろ!千鶴の気が引きたくて、こんなことしてるんじゃ…」
「皆やめてっ!!」

思いのほか、お腹の底から大きな声が出た。
教室が、水を打ったように静まり返る。
斎藤君は私のことを何度も気にしてくれた優しい人なのに、私のせいでそんなことを彼に言われたくない。

「斎藤君のことをそんな風に言わないで…!」
「雪村…良い、言いたい奴には言わせておけ」
「でも…!」
「…そんなことより、俺達が今教室に居たら雰囲気が悪くなるばかりだ。ここは一旦出た方が良い」
「……」

斎藤君に言われるがまま、白けきってしまった教室を後にする。
廊下に居たら先生に見つかってしまうから、と私達は校舎の外へ移動した。
前を行く斎藤君に、こんな形でまきこんでしまってどうやって謝れば良いのかを模索していると、いつの間にかどの教室の窓からも見えない、校舎裏の死角に辿りついていた。
そんな斎藤君の気遣いに、私は心をギュッと締め付けられる。

「本当にごめんなさい…!斎藤君まで、あんな風に言われて」
「いや。気にしてなどいないから大丈夫だ」
「そっか、斎藤君は強いね…。私なんか、全然…」
「…雪村、先日お前の体操服をハサミで切り刻んでいる男子を見たという噂がある」
「え…」
「遠目でしか見えなかったから確認は出来ていないらしいが、恐らくそいつらは…」
「…やっぱり、皆なのかな」

私は膝を抱えて座り込み、地面を見つめた。

「こんなこと考えちゃダメって分かってるのに、最近友達を疑ってしまうの…。疑心暗鬼になってるのかな…」
「いや、お前は間違ってなどいない。植木鉢の件だって、恐らくあいつらの自演だろう…」

そこまで言って言葉を飲み込んだ斎藤くんも、私の隣に座り込んだ。

「雪村。あいつらは本当に、雪村にとって“大切な友達”なのか?」
「……」
「こんな時、本当に大切な仲間なら、すぐに追ってくるはずだ」
「…うん」

でも、そんな風に考えると私には友達なんて一人も居なくなってしまう。
あんなに賑やかだったのが、嘘みたい、夢みたい。
いつの日か斎藤君に言われたとおり、私は皆に無理をして合わせていたのかもしれない。
でも、そうでもしなきゃせっかく私のもとに集まってくれた皆に嫌われそうで、もし皆に嫌われたら、私には友達なんて一人もいなくて、どうすることも出来なかった。
別に私は人気者なんかじゃない。
一人が怖いだけの、ただの弱虫なんだ。

「私、これからどうなるんだろう…」

もし、皆の中に犯人が居るのなら…一人ぼっちで苛められ続けるのかな。
奥歯を噛みしめて涙を堪えていると、斎藤くんが言った。

「俺で良ければ雪村と一緒に居る」

その深い青色の瞳に、私が映りこむ。

「…斎藤、くん…でも、そんなことしたら斎藤くんまで…」
「俺は何をされても大丈夫だ」
「…でも…」
「でも、じゃない。俺が雪村を守りたいんだ。…嫌なら、良いが」
「い、嫌なわけないよ…!」
「…」
「私は、斎藤君が居なかったら…きっともうダメになってた」
「雪村…」
「斎藤君だけが、私の支えだよ…一緒に居てくれて、ありがとう」

きっと今の私は顔が真っ赤だ。
我ながら大胆なことを言ったと思う。
でも、これぐらいは伝えておきたかった。
周りからどんどん人が居なくなっていく怖さの中で、たった一人私のそばに居てくれる斎藤君の存在に私は救われている。

「…さっき、俺が教室で男子に言われた言葉は、」
「え?」

いきなり話題が変わったのかと、斎藤君の方を見ると。
彼は見たこともない照れた顔で、少し口角を上げてから言った。

「まんざらでも、なかった」
「…え……どういう…?」
「…」
「……っ!!あ、えっと、」

意味が分かると途端にあたふたしてしまい、けれど同時に凄く喜んでる自分も居て。
なんだかさっきまでの暗い出来事が信じられないくらい、今は幸せな気分だ。

「今のは…気にしないでくれ」
「…ううん、私も、ね…斎藤君のこと、好きだったよ…!」
「…本当に、か?」
「本当…です…」

今言わないでいつ言うの、と自分を奮い立たせて、真っ赤なまま勢いでそんなことを口走ると、あろうことか斎藤君に正面からぎゅっと抱きしめられた。

「あわ…あああ…あの…?」
「雪村は俺が守る」
「…!」

あたたかな斎藤君の肩口に顔を埋めていると、斎藤君の匂いがする。
凄く嬉しくて、安心して、教室からずっと我慢していた涙がつい零れおちた。
私が泣いているのに気付いたのか、斎藤君はゆっくり背中をさすってくれる。
そんな優しさに、また涙が溢れ出た。

斎藤君が居て良かった。
私は斎藤くんを、いつの間にかこんなにも好きになっていた。
今までの日々よりも、斎藤君を私は選びたい。
もう、友達なんていいや。
斎藤君、斎藤君、斎藤君…――。





雪村千鶴を観察し始めて分かったことがある。
俺はいつの間にか、彼女に惹かれていた。
彼女の健気なその心を、自分だけのものにしたいと思った。
なのに、それをするには邪魔なクラスメイトが数人。
しかも彼らは、雪村千鶴を本当に理解していない奴らばかり。
どうして俺よりもあんな奴らの方が彼女の近くに居るんだ。
納得がいかなかったが、雪村が彼らから離れるはずも、彼らが雪村から離れるはずもなかった。
雪村には、俺だけを見てほしいのに。

誰も居なくなった西日が射しこむ教室で、彼女が席に座って泣いていた。

「どうした、雪村。まさか、また何か」
「斎藤…くん…っ」

ぽたぽたと透明な雫が落ちた机は、血のような赤色の文字で埋め尽くされていた。
“死ね”やら“消えろ”やら、どれも酷いものばかりだ。

「この赤色は…ルージュか?」
「ルー…ジュ…?」
「どうした?心当たりでもあるのか?」
「……っ」

雪村がこくんと頷くと、さらに数滴の雫が机に落ちて、赤色と融け合って滲んだ。
まるで本物の血のようだ。

「友達が…ね…っ」
「あぁ」
「この色と、似てるルージュを…っ、持ってて…っ」
「残念だな…これで決まりか」

さらに堰を切ったように次から次へと止め処なく流れる涙を、俺は静かに見つめていた。

「…どうして…っ?怖いよ…!」
「大丈夫だ、千鶴」

震える雪村を後ろから抱き締めると、彼女は自らくるりとこちらに向いて、抱きついてきた。
背中にまわされた両手に力がこもるのを感じる。
相当、参っているようだ。

「絶対に、俺がお前の傍に居る」

さて、この言葉は如何程のものとなって彼女の心に響くのだろうか。
ここまで来るのは、存外早かった。
また、たやすかった。
自分に被害が及ぶことを恐れて、あっさりと手のひらを返してしまった彼らには正直呆れてしまった。
あれほど千鶴千鶴と煩いのだから、もっと手こずるかとも思ったのだが…。
しかし、今となってはそんなことはどうでもいい。
人気者だった彼女は、ついに一人ぼっちになってしまった。
だから、涙に濡れる顔でさえも愛しく可愛らしい雪村は、もう俺だけのものだ。
きっと雪村は、俺だけしか見えていないだろう。
全てが俺の思惑通りで、思わず口角が上がってしまうくらいだ。

雪村の体温を感じながら、俺はそっとルージュをポケットにしまった。


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