No.07 Lacrime nere

 ナイフを握る手が震える。手汗が持ち手に纏わりついて、気を抜けば滑り落としてしまいそうだ。
 人生で初めて、ナイフというものを、モノを切るため以外の目的で握った。その重さは、マトモな使い方をするときよりも、何倍も重く感じられるものだった。大きさ自体はなんてことないというのに、ずっしりと冷たく、柔らかさとは無縁なその感触は、これから自分が為そうとしていることの重みを、無言のうちに訴えかけるようだった。
 人を殺したことなんてあるわけがないけれど、人を殺したいと思ったことはある。そしてその思いは、透明の液体に落ちた黒いインクのように、この身を、この心を、蝕んでいた。その黒は、たった一滴落ちるだけで、これまでの生活も、価値観も、抱いていた希望も未来も、あらゆるものを侵してしまう。いつだって、何をしていたって、ふとした瞬間にその黒は現れ、耳元でこう囁いて、命令してくるのだ――あの子の仇をとれ、あの男を殺せ、と。
 
 ましてや、このナイフを手にして、こうしてあの男の車に潜んでしまったからには、もう戻れない。戻れるはずがない。いまさら怖気づいてこのナイフをどこかのゴミ箱に棄てたとしても、たとえ海に投げ棄てたって、もう二度と明るいほうへ戻ることはできない。そんなことはわかっていた。わかっていたけれど、手は震え、呼吸は整わず、口の中はからからに乾いている。
 あと何時間、何分何秒、ここで待てばいいのだろう、あの男を――金髪を結い上げ、上等なスーツの胸元を開けた、あの男を。通称はプロシュート。本名は知らない。何歳なのか、どこで生まれたのか、そんなことも、どうでもいい。これから命を奪おうとしている男の、それ以上のことを、自分は知らなかった――いや、知る必要がないのだと、何度も自分に言い聞かせてきた。知ってしまえば、この黒く染まった鉄の心が砕けてしまうかもしれない、だから知る必要がないのだと。

 どれだけの時間が経ったかわからない。けれど身を低くして潜んだ車の窓からかろうじて見える外では、人が談笑して歩いている音も、影も、なくなってきた。車やバイクが走る音も少なくなってきたし、もう酒場も閉まるころだろう。
 こつ、こつ、と、足音が近づいてくる。ついに来たか、と思えばあの男ではなかったようで、離れていく。そのたびに乱れる呼吸をなんとか落ち着かせながら、その時を待った。

 がちゃり、と、車の鍵を開ける音がした――来た! 一瞬そう叫びそうになったけれど堪えて、身を縮こまらせる。一切の物音をたててはいけない。あの男が車を発車させたあとに、ナイフを後ろから、突きつけるのだ。
 エンジン音がかかると、男は気だるげな動作でシートベルトに手を伸ばした。車はゆっくりと動き出す。いまだ、と思った。
 素早く起き上がると、金髪の首元に、ナイフの切っ先を当てた。
「止めて! 言うことを聞きなさい、じゃなきゃ死ぬわよ」
 声が震えるのを、その大きさでごまかした。けれど、ここから見える男の肩も、腕も、何も動じていないみたいに見えて、車は進み続ける。
「止めてったら! 刺すわよ!」
 震える右手を、左手で押さえ込むようにして包んだ。本当に男の首を切り裂いてしまいそうだ。
「……あー……」
 男がため息をつく。「ま、仕方ねぇか」そう独り言をつぶやいた。
「何ぶつぶつ言ってんのよッ……止まりなさい! いますぐ止まらないとッ、」
 男への脅しの言葉を言い終えることはできなかった。その代わりに首元に強い衝撃が加わったかと思えば、目の前が瞬く間に暗くなっていった。

***

 重く凝り固まった目蓋を開けると、茶色い染みのある床がまず目に入った。ぼんやりとした視界にぱち、ぱちとゆっくり瞬きをすると、ここが薄暗いどこかだということもわかってきた。薄く一息を吸うと、首の根本も首筋もじんじんと痛くて、思わず「んッ」と唸り声を出して、身じろぎをする。すると手も足もテープで拘束されていることに気づいた。
「おー、起きたか」
それは頭上から聞こえてきた。

***

「ふぅん。なまえ・みょうじ、25歳。住所は?」
 目の前の男――プロシュートは、コンクリの壁にもたれかかりながら、ビールの缶をまた一口あおった。それから長い足を折って屈み、目線をこちらに合わせる。口元には微かに笑みを浮かべ、こちらを試すような、品定めするような目つきで、そう訊いてきた。
「……」
「住所は? どこに住んでんだ」
 何も答えないでいると、プロシュートはまた同じ問いを繰り返して、その手はビール缶を床に置いた。
「アベルサ、アベルサよ!」
 空いた手でまた頬を打たれるかもしれないと怖くなって、そう答えてしまった。息が上がり、顔が恐怖で歪む。目尻に溜まった涙を見ると、プロシュートは左の口元だけを吊り上げて意地の悪い顔をした。
「ふん、素直なのは嫌いじゃあねぇぜ。じゃあ次――どうしてこんなことしようと思った?」
「……そ、それは……」
「まぁ、だいたいの予想はつくがな。つまるところ復讐だろ。で、誰の弔いだ?」
 この男は、こちらが痛みと恐怖と、そして目的を果たせなかったという無念に苦しむのを見て、楽しんでいる。もうこれ以上弱みを見せたくはないのに、この男の、いやこの男が棲まう深い暗闇の世界の、そのあまりの非情さに、涙が溢れてきてしまった。
「……弟の……」
 でもその一言目を切り出すと、もうどうにでもなってしまえという諦めが、黒く染まっていた心にぐちゃぐちゃと流れ込み、何もかもを溶かしていく。この男と一言だって口をききたくないのに、喉からは勝手に言葉が出て、目からは勝手に涙が出ていく。
「弟は……アタシの弟は、……馬鹿な子だけど、優しい子だったわ……」
 目の前にある男の顔から目をそむけた。
「なのに、どうしてッ……どうしてあの子が殺されなきゃならなかったのッ……! あの子は悪いことなんてしてなかったのよ! ただ優しいからッ、……優しくて、人を信じる子だったから……人を助けようと思える子だったから、あのときだって、助けてあげただけなのに……」
 プロシュートは何も口をはさんでこない。だから話し続けた。どうせここで始末されるのだったら、溜まりに溜まって悪臭さえ発するようになった恨みの言葉を、全部吐き出してしまおうと思った。それと一緒に、涙も鼻水も溢れて止まらなかったけれど、拘束されたままでは、拭うこともできなかった。
 プロシュートはずっと黙っていたけれど、涙声の訴えが一通り済んだ頃に、口を開いた。
「復讐は何も生み出さねぇ」
 そういった男の顔からは、さっきまでの5歳の子どもを相手にするときのような、癪な笑みは消えていた。こんどは冷たい目をして、こちらを見据えていた。
「しょうがねぇことだったんだ。復讐なんて忘れて、せいぜいフツーの人間らしく、幸せに生きていれば良かったんだよ、てめぇは」
 それを聞くと、涙で霞んでいた目の前も、血が上ってぼうっとしていた頭も、急にすっと醒めるような心地がした。
「……幸せって、何」
「あ?」
「幸せって、どういうことなの」
「……」
「アタシ、幸せになる方法、一つだけ知ってるわ」
 
 そう。黒く変色した心が行き着くことのできる未来は、一つしかないのだ。

「アンタを丸めて刻んだら、アタシ、今よりも幸せになれるかもしれない。それだけよ」
 
 もう涙は出てこなかった。その代わりとでも言えばいいのか、ふふ、ふふふ、と、乾いた笑い声が出てきた。眉間にしわを作って黙った男を前にして、壊れた機械仕掛けの人形みたいな、笑い声が出てきた。

 もう、涙は出てこなかった。

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