No. 01 To This Distance

「髭の濃い男は苦手だって、おまえ言ってたよな?」
 
 キスをする直前になっていきなり、ミスタがそう言い出した。
 もう額がくっつくほど顔が近くて、お互いの吐息も、瞳の奥も、なんなら肌の調子だってわかるくらいの距離になったというのに。ミスタはそのまま唇を合わせようとする流れに分厚い鉄の板を挟むみたいに不意にそう言い出して、わたしを上目で見てくる。
「……え?」
 急にそんなことを言われたものだから、すぐにはミスタの言っていることの意味がわからなかった。付き合い始めたばかりの恋人たちに流れているはずの甘ったるい空気には、かなり不釣り合いな問いかけだった。
「いやその……ほら、初めて一緒に飯に行ったとき、だったか。その帰りの車でよォ……」
 ミスタは顔をちょっと離して、顎のあたりを指先で触りながら言った。わたしと、わたし以外の空間との間で視線を行き来させている。
「……あ、あの時の。まぁ、言ったけど、何で? 何で今その話を?」
 ミスタの肩に手を置いたまま、わたしは半年くらい前のことを思い出した。それはミスタと知り合って2ヶ月くらいの頃のことだった。初対面の時点で気が合わないとは思っていなかった男に食事に誘われて、帰りにその男の運転で家まで送ってもらう途中のことだ。新しい同僚に気を遣ってくれているのだろうと思っていたから、ミスタに「好みのタイプは?」と訊かれて深く考えることなく「特にない」と答えて、「じゃあ嫌いなのは?」と訊かれて「強いて言うなら髭が濃いのは苦手」と答えたのだ。
 あの時は、全然、本当に、何も考えていなかった。好きなタイプや苦手なタイプを訊かれて、訊いてきた本人がそれで一喜一憂するなんて、全然、気がついていなかった。
「……あの、ほら。こうやって顔近づけるとよぉ。……オレ、髭、濃いか?」
 ミスタは頬のざらざらとする部分を隠すように、手のひらで触っている。困ったようにちょっと笑って、わたしがこれから言うかもしれないことについて心配している。
 この男、「4」という数字以外のことに関してはいつも悠々としていると思っていたのに、存外恋や愛に関することにも敏感なのかもしれない。そう思うと、わたしも一息を漏らして笑ってしまった。
「えーっと、ミスタ」
 覚束ない手つきで頬を触るミスタの手のうえに、自分のそれを重ねる。わたしは喋りたいことを考えながら、喋った。
「あの時言ったことは、気にしないで。強いて言うなら髭がちょっと、って話だから。それにミスタ、あなたは別に髭が濃いわけじゃあないでしょ」
「……お、おう」
 ミスタの眉はまだ少し下がっている。「うん」と「ああ」が混ざったような声を出して、重ねられた手を握り返せずにいる。わたしはミスタの手を掴んで、自分の頬まで持っていった。
「だってわたし、あの時は、」
 いったんは離れた距離を、再び近づける。
「だってわたし、あの時はまだ、あなたとこんなふうになるなんて思いもしなかった」
 もう一度、ミスタの吐息も、どこまでも深く暗い色をした瞳の奥も、うっすらと髭の生えた彼の口元も、全部わかるようになった。
「ね、だから、」
 最後まで言わなくたって、これからお互いがしたいことは、お互いがよく知っている。でもその最初のきっかけとして、わたしはミスタの少しざらざらとした頬に、唇を寄せた。

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