No.05 ひとひら

 わたしの兄はぶっきらぼうな人だ。
 身体も大きくて、声も低くて、とにかく迫力がある。それに加えて言葉数は多くなく、何事も簡潔に、自分の思ったことをそのまま口にする。母みたいに底なしに明るい人ならどんなに冷淡な対応をされてもめげないだろうけれど、たいがいの人はそうではない。兄に話しかけてもその威圧感に息が詰まって早々に会話を諦めてしまうか、兄の存在感に気圧されてそもそも話しかけないかだ。
 そういえば、兄は高校でもやはり女子に人気があった。朝の登校時も授業の合間も、放課後の掃除時間も帰宅途中でも、ジョジョ、ジョジョ、と、頭のてっぺんから出るような声たちに囲まれる。彼女らは、兄に「やかましい」「鬱陶しい」と言われても気を落とすことがないし、それどころか喜んでさえいるようなのが驚きだ。彼女らはきっと、何が起こっても動じない鉄の心をもっているか、あるいはマゾヒズムに片足を突っ込んでいるのだろう。

 わたしは正直なところ、この兄が苦手だった。
 決して、悪い人というわけではないのだ。自分なりの善悪の基準を確かにもっているし、卑屈になったり現実逃避をしたりする人でもない。あのぶっきらぼうな感じだって、きっと裏表のない真っ直ぐな性格の一部だ。事実、兄がわたしや母さんに嘘をついたり、馬鹿にしたりするようなことは、一度だってなかった。
 わかっている。兄が悪い人というわけではないということは、わかっている。それでも苦手なものは苦手、合わないものは合わない。高校を卒業した兄が家を出て物理的な距離が離れればなおさら、精神的な距離は縮まらないままだ。それどころか、わたしたちの距離はどんどん離れていくような気さえする。

「ね、承太郎、元気かしら?」
 1週間に1回は、母さんはそう私に訊いてくる。「元気なんじゃあないの」わたしは決まってそう答える。心配しなくても、兄が元気でやっているだろうことはわかる。わたしはあの兄が風邪をひいているのを見たことがないし、それにあの体格だ、アメリカにいたって危ない目にあうことなどないだろう。けれど母さんは、電話が鳴っても「承太郎かしら?」と期待し、アメリカからの郵便物を受け取れば「承太郎からかしら?」と差出人欄をまず確認する。でも、わたしは知っている。それらの知らせが、決して兄からのものではないということを。兄は、自分から電話をかけたり、わざわざ手紙を出したりするような人ではないのだ。わたしは母さんがいちいち期待してはそのあとすぐに「承太郎じゃあなかったわ」とちょっと寂しそうに目尻を下げて言うのを、もう見飽きてしまった。

 だから正直なところ、このバースデーカードの差出人に兄の名前が書かれていることに、わたしはここ数年で一番の驚きを覚えた。おじいちゃんやおばあちゃんからのカードは、毎年送られてくる。母さんと父さんは、きっとプレゼントと一緒にカードをくれるはずだ。特に今年は私の成人の年だから、必ず最低2枚のカードを開けることになるとは思っていた。
 今わたしの手にある3枚目のカードは、他の2枚のカードとは違って特に目を惹く装飾はなく、ただわたしの名前と、「誕生日おめでとう」という一言、そして「空条承太郎」という兄のサインが漢字で書かれていた。おじいちゃんとおばあちゃんからのカードはそれぞれ淡い桃色に花、水色に鳥のイラストが書かれていて、本棚に飾っておけるようなデザインのものだ。けれどこの兄からのカードは、白地に金色で一輪の薔薇だけが描かれている。悪いデザインではないけれど、良く言えば素朴、悪く言えばそっけない。家族に向けたメッセージカードに名字まで記入してしまうのが何とも兄らしいと思って、わたしは思わず鼻から少しの息を吹き出した。
 でも、その意外な人からの、ぶっきらぼうでそっけない贈り物を、わたしは胸の前で抱きしめていた。目を伏せると、悪い人ではないだけの、どうにも苦手な兄の姿が浮かんでくる。年に1回見るかどうかといったところの、あの大きくて広い、兄の姿が。
 これまでの誕生日に、兄から贈り物なんてもらったことはなかった。けれど今わたしの手元には、兄がわざわざ選んだのだろうカードがある。兄は――あの兄が、わたしの名前と「誕生日おめでとう」というメッセージ、それから自分の名前を名字まで書いて、切手を貼って、海外便だからきっとポストオフィスにまで行って、これを送ってきたのだ。
 
 二度、三度と、そのカードを開いては閉じて、それから黒いボールペンで書かれた兄の名前を指でなぞりながら、壁掛け時計の針を確認する。今の時間、海の向こうの兄はまだ起きているかもしれないし、もう寝てるかもしれない。兄が過ごしているだろう時間帯を一応は計算したけれど、どちらでもいいやと思い直して、部屋を出た。「寝てたんだぞ」と怒られたら、「だって承兄、こっちにいたときは夜明け前まで起きてたことあったでしょ」と言い返せばいいのだ。
「なまえちゃん、承太郎からもカード来てたのね」
 大股で居間を通り過ぎようとしたとき、母さんがそう声をかけてきた。「うん、だからちょっと電話しようと思って」わたしは身体の上半分だけを居間の母さんに見せて、そう答えた。
 カードを開いたまま手に持って、受話器を持ち上げた。010と1、それからさらに、壁にピンで刺された紙には兄の電話番号が書いてある。これを間違えないように読み上げながら、番号を押していく。
 発信音は長く続いた。兄が出てくれるかどうかは、わからない。別に家の中を走ったわけでもないのに、息は少しだけ、上がっている。

「……はい」
 ややあってから、電話の向こうから低い声が聞こえた。兄だった。
「あ、……もしもし、承兄。わたし、なまえだけど」
「……あぁ、なまえか」
 その声はハキハキとはしないけれど、寝ていたわけではなさそうだった。
「あのね、あのー、カード、ありがとう。誕生日の。……覚えてたんだね」
「あぁ」
 やっぱり兄はぶっきらぼうで、そっけない。だけど、久しぶりに聞くこの声は不思議と落ち着くもので、わたしはちょっと速くなっていた鼓動が落ち着いてくるのを感じた。
「承兄は、元気?」
「あぁ」
「大学院は、どう? 大変?」
「まぁな」
「今年は年末、帰ってくるの?」
「まだ決めてない」
「そっか」
「……」
「……」
 沈黙が続く。電話の向こうで、兄はどんな顔をしているだろう。わたしはまた、兄からのカードを開いては閉じて、金色で描かれた薔薇のシルエットを、指で何周かなぞった。
「……ねぇ承兄。ときどき、電話、していい?」
 自分でも、どうしてそんな言葉が出てきたのかはわからない。頭で考えるよりも前に、それは口から出てきた。言ってしまったあとに、わたしは心のなかで、自分で自分にちょっと驚いた。
「……あぁ、いいぜ」
 けれど、兄からの返事もまた、意外なものだった。やめろ、と突っぱねられるかと思っていたから。「ただしおふくろには言うなよ」兄はそう続けた。「さすがに毎日は困るからな」そう言った兄の顔が想像できて、わたしはくすりと笑った。
「……ね、承兄。承兄も、ときどきでいいからさ、電話、してくれる? ……そっちの天気はどう、とかさ、たったそれだけでもいいんだよ。……ね、だめかな」
 目を伏せると、兄が、ちょっと目を見開いて驚いている顔が浮かんできた。
「……あぁ、いいぜ」
 けれど聞こえてきた声は、さっきと変わらない調子だった。「よかった」そう呟くように言って、わたしはまた、カードを抱きしめた。


 わたしの兄は、ぶっきらぼうな人だ。
 身体も大きければ、態度もでかい。声も低くて、とにかく威圧感がある。言葉数も少ないし、何でも思ったことをそのまま口にする。
 けれど、そんな兄でも、ときどきわたしに電話をくれる。最近食べて美味しかったものだとか、今度はどこの水族館に行っただとか、今日の天気はどうだっただとか、そんなとりとめもないことを、簡潔に教えてくれる。電話を母さんに代わろうかと言うと、いつも「いや、いい」と即答されるけれど、兄からときどき届くポストカードの宛先には、ちゃんとわたしと母さんの名前が書いてある。
 わたしはそのカードが届くたびに、前回届いたカードをファイルに仕舞って、新しいものを本棚に飾る。その隣には、金色の薔薇が一輪、咲いている。

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