あふれあり触れて有り余る
ダニエル、そう名乗った男と会ってから一週間過ぎた。男がベルタの家に来る様子は一向に見られなかったが、その間にベルタの熱が冷めることもなかった。
今日もまた、億劫な一日が始まる。ため息をついた。廊下側から二番目、黒板から見て四番目。そんな微妙な位置にある自分の席へと腰掛けた。
教科書の入ったカバンを机の上に置いて周りを見渡す。まだ来ていない生徒もたくさんいるようで、ぽつぽつと空席が残っていた。
「おはよう、ベルタ」
「おはよう」
ベルタより少し遅れて隣の席に座ったのは、以前カラオケに行った友人だ。チャイムが鳴るまであと十分。二人はにこりと笑みを浮かべ、昨日は何があった、テレビの内容がどうだったと、話すことで時間を潰した。
ある程度話すとお互い満足して少しばかり沈黙が生まれる。すぐにチャイムが鳴るからと、ベルタは筆記用具を取り出して、机脇のホックにカバンを掛けた。
そのままぼんやりしていれば、「ねぇ」と呼ばれて振り向いた。
「……最近帰り早いけどなにかあった?」
今まさに気にしていることを指摘されて驚いた。思わず口を塞ぐ。
ベルタはもしかしたらという期待を胸に抱いて早く家に戻りたがった。授業が終われば友達の誘いを断って、来るはずもないダニエルの姿を探した。
今でも鮮明に思い出せる男の顔。色白で彫りが深く、つり目がちな三白眼。眉毛は全て剃られており、色素の薄い金色の髪はワックスで丁寧に固められていた。
ジャージ姿で街中をうろつくあの男はどこからどう見ても不良だ。さらに見た目に劣らないほど強い腕っ節。にじみ出る怖い印象はどう頑張ったって拭えない。それでもベルタにとってダニエルは、根っこが優しい男の人だ。
期待半分諦め半分。いたらラッキーくらいに思えばいい。わかっているが見つからないことに落胆する。
友達の目から視線を外さないで、思考に耽ったせいで大丈夫かと心配された。眉を八の字に下げ、明らかに不安そうにしている彼女に「大丈夫だ」と言う。言ったところで全く信用されないように思えたが。
そろそろチャイムが鳴る。まだらに空いた席が埋まり始めてきた。
最後の一人がチャイムが鳴るのと同時に駆け込んでくる。それに合わせて野次が飛び交った。
「今日もおっせーなー!」
「また遅刻かー!」
「まだ先生来てねえんだからセーフだセーフ!」
遅刻ギリギリの男子生徒とその友人がわいわいと騒ぎ始め、周りも一層うるさくなる。
始まりの鐘が鳴り終わり、担任が少し遅れて教室に入ると教壇に立って間延びした声を出した。静かにしろと言われ、徐々に小さくなる声の中、友人はその波に乗らずにはっきりとした口調でもう一度私に尋ねた。
「本当に大丈夫?」
真剣な目で見つめられ、この友人に全部話そうか少し悩んだ。けれど一週間前の出来事は誰にも話していなかった。大ごとにはしたくなかったからだ。
親切に助けてくれた彼が警察に届け出を出さないなら、ベルタも連絡をする気はなかった。ダニエルに何か理由があるのではないかとベルタはベルタなりに考えていた。だからダニエルが不都合になることはしたくない。それに、ここの警察がこんな些細なことで警備を強化するとは思えなかった。だからもう一度、大丈夫だと首を縦に振った。
彼女が不服そうに眉間にシワを寄せるのを見て、なんで自分より心配しているんだとおかしくなった。ベルタは表情を緩めながら本当だよと微笑めば、照れくさくなったのか友人はベルタから目を背けた。
「それならいいんだけど」
ぼそりと呟かれた声に、この友人にはいつか、ちゃんとダニエルのことを話そうと思った。
「もう少しでイースターだ」
担任の声が教室に響く。長期休みに入っても、受験生だから勉強は頑張るように言われた。
みんなが真剣に話を聞いている中、ベルタはぼんやりとダニエルのことを考えていた。
あのまっすぐな眼差しをもう一度見たい。
ゆらゆらと水の上を浮かぶ葉のように、この淡く揺らめいた気持ちが何なのか、ベルタはいまだにわからない。
やはりもう一度会いたい。会って話がしたい。そうすればきっと、自分の気持ちに確信を持てると思ったから。
ただあのように別れを告げたダニエルがまだこの区域に残っているとは考え難い。それでは春休みを使って彼を探し出すか?しかしただの学生であるベルタが特定の個人を見つけ出すなんてできるはずがなかった。見つける自信もなければ、会える可能性も著しく低かった。
やっぱり待つしかないのかな。
小さくため息をついて思考を止めた。先生の話すことに耳を傾けていると、春休みだからといって宿題がなくなるわけじゃないの知らされてより一層、憂鬱になった。