「お姉ちゃん!」
そう言って、駆けてくる美形の黒髪男の子。私はそれを受け止めるために手を広げて屈んだ。
「クロロ、久しぶり〜!」
ぽすりと可愛らしく収まるので、私は思いっきり抱きしめてあげた。
「今日はなにをしよっか」
ニコニコと屈託のない笑顔を向けるクロロに私も微笑ましくなった。私の質問に対して真面目に考えてくれるらしい彼は、少し眉間に皺を寄せて考えたあと、お姉ちゃんと一緒ならなんでも楽しい!そうきっぱり言った。「私も楽しいよ」なんて返せば、クロロはより一層笑みを深めてくれる。
「それじゃあ、することないねえ。本読んでからお昼寝しよっか?」
クロロはこれが一番好きだった。
「懐かしいなぁ」
私はいま、昔読みきかせてた本を適当に読み流していた。たまたま掃除をしていたら見つけたのだ。こんなのもまだ律儀に持っていたのか。一通り愛でたら捨てるという、なかなかいい性格の持ち主のことを考えると全くといっていいほど信じられなかった。
こんなのあったなぁ、ここでクロロが涙目になってたな、思い出すのはやはり懐かしい彼の姿で。本に夢中になっていると、自室の部屋ががチャリと開いた。
「姉さん」
自分を呼ぶ声にぱっと顔を上げる。
聞こえたものはつい先程から懐かしんでいた男のもので、思わず緩みきった顔で返事をしてしまう。クロロの上品に笑う姿には、昔の無邪気な様子は残ってなくて少し残念に思った。
「何か楽しいことでもあったの?」
「少しね、昔のことを思い出してて」
「なるほど。また懐かしいものを読んでたんだね」
断りもなくズカズカと部屋に入り、当然のように私の横に腰掛けようとする。勝手なんだから、そう思いながら私は少しスペースを作ってあげた。
「偶然見つけたものでして。前みたいに読んであげようか?」
隣に座る彼に昔の勢いでからかった。「そんな年じゃないよ」そういう否定の言葉を期待して。だけれど、私の予想は裏切られ、「そうだね、お願いするよ」なんて、昔のあどけなさを残した無邪気な笑顔で言い始めるのだった。
しかしクロロの目はしっかりと私の目を捉え、まるで逃がさないと言ってるようだった。口元にだけ弧をかいた笑顔なんて浮かべているものだから、全く昔と同じ、なんて言えなくて、なんとなく複雑な心持ちになった。
この優男は何を考えているのだろうか。
こめかみに汗が伝うような気がした。
「甘えん坊さんね」
それでも私は昔の面影を忘れたくなかった。まだ戻れる。そんな気がしたから。
私はクロロから視線を外し、手に持っていた童話の一ページ目を開く。
すぅと一度深呼吸をしてから、私は文字を追った。
今はもうずいぶん昔、金持ちの男がいました。その妻は美しく、信仰深い人で二人は心から愛し合っていました−−。
昔のようにゆっくりと読み進めていく。
周りの音は全く聴こえてこない。まるで私たち以外の時が止まったかのように思えるほどの静けさだった。静かすぎて不気味。そう思いながら私は続けた。
その夫婦の間に美しい息子が産まれたが、妻は息子を生むと同時に亡くなってしまった。深く悲しんだ父親は妻の遺言のとおり、遺体をネズの木に埋めると、心が少し軽くなったのか再婚をした。
その再婚相手との間に娘が生まれ、しばらく幸せに暮らしていくのだが、新しい妻は仲のいい兄妹が許せなくなってしまい、腹違いの兄を殺してしまう。
そして、兄が死んだという事実を知らされた妹は食事を取ることが出来ず、お皿に溜まるほどの涙を流したのだった。母親は証拠を隠すために兄をスープにしてしまったのだ。母親に兄は親戚のところに出かけて行ったとしらされた父親は本当のことも知らずに、おいしい、おいしいとスープを平らげてしまった。
悲しんだ妹は兄の骨を集め、昔の父親と同じように兄の骨をネズの木に埋めてあげると、
ネズの木からそれはそれは美しい鳥が飛び出して来るではないか。妹は驚いたが、何故かわからないがその鳥を兄のように感じていた。
鳥はネズの木を離れると、町を訪れ、人を魅了する歌を歌い、鎖、靴、石臼をそれぞれ集めて、家族の元へ戻ってきた。
鳥はその歌を家族のいる屋根の上で歌い、家族を外に呼び出した。父親には鎖を、妹に靴を落としていくのだ。母親は気味が悪いと外に出なかったが、気分をよくした二人を見て私も楽になりたいと、遂に母親も飛び出した。
鳥は最後に持っていた石臼を落とすので、母親は潰れて死亡してしまった。が、母親から出てくる煙に鳥が入ると、その煙は兄に変わっていた。
なにか落ちる音を聞きつけた親子は玄関を開けて、二人は兄を見つけると心から喜んだ。
おかえりお兄ちゃん。ママはどちらに向かったの?
美味しいスープを作りに行くって出かけたよ。
お月様が来る前に帰ってくるかなあ。
分からない。それじゃあ待ってる間にママと同じスープ作ろうか。
こんな話だ。
読み終えてからパタンと本を閉じる。
「はいおしまい」
お姉ちゃんはこんなひどいことしないでね、泣きながらしがみついてきた昔のクロロを思い出す。
さすがにもう、怖くないか。ちらりと盗みみるとクロロはこちらを見つめていた。
「姉さん」
「んー?」
「なんていう童話だっけ」
「ネズの木」
そういえばそうだった、と言ったクロロ。
「ねえ、姉さんこっち向いて」
なにー?そう言おうと思って顔を向ければ、いかにも楽しいですと言ったクロロの顔が目前に。反応する間もなく自身のカサついた唇に彼の柔らかいものが重なった。
いつかはこうなるのではないか、そんな予感はあった。しかし、今か。童話のあとか。突然の出来事に冷静でいられる訳もなく、クロロから離れようとするがそんな私に気づいたのか、クロロの腕が既に腰に回っていて逃げ出せなかった。
「クロロ」
「姉さん、お願い」
小さい子供が強請るように言う。
なにか、そんなに怖かったのだろうか。それなら慰めてあげなければ。
クロロは何度も何度も角度を変えて、触れるだけのキスをした。いつの間にか唾液が混ざりカサついていたはずの唇は湿っていた。
ダメだよ、そう伝えたくてクロロの胸を叩くがクロロは止めない。私達、姉弟だよ。心の中で私は必死に訴えた。クロロは一度口を離すと肩を掴んだ。
「オレも姉さんを食べたい。やっぱりオレじゃだめ? 姉さんとオレ、血の繋がりはないと思うんだけど無理?」
目にほんのり涙を浮かべて、見つめてきた。思わず息を呑む。私は何も言えななかった。
「オレは昔も今も、これからもずっと姉さんがいいんだけどな」
「バカ言わないでよ」
全て計算しているぞといった顔をした男に、せめてもの抵抗で言ったが、伏し目がちに紡がれた「姉さんじゃなきゃダメだ」。縋るような声にやられた。これは演技だ。わかってるんだから絆されるな。あーー、でもクロロを悲しませたくない。たった一人の大事な弟。
あの物語みたいには悲しませたくない。一度でも辛い思いをさせたくない。もういいかな。なんだって。
「はぁ、本当にクロロの言葉って甘ったるいよね」
ため息混じりに伝えれば、クロロはぱっと顔を上げた。私も受け入れるよという意味で彼の背に腕を回し、昔のように閉じ込めるように抱き寄せて、ゆっくり伝える。
「ダメじゃないよ」
ああ、言ってしまった。今まで築き上げた、綺麗ななにかが崩れた気がした。腕の中に収まるクロロはありがとう、そう言って口元を歪めた。
そして暗転。
押し倒されたらしい私の目に映るのは。
独占、思慕、まとまってないぐちゃぐちゃの感情。あの目に全て吸い込まれている中、一際目立つあの光は。
ああ、理解した。
「そんな獲物をみるような目で見なくても」
苦笑混じりに告げる。クロロは目を据えたまま、また口元を歪めた。
「そうじゃないよ。目を離すといつの間にか消えそうだから怖いんだ」
穏やかに言う声とは裏腹に、唇に噛み付くようなこれが証拠だ。全然穏やかじゃないくせに。
「そんなこと言うけどね、どこにも行けやしないよ」
じゃらりと音を鳴らしていた足枷が静かになると抵抗する気はもう無いと主張した。
私は目を瞑ってクロロに全てを任せる。一度許したらダメなんだ。もう戻れない。姉弟ってなんだ。知らない、知りたくもない。
「いただきます」
「召し上がれ」
でも一つだけ言えること。もう離れる気はお互いに無いってことだけだ。私達姉弟だからね。
首筋に感じたちくりとした痛みはクロロから溢れ出た独占欲だった。