05 ここから連れ出して

 ――うるせェ! 生意気な口聞いてんじゃあねぇぞ!

 男が怒鳴る声のあとに、どん、どん、という、ものを蹴ったり叩いたりする音が何回かすると、やめて、やめてよ、と言って泣き叫ぶ女の声が壁をこえてこちらの部屋にまで聞こえてきた。
 物が壊れる音や、壁に穴が開く音、男の怒声や女の金切り声を何度聞いても、決してそれらに慣れることなどない。そのような音が聞こえてきたら、もうベッドの中に蹲って、毛布を頭まで被って、枕に顔を押し付けて、ただ耐えるしかない。心臓がどきどきして、いてもたってもいられない気持ちになって涙が出てきたりするけれど、ただ耐えるしかない。そういう夜は、ただ蹲って、耳を塞いで、その時間が過ぎ去るのを待っているしかないのだ。

 ――あぁ、神さま、お願いです。お願いだから、あの人をもうここに来させないで。わたしを、母さんを、ここから連れ出して。あの人のいないどこか遠くに行きたい。ねぇ、神さま、どうか、どうか……。
 涙が滲んで湿っぽくなった枕に顔をなすりつけて、どれだけそう願っただろう。何度も何度も、どうかわたしたちをここから連れ出してほしい、それが叶うならなんでもすると神に言ったのに、ついにそれが叶うことはなかった。けれど、男の怒声をもう聞きたくないという願いだけは、叶ってしまった。

 ――母さんは、どこに行ったのだろう。どうして、あの人は、倒れたまま、動かないのだろう。まるで、まるで死んでしまったみたいに――。

***

 はっ、と息を呑んでリリアナは目が覚めた。いつも見ていた天井とは違う。白い壁が覚めたばかりの目には眩しい、明るい部屋にいた。カーテンがないから、すっかり高くなった陽の光が顔を照らしてくる。スパニョーリ地区と違って、3階建て以上の高さの建物がなく、建物どうしの間も広いから遠くまで見渡せる。煉瓦造りの家々はほとんどが茶や白の色をして、ところどころに鮮やかな水色や赤のものもある。リリアナは自分が今どこにいるのかをしばし考えて、ここはきっと「パッショーネ」の組員が拠点にしているコンドミニオなのだとわかった。
 昨日、車に乗せられたリリアナは、サントーロの酒場から20分ほど走ったあとに、この建物の3階へと連れられてきた。リリアナの手を引いて酒場から連れ出した男は、リリアナをこの部屋に入れると休むようにと言った。腹は空いているかと尋ねられたリリアナが、そういえば昼以降何も食べていなかったことをやっと思い出して腹をさすると、もう1人の男は「ちょっと待ってな」と言って出ていった。1、2分後に戻ってきてパンを2つと水をリリアナに差し出すと、男2人はそれぞれスクアーロとティッツァーノと名乗り、「また明日」と言ってそのままどこかに行ってしまった。リリアナは一人になった部屋で、もらったパンを物凄い勢いで食べたあとに、スパニョーリ地区よりも静かで暗い街の夜景を見ていたらそのまま眠ってしまったのだった。

 リリアナは起き上がって辺りを見回した。昨日は電気もついていないこの部屋がどうなっているかわからなかったけれど、わかっても大したものも置いていない、狭い部屋だった。ベッドと、サイドテーブルと、チェストがある他は、誰かが住んでいたような形跡もなく、ただ生活感のない無味な印象を受ける部屋だ。リリアナはベッドから出てチェストやサイドテーブルの引き出しを開けてみたけれど、やはり何も入っていなかった。部屋のドアを開けようとしてみると鍵がかかっていてノブを回すことはできなかったし、窓の錠も錆び付いていて開けられない。

 この部屋に閉じ込められたのかと思うと、昨日のことが夢でも幻でもないのだということを、リリアナはやっと感じ始めた。サントーロが呼んでいると言われて階段を下りるとすぐに男に手を引かれて、何が起こっているのかもわからないままに車に乗せられて、ここまで連れてこられた。また殴られたりするのかと、痛い思いをするのかと恐怖したが、車の中でも、この建物に入ってからも、あの男たちは何もしてこなかった。
 リリアナは最後に見たサントーロの表情を思い出した。サントーロもまた、困惑と恐れと、それからリリアナと同じく疑問の念を顔に浮かべながら、手には分厚い封筒を握っていた。リリアナは、そのような封筒と、あのような厚さには見覚えがあった。あれには金が入っていたのだろうと、リリアナは思った。そう思うと、そうか自分は金で売られたのか、いやサントーロが自分を売ったのであれば、あんな表情をしているのも変だと考えて、この状況がいったい何なのか、自分はこれから何をされるのか、いよいよわからなくなった。

 リリアナは再びベッドにもぐり込んだ。シーツも枕も少し埃っぽくて、かさかさとした手触りがするけれど、1年暮らした酒場の4階のそれよりは臭くなくて、いくらかマシなものに思えた。
 ――わたしは、どうなってしまうのだろう。何が起ころうとしているのかわからなくて、とても怖い。ここから出たい。でも、ここから逃げ出せたとしても、わたしにはきっとどこにも行く場所がない。だって、わたしはお金と交換でここに来たのだから。でも、また痛い思いをするのはいや――リリアナがそうやって疑問と恐怖とを堂々巡りしているうちに、ドアの向こうから人の足音や話し声が聞こえた。

「起きているかい? リリアナ。もう昼時だよ」

 昨日も聞いた声が扉の向こうから聞こえてきたと思ったら、入ってきたのは金色の長髪のほうだった。リリアナが起き上がると、後ろに赤毛のほうも見えた。リリアナは身構えたが、男2人は子猫を相手するときみたいに余裕といった態度で、部屋に入ってきた。リリアナのほうへ放り投げられて、ベッドの上にがさりと音をたてて着地したものを見ると、またパン2つと、ボトルに入った水だった。リリアナがそれを見つめてから、また男のほうに視線を戻すと、スクアーロに「食えよ」と言われた。

「…………あの、わたし、…………」
「なんだ? 食わねぇのか」スクアーロが言った。
「……いえ、あの、……食べます……」

 リリアナがパンを包んでいる紙を破いて、男2人の視線を気にしながら恐る恐る口に入れる。スクアーロとティッツァーノは、どこからか椅子を持ってきて、座ってその様子を見ていた。

「…………いや、やっぱりオレはこんなガキがやったなんて思えねぇけどなァ」
「……スクアーロ、人は見かけにはよらないものですよ。例え子どもであってもね」

 リリアナはその会話の意味もわからず、2人が口を開くたびにびくりとしながら、それでもパンをどんどん食べていく。リリアナは今よりもっと小さい頃から、食べ物はできるだけ早く食べる癖があった。というのも、ぼうっとしていたらなくなってしまうからだ。リリアナが最後のパンの一欠片を口に放り込み、ごくごくと音を立てて水を半分飲むと、スクアーロがよし、と言って話し始めた。

「まずは、どこから始めればいいんだ。……あァ、まずおまえ、コレが見えるか」

 そう言ってスクアーロは、リリアナの持っているボトルを指さした。リリアナが手元を見ると、そのボトルの中には手のひらに収まるくらい小さな、しかしゴツゴツとした見た目のモノが入っていた。それはちゃぷちゃぷと音をたてて、ボトルのなかを、まるで水槽にいるみたいに泳いでいる。
「うわッ」と声を上げて、リリアナは思わずボトルを放り投げた。キャップがゆるく閉まっていたから、ボトルは落ちると床にぶつかって、少し水をこぼした。するとそれは消えてしまった。

「やっぱ、見えてんのか。でも、その様子だと見ること自体は初めてみてーだな。うーん、どこから説明したもんかな。なぁティッツァ」
「そうですねぇ。……まずは、我々のこの不思議な力について、説明しましょうか」

***

 「スタンド」。
 誰がそう呼び始めたのたかはわからないけれど、この世には普通の人間には見えない摩訶不思議なモノが存在していて、それを「スタンド」というのだとティッツァーノは言った。何を言っているのかわからないという顔をして口が開いたままになっているリリアナに、「まぁ、そんなすぐには信じられないだろうね」とティッツァーノは笑う。スクアーロは床に落ちたボトルを手にとった。すると、その中にまた小さなモノが現れた。リリアナは得体の知れないモノに慄きながらも、のびのびと泳いでいるそれを見つめた。いったいどうやってこれが消えたり現れたりしているのかリリアナにはまるで見当もつかなかったけれど、本物の魚のように、まるで生きているみたいだ、と思った。リリアナはサメを見たことがなかったから、この泳いでいるモノを魚だとしか思わなかったけれど、スクアーロは「どうだ、このサメ、なかなか可愛いだろ」と言った。

「これはな、『クラッシュ』つーんだ」
「……これが、サメ」
「そっちかよ。……これがスタンド。自分の意思で操れるんだぜ。もちろん、スタンドに何かをさせたり、誰かを攻撃させることもできる。能力は人それぞれだけどな」

 小さなサメから目が逸らせずに、恐怖しながらも好奇心を抑えられない様子のリリアナに、スクアーロは気分を良くした。スタンドの存在は、普通の人間には言いふらさない決まりだし、同じスタンド使いには自分の能力を明かさないことがほとんどで、もし見られたとしても値踏みするような視線しかもらわないからだ。

「…………能力?……」

 スタンドというモノに宿る能力、というのが想像もできなくて、リリアナは表情に疑問符を浮かべてスクアーロを見つめたが、スクアーロは得意げな顔をしてから「クラッシュ」を消した。

「おっと、オレのスタンドの紹介はここまでだ。そんな目で見られても、これ以上は何も教えねぇぞ」

 全然疑問の尽きないリリアナは、ティッツァーノを見た。けれどティッツァーノは「わたしのスタンドは、別に見ても面白くないよ」と言って、リリアナに何も示さなかった。

「それで、だ。ここから本題なんだがな、リリアナ。おまえ自分のスタンドを見たことがあるか。オレらみてぇに自由自在に出せるわけじゃあないだろうがよ、それでも、なんか不思議なモノが気がついたら自分の側にいた、なんてことがなかったか」
「…………えっと……」
「ちょっと、スクアーロ。まずは、どうして我々が、彼女にスタンドが宿っていると思うのかを説明しなければならないでしょう」
「…………わたしに、『スタンド』?……」

 与えられる情報の量が多すぎて、リリアナの頭はもう動作不良になってしまいそうだ。それに気づいたティッツァーノは、ゆっくり段階を踏んで教えることにした。

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