No.04 the bottom

 もう頭を抱えているわけにはいかなかった。廊下から響く靴音は大きくなっている。長い髪を束ねるように撫で付けて、とにかく自分を落ち着かすように、ナポリ大都市市長たる女は息を吐く。
 ノックの音に、彼女はとうとう死刑台に上がるかのような心地を覚えた。
「ブチャラティ様がいらっしゃいました」
「ええ、通して」
 いそいそと入室した秘書は、爆弾が自分から離れていくのを確かに見届けるように安堵の表情を隠さない。直属の上司にそれが渡っただけで、誰かが割りを食うかもしれないとわかっていても、止めようのないものだった。
「ブチャラティさん、すみません。ご挨拶が遅れてしまって」
 手が震えぬように必死に力を込めて、彼女は友愛を誓うように手を差し出す。当のブチャラティは気の置けない友人に向ける笑顔を浮かべているが、見る者に少しの粗相をも禁ずるような圧迫感を醸している。
「いや、構わないさ。トップが変わって、市議会も相当混乱したそうじゃあないか。大層忙しかったんだろうな」
 互いの手を握り込む様子は対等な関係性を示すようだったが、だからこそ尻込みする彼女の細腕は頼りない。
 ブチャラティがすっと手を離すと、彼女はすぐにソファを勧める。この場において決められたことだと言ってもいいくらい、互いにとって自明なタイミングであった。
「本当なら執務室なんかじゃあなく、いいレストランを押さえておくべきなんでしょうけど、生憎そういう時間がなかなか…」
「それを言うなら俺だってそうさ。ナポリを背負う美女に会うって言うのに、ディナーのひとつももてなせない。情けない話さ」
 彼が大袈裟にため息を吐く様子はジョーク番組の一幕にも思えるが、彼女に腹の底から笑う余裕はない。頭の中に愉快さをかき集めて、どうにか笑い声を捻り出す。ブチャラティの瞳には権威に媚びへつらう人間が写ったが、それを彼が哀れに思うか愚かに思うか、誰も知ることはないだろう。
「そう。こんな味気ない場所で渡すのもなんだが、就任祝いがあるんだ」
 そう言ってブチャラティは、持参した紙袋から大きくはないが底の深い箱を取り出して、机上へ見せつけるように乗せた。淡い台紙は華美でありながらくどくないリボンで装飾され、全体として祝辞とともに渡されることを誇りに思う、凛とした佇まいに収まっている。印字されたブランド名に彼女は喉を鳴らした。
「気に入ってもらえるか不安だから、ぜひここで確認してほしいんだが。どうだろう」
 ブチャラティの朗らかな笑みからして、自信がないというのは適当な方便でしかないようだ。暗に確認しろと示す彼の言葉に彼女の呼吸が荒くなっていくのも、自然なことだった。
「ああ……いいんですね、開けても?」
 ブチャラティは眉を持ち上げて笑みを深くするだけで、どうぞともダメとも言わない。この箱を開けてしまえば、彼らのあらゆる行いを止めることはできなくなる。いや、彼女だけは既に止めようがないことを知っていた。
 蓋を取るとすぐに、艶やかな陶器と相見える。
「素敵。大ぶりな花弁がついた花みたいな薄青のコーヒーカップと、揃いのソーサー! どちらも縁を銀で飾っているんですね」
 口から出た言葉に偽りはなかったが、隠すように早く喋る彼女は、カップの美しさよりもカップやソーサーを保護するための詰め物の下が気になって仕方なかった。見惚れるようにカップを持ち上げて息を吐くが、やはりそれはカップよりも底にあるものを嘆く吐息だ。
 箱もひっくるめて、彼女は全てを受け取るしかない。蓋をして視界の外へ追いやるように箱を除け、祈るように彼女は問いかけた。
「ところで……、兄のことは」
 彼女が汚点をいま一度さらけ出すより先に、箱を除けた彼女の手をブチャラティはしかと掴んだ。
「何も心配することはない。君が誠実に仕事をすればいいだけのことだ」
 穏やかだが力強い言葉に、彼はきっと模範的な上司で頼りがいのある男なのだろう、と彼女は思ったが、自分が彼らの下に付くこととなった今では、彼は巨悪の遣いでしかない。しかし、彼が実のところ巨悪の遣いになる他なかった哀れな青年なのだと、根拠もなく信じたい思いもあった。真摯な視線に滲んだ優しさが偽物だとは思いたくない。
 彼女は黙祷を捧ぐように目を閉じる。彼がこんな仕事をしなくても済んだなら、自分が苦しめられることもなかったろう。彼女は、彼の優しさを見なかったことにして、怯えながら彼らの成すがままに動く他ないのだ。

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