幸福分の一


「ダニエルさん」
「……なんだ?」

 ソファに寝転がり、薄っぺらい毛布をかけている男の名前を呼んだ。ダニエルは今まで寝ていたらしい。返ってきた声には煩わしさが孕んでいる。それでも重たそうに体を起こしてベルタの話を聞こうとするのだから、この男の気力は流石としかいいようがない。
 ただ、隈のできた目を擦る姿は明らかに疲労が溜まっているように思えて、ベルタは申し訳なくなった。横になってほしいと告げるのだが、「大丈夫だ」と跳ね除けられてベルタもそれ以上言えなくなる。そして、そんなふうにベルタを気遣うさまを見せられては、先ほどケーニさんに言われた言葉をそのままダニエルに伝えることなんてベルタにはできなかった。ベルタのためにしてくれたことが他人の迷惑になっている、それをオブラートにも包まず本人に向かって言えるだろうか。少なくともベルタには酷なことだった。憚られても仕方がない。
 ベルタが変に遠慮して言葉に詰まっていると、ダニエルはひとつ、大きく口を開けて欠伸をした。彼は面倒くさそうに伸びをすると完全に目を覚ましたようで薄くなっていた目を見開き、廊下から動かないベルタを真っ直ぐに見つめる。

「だからなんなんだよ。関係あるから呼んだんだろ。言いてぇことがあんならさっさと言え。ここはお前の家だ」

 捲し立てるような言葉に怯んでしまうが、この言葉さえもベルタには思い遣りの言葉として受け取れてしまうので、盲目になっているのは間違いない。ダニエルは不可解そうな顔を隠そうともせずにベルタの言葉を待っており、本人が言うのであれば、とベルタも口を開いた。

「タバコ、ベランダで吸わないで欲しいんです」
「あん?」

 閉められたカーテンの隙間からみかん色の光が覗き、彼の顔にも照らされた。ダニエルの眉間にシワが寄ったのはベルタが発した急な発言だけではないだろう。仕事を終えたサラリーマンのように太陽が影を隠すので辺りはだんだんと暗い色に包まれる。ベルタは良くない予感がした。

「あ、あの、ダニエルさんが悪いとかじゃないんです!下の人が何か言ってるみたいで、それで……」
「つまり吸わなきゃいいんだろ」

 あれだけ戸惑っていたのにも関わらず、結局包み隠さずに言ってしまったので後悔することになったのだが、ダニエルがベルタの声を遮ると、ソファから降りてキッチンの方へ向かった。タンクトップのまま寝ていたようで、彼の逞しい身体がベルタの前を通り過ぎる。ベルタは見ちゃいけないものを見たような罪悪感にかられ、思わず顔を逸らした。そして直ぐに、くっついたゴムを無理やり剥がすような重い閉会音が聞こえてきたので冷蔵庫に用があったのだろう。アルミ同士がぶつかる軽い音がした。缶が取り出されると、プシュッと空気の抜ける音が室内に響く。その場でゴクゴクと飲み干された缶は空っぽになるとそのままゴミ箱に投げ入れられた。ベルタもダニエルの背中越しにその光景を見て「違うんです」と言葉を投げた。

「私、ダニエルさんには不自由なく過ごしてもらいたいんです」
「何言ってんのお前」
「や、えっとですね」

 勇気を振り絞った言葉は一蹴されて撃沈。ベルタはわかりやすく肩を落とす。本題はこれじゃないんだと、実はずっと手に持っていた紙袋を揺らす。ダニエルはその場でベルタの落ち込むさまを見て、ため息をついた。

「とりあえず悪かった。二度とここでタバコを吸わないし、迷惑もかけない。元々そういう約束だったしな」
「あの、違うんです!聞いてください!あ、あとこれ!」

 ベルタの真横を通り過ぎようとするダニエルのタンクトップをベルタは声をあげて引っ張った。動きを遮られたダニエルは、がくんと体のバランスを崩しそうになったが倒れないように足に力を込める。何をするんだと、ばっとベルタの方に振り向くと目の前には紙袋が突き出されている。え、とベルタの顔を窺えば、自分を睨みあげる小さな顔が思いの外すぐそこにあってダニエルは戸惑いを隠せずにいた。普段見せないベルタの表情にどくりと奥底から突き上げるような感情が沸き起こる。

「な、んだこれ」
「灰皿ですよ。あげます」

 ぐいっとさらに突き出された紙袋を受け取って、ダニエルは中身を盗み見た。丁寧に包装がなされていて、安くはなさそうなそれ。どこで買ったんだとダニエルは尋ねる。

「近くに雑貨屋さんがあったので、さっき行ってきました」
「ほー」
「さっきから私の話を遮ってたせいで言えなかったんですが、私は別に、タバコ吸って欲しくないわけじゃないんです」
「へぇ」
「というか、ダニエルさんだったらいいっていうか。とにかく、ベランダがダメなら部屋でいいじゃんって」
「でもお前、まえにタバコの臭いがどうのって言ってただろ」
「あれはちょっと慣れてなかっただけで今はもうなんともないんです!」
「余計なお世話ってことか?そーかよ」

 ベルタはそんなことないですと慌てふためくので、ダニエルはふっと笑いを漏らした。タンクトップを握っていたベルタの手がいつの間にか離されているのに気がついて、ダニエルはそのまま少し距離をとる。

「ありがとう」

 あまりにもダニエルのことばかり考えるベルタに何を思ったのか、男は目の前にある小さな頭をくしゃりと撫でた。予想外の出来事にベルタの顔はゆでダコみたいに真っ赤になっていた。




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -