No. 03 ラッキーガール
今日は朝ごはんの卵が双子だったし、家を出た瞬間に雨が止んで虹まで見えた。電車ではちょうど目の前の席が空いて座れたし、通ってきた商店街でくじを引いたら一等が当たったんだ。ねぇ……次は何が起こるのかな?
そんな脳天気な事を考えながら足取り軽く歩いていた一時間前の自分の考えを改めてやりたい。
一時間前の私は鼻唄を歌いながら公園のベンチに座ってジェラートを食べていた。季節限定のフレーバーはとても美味しくて当たりだなとまた幸せを感じる。そしてもう片方の手には先程引いた一等賞である旅行券がある。
行き先はアマルフィ。なんて素敵なのだ。
美しい海岸線、青いティレニア海、山の斜面に広がるブドウやレモンの段々畑。
その景色が一望できるホテルの宿泊券付きとあっては笑顔になるのも当然だった。
ドゥオーモを見た後ジェラートを食べるのだ。ヴァカンス気分に浸っているとすぐ後ろの茂みがガサガサと音を立てる。
犬や猫でも出てくるのかと視線を向けていると、出てきたのは野良猫なんかではなく血まみれの小人だった。
「え……」
「あ……」
その小人としっかりと目があってしまった。小人は刈り上げた頭をガシガシと掻きながら「しょうがねぇなぁ」と呟いた。
「しゃ、べ、喋っ、」
「ちょっとねんねしてくれよな、お嬢さん」
ジャンプしてベンチに上がってきた小人が私の手の甲を何かで刺す。
「痛ッ!」
チクッとした痛みがあった後私は意識を失った。
そして目覚めたらこの部屋にいた、という訳だ。
暗い部屋の真ん中に置かれた椅子に縛り付けられて、ご丁寧に猿轡まで噛まされている。
「お目覚めかい、お嬢さん」
誰もいないと思っていた部屋から男の声がする。声のした方を見れば、暗がりの中壁に凭れて男がひとり立っていた。
ランプの灯りがかかる足元と声が公園で見かけた小人と同じ事に気付く。猿轡越しに訴えても言葉にならない声が漏れるだけだ。
「オレの事を覚えているな?」
男の問いに首を縦に振る。男が一歩私に近付いた。
「あの公園でオレ以外何か見たか?」
その問いには首を横に振った。あの時の私はアマルフィに想いを馳せていて目の前にはまだ見ぬ海が広がっていたのだから。
「嘘はついてねぇみてぇだな」
男はまた一歩私に近寄る。灯りのもとに出てきた男はやはり公園で見かけた小人だ。どうして大きくなったのか、いやあの時小さくなっていたのかと疑問が浮かんだが今この状況において時間と思考の無駄であると気付いて止める。
「騒がねぇと約束するなら轡を外してやる。いいな?」
顎をしゃくって返事を求める男に私は必死に頷いた。
男が私の背後に回って猿轡を外す。きつく噛まされていた為、つと唾液が垂れて不快だ。
少しだけ咳き込んでしまうと、男はミネラルウォーターのボトルを口に近付けてきた。
「飲めるか?それとも口移しで飲ませてほしいか?」
「飲めます。水、ください」
「ほらよ」
「……Grazie.」
「Prego.」
色っぽい申し出にドキリとしながらも慌てて返事をして口を開ければ男は私の口唇にボトルの縁を当てて器用に水を丁度一口嚥下出来るだけの量を流し込んでくれた。
お礼を言えば水滴が付いた私の口唇を親指の腹で拭いながら男は目を細める。
「名前は……なまえ・みょうじ。良い大学に通ってるんだな」
男は私の学生証を見せながら言った。持ち物は全て奪われ検められているのだろう。
「何も見てねぇつーんなら家に帰してやりてぇんだがよォ……オレの顔を見られたのはちょっとばかしマズいんでな……恨むなら自分の運を恨めよ」
朝から続いた幸運の代償が自分の命だとしたらあまりにも酷い人生ではないか。
殺されるならどうして旅行券など当たったのだ。アマルフィの景色がぼやけていく。ああ、そうだ。もう行けないのか。
「……アマルフィ……」
「あ?」
「当たったんですよ、くじの一等賞で旅行券。アマルフィの景色が見れるホテルの宿泊券付きです。それでさっきは浮かれてて、本当に何も見てないんです」
「……あぁ。これか」
男が私のバッグを漁ってチケットを取り出した。
天国のようなヴァカンスへの切符が本当に天国行きになるとは笑えない。
「……行きたかったなぁ……アマルフィ……」
「これペアじゃあねぇか。恋人と行く気だったかい?」
「いません、そんな相手。恋人というか好きな人すらいなかったです。欲しかったなぁ。紳士的で、笑顔が素敵な……。母か弟でも誘おうと思ってました……もう行けませんけど。でも良かった、まだ母を誘う前で。死んじゃったら連れていけませんものね。悲しませなくて良かった。あ、娘が殺されたらそっちの方が悲しみますよね……はぁ……」
「……スゲェ喋るな」
「ごめんなさい。殺されるって思ったら怖くて」
「殺さねぇよ」
「……事故死に見せかけて暗殺するんですか?」
「や、まぁいつもはそうするが……そうじゃあねぇ!オレの事について誰にも言わねえって言うなら見逃してやるって言ってるんだ」
「……本当に?」
「あぁ。元はと言えばオレの不注意だしな」
「そうですね」
「言うねぇ」
「ごめんなさい。殺されないと解ったら安心して」
「でも約束は守ってくれよ?オレはいつだってアンタを殺せるんだからな」
「……肝に銘じます」
「じゃあ、またおねんねの時間だ」
「え、あ、痛ッ!」
男が私の手に何か刺す。
公園で感じた痛みと共に私は再び意識を失った。
あれから約一ヶ月。
アマルフィのロレンツォ・ダマルフィ通りに連なるオープンテラスのひとつで私はオレンジ味のジェラートを食べている。
アマルフィには母と二人で来ることが出来、今はそのヴァカンスの真っ最中だ。
私はあの後自宅のベッドで目を覚まし、旅行券の入ったバッグはテーブルの上に置かれていた。多少現金は抜かれていたがそんな事は問題ではない。
あの日起きたことを誰にも言っていないしあの男の姿をあれから見てもいない。
今まで殺されずに済んでいるのをみると、やはりあの日の私はツイていたのもしれない。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
母にそう告げて席を立つ。用を済ませて通路の角を曲がった所で歩いてきた男性客とぶつかりそうになってしまった。
「Mi scusi.」
「こちらこそ」
男性か帽子の鍔を下げた。目深に被った帽子のせいで顔が見えないが口元は紳士的に微笑みを浮かべている。
「よい旅を、お嬢さん」
すれ違う瞬間、聞こえた呼び掛けに私はハッと足を止めて振り向いた。
既に男性の姿は通りの人混みの中に消えている。
特別な呼び方でもない。さっきまで思い出していた為に少しだけ敏感になっているのかもしれないと私は溜息をついて母の待つテーブルへと戻った。
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