04 闇と泥とを喰らっても

 事が動いたのは、リリアナが無傷で帰ってきて奇妙な話を聞かせた日から、4日経った日の夜だった。

 いつものように酒場の開店準備をしていたグレコや他の店員は、硝子窓の向こうに2人の男が立っているのを見た。酒場の開店を待っている客かと思ったが、それにしては時間が早すぎるし、この酒場に来るのは常連がほとんどだからわざわざ待っているというのも珍しい。そして何より、窓越しでもわかる、男たちが尋常ならざる雰囲気を纏っているのだ。それは、先日威張り散らしていったあのモロッティのような――いや、彼よりももっと危険な、このネアポリスの闇と泥とを喰らってもなおそこに立つかのような、「相手にしてはいけない」部類の人間の放つものだった。
 嫌な予感がして心臓がばくばくと音をたて始める。グレコはいつもは飄々とした態度のつかみどころのないいでたちをしているが、今回ばかりは表情を険しくさせて、すぐにサントーロに報告するように店員に言った。

 サントーロが階段を下りてくると、サントーロもまた険しい顔をして、グレコに店のドアを開けるように言った。グレコはノブを回してそっと開けて、そこにいる男たちに「中にどうぞ」と言った。片方の男はふかしていた煙草を捨てて靴の裏で火を消すと、「どうも」と言って、もう1人に目線を寄越して入るぞ、という合図をした。

「…………あんたら、何の用だ」

 サントーロはいつもそうしているようにぶっきらぼうに言ったが、内心は気が気でなかった。モロッティからついに連絡が来なくて、難が去ったと胸を撫で下ろしかけていたかと思えば、今度はそれよりも「確実にヤバそうな」男2人が現れたからだ。

「まぁまぁ。そんなに警戒しなくてもいいだろう、サントーロさん」

 煙草をふかしていたほうの男は、赤毛を後ろに撫でつけて、上等なスーツに身を包んでいた。暖色の光が灯ったこの店内で、その濃い紺色のスーツはしわひとつなく艶々と光っている。もう1人の男は長い金髪に褐色の肌をして、こちらも上等なスーツを着ていた。両者ともまだサントーロよりはかなり若く見えるが、年よりももっと得体の知れぬ感じを受ける。赤毛のほうはスクアーロと、金髪のほうはティッツァーノと名乗った。サントーロは、口元だけ吊り上げて愛想の良いフリをした男たちに、用件は何だ、とまた言った。スクアーロが答えた。

「いやね、この前はモロッティとかいう奴が、うちの組の名前を出して失礼をしたとかで。あんたのとこの子も散々ひどく扱ったって聞いてな、うちはそんなことしませんよって、ちょっと誤解を解かなきゃあならないって、上が言うもんだから」
「……あ?」

 サントーロは目の前の男が言っていることがすぐには理解できなかった。スクアーロは店内に飾ってある酒瓶やら、どこか異国の伝統工芸のような装飾品やらを眺めながら、愛想の良い笑みを作った。それで今度は、ティッツァーノが口を開いた。

「だから、あのモロッティという男は、うちの……パッショーネの者ではないっていうことですよ。うちも、あの男にちょっと困っていましてね。そこらじゅうでうちの組の名前出して馬鹿やるもんだから、うちとしても、どうしようかと考えていたところだったんですよ。まぁでもそんな心配も、もうなくなったんですがね」

 にこりと口元を上げて笑うティッツァーノの目は、笑っていなかった。サントーロもグレコも、他の店員たちも、この2人の男たちの態度と、纏う雰囲気と、喋っている内容との不気味なちぐはぐさに恐怖を抱いた。ごぐり、とサントーロは無意識に唾を飲んでいた。

「……それは、どういう…………」
「死にましたよ、モロッティとかいう奴は。4日前……ちょうどあれがあなたのところの子を連れてここに現れた日の、次の日かな。自宅で死んでるのが見つかったんです。あ、そうそう、あれの周りにいつもくっついていた男2人も、同じく死にましたよ」

 ティッツァーノの言ったことを聞いて、サントーロは、息が詰まった気がした。だからモロッティに電話をかけても通じなかったし、彼がここに現れることもなかったのだ。サントーロは一瞬安堵しかけたが、それはこの状況を少しも解決してはいないと思い直すと、額に冷や汗が浮かんだ。
 モロッティとその仲間2人はなぜ死んだのか。この男たちの口ぶりから察するに、「パッショーネ」が手を下したのではないはずだ。「パッショーネ」を恐れてモロッティに何も言い返せなかったのだから、サントーロ自身もサントーロの周りの人間も、モロッティを殺せるわけがない。それをわかっていて、なぜこの男たちは、現れた? まさか本当に「誤解」を解くためだけに、わざわざここに来たというのか?――何も言えないサントーロに、スクアーロは続けて話す。

「でなぁ、サントーロさん。ちょっとこちらにも事情があってな。……あんたのとこの、リリアナ、だったか。彼女を渡してもらえねぇかな。なぁに、悪いようにはしねぇから。ちょっと彼女に用事があって、いろいろ聞くこともあるから、連れて行きてぇんだ」
「…… リリアナが、奴らを恨んでたとしても……奴らを殺せるわけねぇってのは」
「もちろんわかってるさ。そもそも奴が殺られたって、うちとしてはむしろ助かったって思うくらいなんだ。だから、悪いようにはしないって、な。彼女を呼んできてくれよ」

 有無を言わさぬ視線と、その意図の読めなさにたじろいだけれど、サントーロはグレコにリリアナを呼びにいくように言った。グレコが階段を駆け上がっていくと、スクアーロは「さすが、話がわかるねぇ」と満足そうに笑う。そして下りてきたリリアナの姿を見ると、スクアーロはティッツァーノから厚みのある封筒を受け取った。

「もちろんタダとは言わないぜ。なにせ、彼女をここまで育ててくれたんだから」スクアーロはサントーロの手を取って、その封筒を握らせた。
「いやぁ、今回は災難だったな。じゃ、俺らはこれで」

 スクアーロと、リリアナの手を引いたティッツァーノは踵を返す。何が起こっているのかわからなくて、きょろきょろとしてサントーロを見上げるリリアナだったが、サントーロも状況を説明できるわけはなく、ただ男2人とリリアナを交互に見返すことしかできなかった。サントーロが「ちょっと待て」と呼び止めると、ティッツァーノは顔だけサントーロのほうに向けて、言った。

「そうだ、あの3人の死体には、全身に殴られたり蹴られたりした跡が残っていたそうですよ。でも、当然の罰ですよね。ねぇ、リリアナ」

 2人は、はははと声を上げて、リリアナにも笑いかけた。トレド通りに停めてあった黒い車に乗り込んだ男2人とリリアナは、夕陽の沈んだナポリの街の彼方へと消えていった。サントーロは渡された封筒を握り締めて、ただその行方を見ているしかなかった。

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