No.10 あいをあかで刻んで

 彼は、自分のことの多くを、わたしには語りませんでした。
 どこで生まれ、どんな人たちに囲まれ、何をして育ったのか。なぜここにいて、どんなことをしてきて、これから何をして生きていくのか。彼にまつわるいろいろなことは時折彼の口から不意に出てくるだけで、多くのことは意図して語られることがありませんでした。

 夜、それも辺りが暗くなってしばらくして皆が夢を見はじめるような時間に、彼はわたしのアパルタメントの扉を3回ノックするんです。玄関扉の左側の壁には人差し指1本だけでちょうど押せる大きさのベルがあるのに、夜だから隣の住人の迷惑になるだろうと言って、彼はあえて扉を叩くんです。コン、コン、コン、というモデラートの速さで、一音ずつはっきりと聞こえるように、彼はノックをするんです。
 わたしはその時間に、その速さで、扉を叩いてくる人を一人しか知りません。だから「どちら様?」と聞くことなく、扉をそっと開けます。もちろん扉を開ける前には、内側に掛けてある鏡で、自分の姿を確かめます。髪は整っているか、服に塵がついていないか、それに化粧は綺麗なままか、といったことを、確かめます。
 わたしは夕方仕事から帰ってくると、一度化粧を落とします。念入りに洗顔をして、ハーブの香りのする化粧水で肌を整えます。適当な夕食を食べてから軽い掃除をして、彼が来る時間までに再び化粧をします。日中には眉毛を整えて口紅を塗るくらいのことしかしないのに、夜に再び化粧をするときは全力を尽くします。ほんとんどはジョルジオ・アルマーニもので、これらを揃えるためにはなかなか値が張ったのですが、彼と会うときに使うのだから仕方がありません。会ったばかりのころに彼が褒めてくれたこの301番の口紅は、つけるだけで気分が良くなります。……ね、きれいな色でしょう。
 わたしは彼にキスをして、その赤が彼の口元に移るのを想像します。彼の細い銀髪、奥の見えない彼の瞳がわたしのつけた赤と対照的に、艷やかに映るのを。彼は口紅の色が移っても、口元を自分で拭い去ろうとはしません。わたしはそれがまるで、彼がわたしのものでいてくれる証のような気がして、心が満たされました。

 彼と過ごす夜があっという間に明けてしまうと、彼はわたしが気づかないうちに、そっとアパルタメントから出ていきます。あまりにも静かに起き上がって手早く身なりを整えて行ってしまうから、薄暗く冷えた空気の中に彼の姿を見たことなど、数えるほどしかありません。
 午前中の柔らかな陽射しが窓から差し込むころになって、やっとわたしの目も覚めてきます。一度時計を確認して、それにまだ余裕があるのがわかれば、枕やシーツに残った彼の香りをしばらく堪能します。一人が横たわれるだけのあいだがわたしの横に空いたままなのを寂しく思ったりもしますが、代わりにしじまのなかに彼が囁いた言葉たちで胸をいっぱいにしながら、シーツを抱きしめるんです。
 ベットからやっと抜け出してきたなら、食卓に一枚のメモを見つけます。「おはよう。良い一日を。また晩に」黒い文字で流れるように書かれているのはそんな簡易なメッセージだけですが、わたしはその文字を指先で撫でて、これを書いているときの彼を想像します。できるならメモではなく直接言ってほしくはあるけれど、でも仕事に忙しくしている彼がこうやっていつもわたしを訪ねてきてくれるだけで、満足しなければなりません。

 彼は、自分のことの多くを、わたしには語りませんでした。
 いま思えばきっと、それは彼の優しさだったのでしょう。特に彼は、自分の仕事のことをわたしには決して教えませんでした。わたしだって、出会ってすぐのころは何度か彼に尋ねてもみましたよ、「昼間は何をやっているの?」「今日の仕事はどうだった?」みたいなこととか。でも彼は少し眉を下げ、いつも曖昧に笑ってこう答えるの、「オレのことはいいから、君のことを教えてくれ。今日は良い日だったか?」って。わたしはその返事を素直に受け止めて、自分の一日のことを話します。朝は何時に起きて、どんなふうに化粧をし、仕事では何があって、昼はどこで食べたのか……そんな、とりとめもないことを。
 彼はいつも、微笑んでいました。わたしだけが「微笑んでいる」とわかる、彼なりの微笑みで、微笑んでいました。微笑みながらわたしの話を聞いてくれました。どんな些細なことだって、彼に話せばわたしたちの共通の話題なります。わたしが嫌な思いをした出来事のことだって、彼に話せば笑い話になります。けれど彼は……わたしの話に優しく調子を合わせながら何でも聞いてくれる彼は……自分のことの多くを、わたしには語りませんでした。
 
 わたしは、彼のことを何一つ知りませんでした。だって訊いたって、彼は答えてくれないのだから……いいえ、知らなかった、というよりも、わたしは知ることが怖かったのかもしれません。
 そう……そうです、わたしは怖かったのです。たとえ彼についての様々なことを知っても、自分はほんとうにそのすべてを受け止めることができるのか? そして知ってなお、変わらず彼のそばにいることを選べるのか?……そういったことに確信が持てなくて、怖かった。……それだけではなくて……わたし、気づいてたんです。彼の秘密を知ることが自分の身を危うくするのではないかと、わたしは、漠然と気がついていた……だから、訊けなかった。
 ええ、わたしは、何となくわかっていたんです。彼の仕事が、親や友人に自慢できるようなものではなかったのだということを。わたしがもしナポリに住んでいたなら、誰に教えてもらわなくたって自然と知ったでしょう。彼は危ないから付き合うんじゃあないって、誰かに言われたはずです。でもそうじゃあなかった。ここはナポリじゃあない。わたしだって、あなたたちの組織の名前くらいは知っています。それに、決して歯向かってはいけないし、探ろうとしてはいけないということも、子どもはみな親に言いつけられるものです。
 けれど彼が……彼が、人を殺すことを仕事として、人を殺した金で生きているなんて、思わなかった。知らなかった。……知りたく、なかった。

 ……ええ、それは知っています。「レンツォ」は本当の名前じゃあないって、自分から言ったんです、彼。
 あの日、彼が「もしかしたらもう会えないかもしれない」っていきなり言うものだから、びっくりして。なんてことのない用事に付け足しで言うみたいに、「それに、オレの名前はレンツォじゃあないんだ」って真顔で言ったんです。……それに彼、こうも言いました、「そして君は、オレを忘れて生きていくんだ」って。
 最初は冗談だと思ったけど、そうではなくて。彼が全部本気なんだってわかると、なんてひどい人だと思いましたし、なんてひどい人だと彼に言いました。……頬も、強く叩きました。何にも教えてくれないのはいいんです。彼もきっと、危ないことにわたしを近づかせたくなかったのだから。けれど、勝手にいきなり別れを切り出されて、しかも名前も嘘だったし、最後に言った言葉が自分のことは忘れろ、だなんて。

 ……ええ、大丈夫です。もう、出てくるものが何にもないくらい、泣きましたから。

 ……あの、ジョバァーナさん。もしよかったら、彼の本名、教えてくださいますか。
 ……そう、ですか。……そうですよね。残ってるわけ、ないですよね。……彼のもの、何にもないんです。わたしの家には、彼、ものを置かなかったから。……名前さえも、のこらなかった。わたし、彼の名前さえ……名前さえ、知らなかったんです。

 え、通称……ですか。そっか、ギャング、ですもんね。それでいいです。教えてください。

 ……ふふ、なにそれ、変な名前。あ、でもたしかに、彼、いつも黒い服着ていたから……。いえ、ありがとう、ジョバァーナさん。それだけでじゅうぶんです。彼、自分のことは忘れろって言ったけど、忘れてあげる気なんかないですし、彼の名前だけでも知れて、よかった。

 ……この口紅、もう使わないから、あとで手帳にでも書いておきます。忘れないように、「リゾット・ネエロ」って、大きい文字で。

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