爪先からプロローグ


 今日は学校が終わるとそのまま帰宅した。授業中に考えていた食材を買い足してから帰路に着いたのだが。
 ベルタは少し古めかしい雰囲気のマンションに一人で住んでいる。
 警備員も暇そうに新聞を広げており、ベルタがエントランスに入るのを一瞥すると手元に目を戻した。挨拶もない警備員をちらりと見やる程度にとどめ、そのまま階段を登る。
 家の鍵を開けて食材を冷蔵庫に詰め込むとベルタは着替えもせずにベッドに雪崩込んだ。

 なんだあれは。

 買い物の途中で見てしまった男だ。
 ジャージを着ていかにもヤンキーです、という見た目をしていた。そしてその人は平然とさも当たり前のように店頭のものを盗んでいた。あまりにも自然な動作に最初は気づかなかったがあらためて考えればおかしい。あの男、どこに商品を持っていたのだろうか?
 え、ともう一度男のいるほうを見れば姿はどこにもなく、見つからないジャージ男にベルタは夢を見ているような、そんな気になった。そして見逃してしまったことに対する罪の意識と仕方がないという二つの気持ちが絵の具のように混ざり合い、ベルタの少しばかりの正義感は保身のために飲み込まれた。仮に万引きを止めようとしたところで、彼女に出来ることなんて何一つなかったからだ。ヤンキーなんて普段見かけるものではないし、もしかしたら暴力を振るわれるかもしれない。そう考えると怖くて、声をかけるだなんてできなかった。

「ごはんつくろ」

 終わらない思考から抜け出すために、ベルタは力なく呟いた。キッチンに向かって、晩御飯の支度をするも、頭の片隅にさきほどの男がチラついて、離れなかった。




 次の日、友人に誘われてカラオケへ行った。その頃にはもう、昨日の出来事なんて忘れていた。思いっきり歌って、馬鹿になるくらい笑って、テレビのあれが面白い、これがつまらない、他愛のない話で盛り上がった。三時間くらいカラオケボックスに篭って、安いファミレスでご飯を食べたあと、ベルタは友人と別れた。

 そして帰り道。先程の余韻に浸って、鼻歌交じりに噴水のある公園を歩いていた。夜は危ないので公園の噴水は機能していないが、その溜池は街灯に照らされると光が溢れ出て、とても幻想的に輝いていた。今度は友人と歩こう、なんてちょっとした計画を立てながら歩き続ける。

 しばらく歩くと、ほの暗くてなにか出るんじゃないかという不安に駆られた。少し忍び足になりながら進んでいくと、ベルタは気味の悪い人を見つけてしまった。噴水を囲っている柵にもたれかかるようにして、だらしなく座っている。なんだか分からないけれど、ベルタは異様な雰囲気を出しているその人が気になってしまった。何してんだろうな、あの人。不気味。そんな大袈裟に見たつもりはなかった。
 しかし、相手は違ったようだ。ギロり、遠くからでもわかる。野生の獣が獲物を見つけた時のような、血走った目だった。そしておもむろにその人は立ち上がり、ゆらゆらとこちらに近づいてきた。
 視界の端にちらつくその動きに、先程よりも強い恐怖が込み上げてきた。早く家に帰ればよかったなんて後悔をしながら駆け足でその場を離れようとした。が、男もそれに合わせて早足で近づいてくる。

 しばらく走っていると、はぁ、はぁと一定の呼吸音を背中に感じた。妙に冷静な自分が背中にいるぞと警鐘を鳴らした。

 あ、ヤバいやつだ、これ。

 そう思うと同時に男がベルタの肩をがっちりと掴みかかった。それがベルタの歩みを邪魔した。ガッと躓いたベルタの隙をついて、男は制服の襟元を引っ張っていた。そのせいで首が急に締まり、うっ、と情けない声をあげてしまう。
 男はベルタの力が抜けたのを見逃さずに、ベルタの口を抑え、そのまま引き摺るようにしてベルタを連れていってしまった。そして男はねっとりとした声で言った。

「オジサンと遊ぼうよ」

 ハァハァと荒くなる息づかい。気持ち悪くて、ぶわりと全身に悪寒が走った。そして、じわじわと侵食するように恐怖が心を支配した。口元を抑えられ、呼吸がまともに出来ない。脳に酸素も回らない。ガンガンと響くような感覚に、頭がじくじくと痛くなる。

どうやって逃げる?どうしたらいい?どうしようどうしようどうしよう……。

 抜け出せない思考にキャパシティオーバーしたベルタの頭はできる限りの抵抗を身体に伝達した。しかしそれは意味を成さず、裏路地に連れていかれてしまい、半ば諦めの気持ちになった。

 そんな中、大通りから聞こえた微かな会話に希望を抱き、「助けて!」と声を上げた。口を抑えられてまともな音は出ないが、ないよりはましだ。
 しかし当たり前だ。こちらに気づく訳もない。会話は遠ざかる。たとえ気付いたとして誰が助けるのだろうか。ふと思い出した昨日の出来事。昨日の私が正にそうじゃないか。見て見ぬふりをした自分の姿を鮮明に浮かんだ。
 たとえ誰かがこの光景を見たところで助けてくれる保証はないし、この地区の警察だって動かないだろう。だって、この男が賄賂を渡してしまえばそれで終いなのだから。みんな自分ことでいっぱいで、誰かのために動く人なんていない。穏やかそうに見えて、危険なところ。それがこの街なんだとベルタは気づく。

 大人しくしろと声を荒らげる男に自分でどうにかしなければと暴れていたが、ベルタは一人暮らしで帰宅部の女子高生。そんな女の子の体力なんてたかが知れてる。すぐに体力の限界が訪れた。
 そんなベルタの様子に気づいたのか、荒らげていた男の声は、またねっとりとしたものに変わっていた。もう限界だ、固く目を瞑る。これから起こるだろうことを想像して、涙が出そうになった。


「おー、こんなところで何してんだおっさん」


 瞬間訪れた奇跡。ベルタはひどく動揺した。
 こんなことってあるんだ。涙がこぼれる。ベルタは見て見ぬふりをしなかったその男を見上げた。そして「もう大丈夫だ」と確信をしてしまった。
 それは昨日見たジャージ男と全く同じ容姿をしていたからだ。突如訪れたその姿に、ベルタは目が離せなかった。




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