ほんの一匙程度の罪悪感を胸にくすぶらせながら、今、私はバスに揺られている。
私の他には足腰に自信のなさそうなおばあちゃんがひとり。隣には座った瞬間「着いたら起こしてねぇ」と言って早々眠ってしまった先輩がいる。
バスが車道を駆ける音に混じって微かに聞こえる寝息に呆れ半分、嬉しさ半分。柔らかく閉ざされた瞼を見つめ、何か可笑しな夢を見ていそうだと私はひとり笑った。


本来ならば私も先輩もこんなところにいるはずじゃなかった。
もはや惰性でしかない通学、授業、さして仲が良いわけでもない友人との会話に勤しんでいるはずだった。はずだったのに。
2時間めの移動教室に向けて机をあさっていた時だった。先輩がひょっこりあらわれた。
おいでおいでと手招きされて、先輩の磁力に引き寄せられる。そして、いつだって気まぐれに物を言う唇で耳打ちされた言葉を犬のように従ってしまった。
踵の踏みつぶされた上履きを彼女独特のリズムでパタパタ言わせながら先を行く背中を私は追いかけていた。





『次はー美術館前ェー…』

あの車掌さん特有の妙に間延びした、どこか女性的でもあるアナウンスが響いて停車ボタンを押した。
先輩を揺り動かすと彼女は少し煩わしそうに呻いた。眉間によった皺はすぐに消えたけれど、意識の定まっていない両目は私を確かに見ているのだろうか。

「…着いた?」
「はい。もう着きます」
「んー…ありがと」

先輩が大きな欠伸をひとつしている間にバスは停車した。
頭をがりがり掻いて、まだ足元の覚束ない様子の先輩の背中を押しながらバスを降りる。降りる間際に見たおばあちゃんは、ひたすら前だけを見据えてぽつねんと座っていた。寂しげに見えたのは私の思いこみだろう。


人も車も疎らな土地に降り立って、先輩が欠伸なのか唸り声なのか、どっちつかずな音を発した。

「いいとこだねぇ」

そろそろ夏服も寒々しく見えてきた夏と秋の合間の陽気。
海を臨んだ美術館を前に潮風を受ける先輩のスカートがはためいている。
立ち枯れた花から花へと二匹の蝶がしおらしく舞っていた。






今思えば、私も先輩と同じで確たる理由もなしに文芸部に入部していた。
似たりよったりな現実味のないファンタジーを書き合っては、お互いを褒めちぎるだけの部員たちの環の中に私は入りたくはなかったけれど、感想を求められれば『面白かった』と空っぽな返事を繰り返していた。
"気まぐれ"に"何となく"顔を覗かせに来るだけの先輩はと言えば、その日私と同じように感想を請われると
『つまらないねぇ』
とあっけらかんとして笑っていた。
その言葉に泣き出した部員とその同類項たちから責め立てられて、先輩は罵詈雑言のあめあられ。
私は、平然とした顔で部室を出て行った先輩の後を追いたくてたまらなかった。

後日、下駄箱の前で出会った先輩はどうしてだろう、私をお笑いのライブに誘った。
無名のコンビ、テンションが高いだけのやりとり。押し寄せる笑い声の中で、私と先輩だけが無反応にステージを見つめ続けていた。

『おもしろかった?』
『…おもしろく、なかったです…』
『うん。私もそう思った』

『失敗したね こりゃ』と、からから笑うその声が、夜の街に響いていることが私には楽しかった。







見事なまでに人のいない館内を私たちの靴音だけがこだましている。
ずらりと並ぶ絵を近づいて離れて、ひとつひとつ見つめる先輩の横顔を好きなだけ盗み見る。
作家の意図や生涯よりも知りたいものがある。
先輩の思想や日常に私はいつだって触れていたい。
この人独自の悪意のない移り気に喜んで翻弄されていたい。

ただ黙って自由な先輩の後ろにいることが多いここ数ヶ月。
飄々と掴みがたい先輩が曖昧に何かしらを思って感じて考えて呼吸をしている、それが愛おしかった。

「おもしろかった?硝子」
「まぁまぁ、でした……何、泣いてるんですか…先輩」
「ただのあくび」
「……絵に感化されたのかと思いましたよ」
「んー?それはないなぁ」





目の前に海があるのならば行くのが道理だと言って波打ち際まで連れてこられた。おなか空いたなぁと腹をさすりながら先輩はクラゲのようにゆらゆらと歩く。砂を踏む素足が少し寒そうで、波がその白い足をかすめてゆくたびに、いっそう寒々しく思えた。
花火の残骸を一本ずつ拾い集めては

「夏の死骸 夏の死骸」

と歌うように呟く先輩の一歩後ろで私は遠くの海のきらめきを見ていた。

「次は羊の群れが見たい」

夏の死骸を両手にいくつも持った先輩がそのまま、うす汚い、くすんだ白色の毛玉の中に立ちんぼうしている様を思い浮かべる。そのすぐ傍には、当然と言わんばかりに私がいた。

「…ニュージーランドにでも行く気です、か」
「お。飛躍するねぇ硝子」
「先輩ならありえるかと、思いました」
「そうかなぁ」
「…先輩がおいでって言うなら…ついて行きます」

投げ捨てられた夏の死骸は音もなく砂上に伏せっている。

「おいで」

伸ばされた手をとった。

青枯れの花々の合間を舞う二匹の蝶は、これからこの海の向こうの羊だらけの国へ飛んでゆくらしかった。



100920

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