No. 13 グレイソーマタージ

 鉢植の土はちっとも様子を変えない。もう何日も、ずっとそのままだ。なまえはそれを前に顔を中心に向けて折り込むみたいにしわくちゃにする。彼女にはもう、芽が出なかったこと以外の何も考えられない。
 泣こうが喚こうが事が動くわけではないと知っているが、だからといって悲しみはやる方なく涙に代える以外にはどうともできない。声は石畳を打ち、風に乗って運河まで渡っていく。
 大声を張り上げて泣くなまえを道行く人は気にするが、目に見える問題があるでもなし、と心配して声をかけることはない。家の前に座り込んでいるのだから、誘拐だとかなんだとか、心配無用なことは確かだ。
 もし神がいるとするなら、まだ幼い彼女に酷な仕打ちをしていると彼に言えるだろうか。悲しいことではあるが、どう生きていても暗礁に乗り上げてしまうもの。生まれてこられない命に心を痛める人は少なくない。そういう現実を齢五つを数えた頃に知っただけのことだ。
 彼女を哀れむように寄り添うのは陽光だけかに思われた。
「どうかしたのかい」
 大柄な体格に怯えさせまいと優しく努めたのか、吐息混じりの太い声は、自分の声ばかり骨に響いていたなまえの耳にも届いた。突如として現れた青年に驚いて涙は引っ込んだが、冷めやらぬ興奮による嗚咽は続いている。青年に返すべき答えは肩の跳ねる感覚に振るい落とされてしまう。
 なまえがちょっと人見知りしているか、混乱しているのだと青年は思って、ゆっくりと背をさする。邪魔になった買い物の荷は脇へと置いて、青年は彼女の目線に合わせた。
「大丈夫かい、迷子になっちゃったかな?」
 大きな手のひらに背を撫でられると、なまえは泣き疲れた喉が癒されて声が戻ってきたような気がした。思考の分別がおぼつかないなまえでもどう応えるべきかわかる。
 彼女は悲しい気持ちを振り落とす勢いでかぶりを振った。
「め」
 喉はよく開いているから声は出るのだが、叫んだ後の乾きで言葉がつっかえる。
「め? 目にゴミが入っちゃったかな」
「芽が出ないの。かみさまにお願いすればちゃんと咲くって、言ってたのに」
 改めて口にするとあまりに惨いことに思えて、なまえは心臓を握りしめられる心地を感じた。苦しいからと俯けば、大人がやっと胸で抱えられる大きさの鉢植えに影が射して、世の無情さがあらわになるだけだった。
 これからもどれだけ水をやったとて、種を植えて十日も経とうとしているのではおよそ希望は持てないだろう。もしかすると土の下で腐ってしまったかもしれないが、貴重な経験として少女の心に芽吹くなら無駄死にしたとは言わずに済む。
 青年はやっと得心がいったと安堵して、ようやく頬の緩んだ笑みを浮かべられた。
「そっか。…でも、お兄さんの方が神さまよりもずっと上手に奇蹟を起こせるぞ」
 なまえには「見ててごらん」と土に手を伸ばした青年の真意がわからない。青年以外の誰にだって理解できるはずがない。
 壮言を吐いた青年はしかし、口を薄く開いてただ深く息を吸うだけだ。それなのに何がしか起きているらしいことを感じて、なまえは息を飲む。それから嘆息するまでに時間はかからなかった。
 土に動きが見える。下から持ち上げられたように小さな山がいくつもできて砂が零れていく。するとすぐに楕円形の球が続々と顔を見せ始めた。それを確認して、青年は土から手を離す。
「これで花が咲くはずだよ。君がちゃんとお世話してあげたらね」
 なまえは何も言えなかった。生命の神秘たる成長の過程を、これほど目覚ましく見せつけられるのは尋常なことではない。まさしく神業であり、秘匿されるべき術だ。それを成した青年の手指は殴打によって作られるタコで武骨に見えるのに、全てを許す温もりを有していると思える。彼の笑顔は証左とばかりに柔らかい。
 感嘆して声さえ出さずに青年を見つめるなまえに微笑みかけ、土で汚れていない手を使って撫でる。ずいぶん慣れているのか、力加減は心地よい。なまえは真っ赤に腫らした目を細めて享受しようとするが、青年は急いでいるのか、すぐに撫でるのを止めて立ち上がる。なまえにとって彼はあまりに大きく、遠ざかった顔は朧気にしか見えなくなった。
 青年は「じゃあね」とだけ声をかけ、荷物を持ち上げて口数の少ない少女に背を向けた。
 大人の歩幅で離れていく青年を何も言えずに見送るだけだったが、自分の心にある表現できない気持ちを伝えたくて足を動かす。ただ闇雲に走っても彼には近付けない。そう気付いてすぐ、なまえは息を整えて彼に言葉を届けようと思い付いた。種を救ってくれた彼に何を言うべきか、わからないなりに喉を震わす。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
 日が高く、視界は眩しいが、それでも青年が振り向き、歯を剥き出しにしながら笑って手を振ったのはわかる。あどけない所作に、なまえも釣られて笑った。
 青年の姿が見えなくなると、なまえは鉢植えの前で寝転がって芽生えたてのそれらを眺める。いつか開く花は、青年の髪色よりも鮮やかなのだろうか。息吹を取り戻した芽は、なまえの知らないうちに心のなかでのびのびと風に揺られている。

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