No. 02 毒を食らわば愛まで

 疲弊した頭で夕食の献立を考えながら、花京院はプライベートの敷居を越す。すると、煙が燻っているような臭いが鼻に届いた。視界が白けるほどもうもうと焚かれているのではなく、工場の煙突から風に乗って臭うくらい微かなものだが、家で嗅ぐなら間違いなく異臭である。
 煙の量からして大事でないかもしれないが、まさか火事ではあるまいな、と早足に火の元へ向かっていく。

「あ、典明くん、おかえりなさい」
 自然と緩められる頬がまるで自分のものでないみたいに感じた。真新しい絆創膏を付けた手でなまえが持つ皿は、花京院を大きく揺さぶる。
「ただいま。……その、今日って、何か」
 異様な喉の乾きは平素な返事すら阻む。
「記念日とかじゃあないよ。ただ仕事が早く終わったし、いつもお料理してもらってるお返ししようと思って、ちょっと頑張ってみました!」
 得意気な笑顔は、しかし花京院の困惑を焚き付けるばかりであった。それは場に適した相づちを、否定なのか肯定なのかわからない曖昧で、なまえに不安だけを持たす最悪な返事に変えてしまう。口にしてすぐ、花京院は失態を拭おうと懸命に笑って二の句を次ぐ。
「ありがとう、助かるよ」
「どういたしまして。手、洗ったら一緒に食べよ」

 二人は互いに穏やかに笑いかけていたが、表面下では傷つけ合ってしまったことを知った。花京院だけが小さなすれ違いに気付いていたが、どうにも止めようがない。
 なまえは、自分の作る不味い料理を花京院が嫌がっているのだと思ったに違いないが、実際は少し違う。確かになまえの料理は工場の排ガスを思わせる臭いであったり、砂利のような食感であったり、例を挙げればきりがないほどに特殊であるが、花京院にはそれ以外にも忌避する点があった。
 彼女は料理についてだけはとんと不器用で、電子レンジを壊したり鍋を焦げ付かせたりということが頻繁にある。いや、調理器具が壊れること自体は損失であっても、花京院にとってそんなことは重要ではない。その都度、彼女がケガを増やすのが嫌なのだ。
 なまじ、料理が不味いというのも事実であるから、なまえが身を削って料理をすることはない。ゆえに花京院は、「苦手なことはしなくてもいいんだよ」と彼女を料理から遠ざけてきた。花京院が相手であっても、なまえは他人に頼りっきりになる状況を良しとは思わないだろう。挽回の機会を狙うのも当然だ。

 花京院が手を洗って戻ると、なまえは緊張した面持ちを崩そうとして不自然に固まった笑顔で出迎えた。彼がはっきりと「不味い」と言ったことはもちろんない。それでも彼女は、料理に対して拭えない苦手意識を持っているらしい。
 なまえの向かいに腰かけて、花京院は皿を観察する。白米の島にカレールーの大海がしなだれかかっており、その中で大きめの鶏肉やジャガイモ、ニンジンがごろごろと転がっている。意外にも見た目は模範的なカレーだ。けれども匂いはカレーでなく、ケミカルな異臭としか表現できないが。
「カレーだ。美味しそうだね」
 誰にとっても苦しい嘘を吐くことに花京院は抵抗を感じたものの、そうしなければ彼女との間に生まれた溝に耐えきれない。盆から溢れた水を戻そうと砂を集めているような愚かさがある、という自覚は彼にもある。一番に彼女の傷を看たいのに、それはできなかった。
 緊張に逆立つ彼は、意を決するように深く息を吸ったなまえの方を向く。一体、どんな衝撃が小さな口から発せられるのだろう。

「あのね、典明くん。あなたと過ごしてきた日々のこと、私、ずっと忘れてないよ」
 突然に始まった力説に花京院は頷いて見せたが、話題の文脈は読めず、スプーンを取ろうとした手をとりあえず下ろす。
「あなたが、どんなものが好きで、どんなことで笑って、どんなことに泣いたのか、……ずっと、ずっと、憶えてる。だからね、今度は……大丈夫だと思うんだ」

 なまえの視線は下がって、力強かった語りは吐息に紛れるように消えてしまった。
 それを見ても、いや、だからこそ花京院は微笑むしかなかった。食べて「美味しい」と言うこと以上の返事が果たしてあるだろうか。
 彼はどんな劇物が口に入ってこようが狼狽えまいと、食前の挨拶に意志を滲ませながら固くスプーンを握る。二人は言わずとも一緒になって、花京院の口元に集中した。
 粒が立って輝く白米と、ルーが程よい比率で乗ったスプーンに彼はかぶりつく。途端、鼻から抜けた臭いは揮発性の高い薬品を燃やしたかのような刺激的なものであったが、咳き込むほど酷くはない。
 花京院は咀嚼するごとに、しかめていた表情を和らげる。食べ物にあってはならない臭いは、舌を焼くような辛みに相殺されそれほど気にならなかった。
 むしろ、辛みを打ち消すことによって奥に潜む鶏肉や野菜のコクをはっきり知覚させ、和製カレーの真髄を見せてくれる。なぜか酸味を感じるが、こってりとした味わいのアクセントと考えれば悪くない。
 嚥下してしまえば旨味は残らなかったが、それでも花京院はほとんど自然な笑顔でいられた。
「美味しいよ、本当に美味しい!」
「ほ、本当?! よ、よかったぁ」
 なまえはいからせた肩を楽にさせて、花京院に追従するようにカレーを食む。以前と何が違うのか、と首を傾げたが、花京院が食べるペースを見れば気にすることはないと思えた。

 花京院は今まで、無理をさせたくないという理由で彼女を料理から遠ざけてきた。苦手なことや嫌なことを分け合って補える関係であることを誇りに思っていたのは、確かだ。今もそれが悪いことだとは思っていない。ただ、彼は手を取り合って前に進むことを失念していただけなのだ。
 あと少しで食べきってしまうカレーから顔を上げて、花京院は言った。
「なまえ。よかったら今度の休みにでも、一緒にご飯作らないか?」
 なまえは、口一杯に頬張ったものを急いで飲み下そうとしたが、あまりに大量でちっとも口を空けられない。代わりに、絆創膏ばかり目立つ手を口元にかざしながら何度も頷いた。

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