思草に揺さぶられ


「あ、ベルタちゃん」

 エントランスを通り、階段を登ろうとしていた時。マンションの大家さんに声をかけられた。

「ケーニさん」

 ケーニ、というのは大家さんの名前だ。彼女はおおらかで、ここの住人を母親のように見守っている。すれ違う度に挨拶は交わすけれど、こうやって声をかけられることは滅多にないので、なにかしてしまったのではないかという不安に駆られる。
 ベルタが彼女の名前を呼ぶと、ケーニさんは顎に手を当てて、困ったように首を傾けた。いつもの間延びした声で、「呼び止めてごめんねぇ」と話し始める。そこまで深刻な話でもないかもしれないと予想して、一応、ベルタも神妙な表情で話を聞いた。

「ベルタちゃん、下の階の人わかるかな?この前、文句言われちゃって」

 下の階の人、と言われてピンとくるのはクレメルさんという男性だった。ベルタの部屋の真下だったはずだ。確信を持てなかったが名前を告げる。

「クレメルさんから?」
「ええ、そうなのよ」

 合っているみたいだが、彼と私になんの関係があるのだろうか。んー、と首を傾げて考える。
 今までのことを振り返ってみたが、クレメルさんと関わる機会が無いベルタにとって思い当たる節が全くない。大家さんの愚痴か何かかと苦情の内容を尋ねれば、ここで話すものでもないからと、管理室へ行くことになった。移動しなきゃ行けないくらいおおごとなのかと怖くなる。

「クレメルさん、なんて言ってたんですか?」

 小さなテーブルを囲うように置かれたソファに腰掛ける。早く解放されたい気持ちが表れているのか、お茶を入れているケー二さんの背中を目が勝手に追いかけていた。

「わたしはそんなことないって伝えたんだけどねぇ。あの人、ベルタちゃんがタバコ吸ってるんじゃないかってうるさいのよ。臭いし、ベランダに灰が落ちてきて迷惑なんだって」

 ケーニさんの話にベルタは内心どきりとした。心当たりがあるからだ。最近、我が家に住み込みを始めた男の存在を思い出す。リンゴを食べて、ドラマを見た日。つい二週間前の話。


「一緒にいる仲間とはぐれた。しばらくここを拠点にする」

 ダニエルはその日、当たり前のようにそう言った。「え?」と間の抜けた声を出すベルタに気に留める訳でもなく、ポケットから箱を取り出すとシガレットを一本咥えた。

「おめーになんかするわけじゃねぇしいいだろ」

 ソファに腰をかけ、点火しようとライターを構えたところで動きを止める。

「オレもいつ戻るか知んねぇけど」

 ライターは火が灯ることもなくポケットに仕舞われた。軽い舌打ちが聞こえてくると口に咥えていたタバコはテーブルに向かって弧を描く。

「まあ迷惑はかけないからよ」

 何を考えているのかわからない表情がベルタを見るので、ベルタもなんて言っていいのかわからず、ダニエルをじっと見つめた。ぱっと頭に過ったのは"迷子"というワードで、顔が若干引きつった。
 言われた言葉を理解しようと頭の中で噛み砕く。はぐれた、拠点、戻る、迷惑。でも、やっぱりよくわからなくて困惑する。なんで?いいの?
 ベルタのこめかみに汗が伝う。
 ダニエルもベルタのちょっとした表情の変化に気づいたようで、食い気味に彼の体が横を向く。

「おい、黙ってんじゃねぇ。なんか言えや」

 あらぬ疑いをかけるなと表情で訴えているのがよくわかる。ベルタは引きつったまんま、笑みを浮かべた。
 別に恥ずかしいことではないとベルタは思う。それはまあ、いい歳した大人が一緒に働いている人とはぐれるなんてそんなホイホイ起こることではないけれど、ベルタにとってダニエルはダニエルなのだ。例え、彼がどんな男であろうと恩人であることは変わらない。ヤンキーだろうが、迷子だろうが、それこそどんな悪人だろうが。それに、大人ならなんとかなる。ベルタは助けてもらったお返しをしたいだけだ。
 つまり、答えはもうとっくに決まっていた。断るなんて選択肢はない。理解出来ていなかったのは、そんな恩人が自分の家に住み込むという事実。信じられなかった。
 伝えようとして唇が震える。口を開けば音にならない空気が零れた。大したことない一言だけど、ベルタにとっては大事なことで。

「あなたがよければ、どうぞ、おすきに」

 嬉しいのと緊張と。よくわからない感情で表情が歪む。ゆっくりと言葉になったものは案の定震えていてベルタは恥ずかしくなった。ダニエルは「そうかよ」とぶっきらぼうに、顔をテレビに向けた。

 そんな出来事を思い出していると、いつの間に置かれたお茶がゆらゆらと控えめな湯気を立てていた。
 ベルタへの配慮で、下の人から苦情が来るとは。気がついたらお茶を見つめていた。

「なにかあったらおばさんに言ってね」

 目の前にあったケーニさんの優しい顔にびっくりする。もしかして、結構な時間ここにいたのかもしれない。ベルタは「ありがとうございます」と告げて家に戻ることにした。
 床に置いたカバンを肩にさげる。ベルタがソファを立つとケーニさんも同じように立ち上がり、片手を振って見送ってくれた。管理室のドアを開けて一礼する。タバコ、どうしようか。ベルタは悩んだ。




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