03 生き方だって知らないのだから

 ――それで、目が覚めたら、傷がなかったんです。

 リリアナが昨日の晩に男たちから受けた暴行と、それに反して目覚めると暴行の痕跡がこの服にしか残っていなかったということを話すと、サントーロも少年たちも、口をぽかんと開けて、何を言っていいのかわからない、という顔をした。一同がしばらく黙ったあと、サントーロがやっと口を開いた。

「それは…………それはおまえ、何かを記憶違いしているんだろう。おまえ、結局奴らに何もされなかったんじゃあないのか」
「…………あの、いえ、でも……痛くて、死んでしまうくらい痛かったんです、昨日……」

 リリアナはそう答えたが、実際自分でもなぜ傷跡がないのか全然わからないので、その答えに自信はなかった。

「死んじまうほどの傷だったら、おまえがいまこうして立っていられるわけねぇだろう。だからな、おまえ多分、連れてかれて、怖くて記憶がごちゃごちゃになってんだろう。まぁでも、それならいいんだ、それなら……」

 サントーロはまた額の汗を拭った。リリアナが無傷で帰ってきて驚いたと思ったら今度は奇妙な話を聞かされたが、彼女が生きていたのは良かったと思った。謎は残るが、「それならいいんだ」と何度か繰り返した。

 昨日、サントーロはリリアナが男に連れて行かれるのを黙って見ていたことを、その姿が消えたあとに、少し後悔していた。盗む相手を間違えたのはリリアナで、彼女のせいで「パッショーネ」の関与を許すことになったことに対する怒りを感じつつも、彼女に盗みを教えたのは自分なのだし、せめて一言くらいは許してやってほしいと言うべきだったかもしれないと思っていたのだ。
 だから昨晩は憤りのほうがリリアナに対する同情に勝っていたけれど、1年も育てた「手駒」が、そして今後も盗みをさせ、夜の街で働かせたりもする予定だった「財産」が帰ってこないことに、あとからやりきれなさを感じていたのも事実だった。

 しかし、リリアナが傷一つなく無事だったのなら、昨晩の男――彼が渡してきた紙には「モロッティ」という名が書かれていた――は彼女を連れて行って何をしたのだろうか? まさか、夜のあいだずっとリリアナに口で説教でもしていたというのか。サントーロは、昨晩はあんなに乱暴に意地悪く振る舞っていたモロッティという男が、リリアナを言葉によって「教育」したとは到底考えられなかった。けれど、リリアナの奇妙な話はおいておくとして、事実として彼女は怪我をしていないし、性的な暴行を受けたわけでもなさそうだった。

 これは何かの脅しなのだろうか――例えば、リリアナを無事に返したのだから、自分により強く服従をせよ、というような。そう考えるとサントーロは、かえって不気味に感じた。これからモロッティがこちらとどのように関わる気なのかを確かめなければなるまいと思って、ひとまず彼が渡してきた紙に書かれた電話番号に従って、番号のボタンを押した。

***

 サントーロはその日と次の日、何度かモロッティに電話をかけたけれど、結局ただの一度も繋がることはなかった。彼が夜の酒場に現れることもなかったので、内心不安に感じていたサントーロは少し荷が軽くなったと思いながらも、首を傾げた。
 モロッティは、一体何をしたかったのだろう。ただ、財布を盗まれた怒りにまかせてわめき散らし、「パッショーネ」の威光をこの弱小酒場に見せつけたかっただけだったのだろうか。そうだとしたら九死に一生を得た気分だけれど、連絡先まで渡してきたというのに結局何もしないのであれば、借りてきた「パッショーネ」の威光も陰るというものだろうに。サントーロの疑問は解決されなかったが、今すぐ降りかかってくる難からは逃れたみたいだということをリリアナに伝えて、新しい服を渡した。

 盗んでいい相手とそうでない相手を完璧に見分けられるようになるまでは盗みはさせない。そうサントーロに言い渡されたリリアナは、その代わり昼間の食堂の仕事を本格的に手伝うようになった。
 リリアナが無事に戻ってきたその日こそ、サントーロはリリアナに対してちょっと遠慮がちに接していたが、その次の日になるとまた以前のようにリリアナを荒っぽく使いっぱしりにした。
 昼間でも薄暗い路地にあるこの食堂に来る客はたいがいが地元で工事や建築、運送業をやっている男たちで、昔からサントーロが何人かの少年を使っていることは知っている。サントーロが少年ではなく少女を手元に置いているというのはちょっと珍しいので、男たちはリリアナが食事を運んだり食器を下げたりして忙しくしているのを見ては揶揄ってみたり、コインをこっそり渡してみたりしている。

 けれどリリアナはもう二度とヘマをしないようにと思って、常に緊張した面持ちで、何でも恐る恐る行動した。客に出す食事や下げる食器を落としたりしないように、客に酒を出すときにこぼしたりしないように。客の注文を間違えずに厨房に伝えられるように、精算する金をきちんと計算できるように……。

 サントーロに叱られるのは怖いし、そのことで少年たちに揶揄われるのも嫌だと、リリアナは自分が失敗したときのことを想像しては、泣きたい気持ちになった。求められる仕事を果たせず、何も役に立たない自分。母親にでさえ見捨てられ、誰からも見向きされない自分。本当は盗みなんてしたくないし、母親に会いたいし、昼間にときどき見かける他の子どもと同じように、学校にだって行きたい。なのに、盗みをしなければ、金を稼がなければ、いよいよ「生きる価値」がなくなってしまう。だからせめていま与えられた仕事は完璧にこなさなければならないと、まるで誰かから脅迫されているみたいに、リリアナは思うしかなかった。

 そういうふうだから、盗みではない新しい仕事を与えられてもなお、リリアナの心は休まることなんてなかった。というよりも、サントーロのもとで働かされるようになってからずっと――いや、もしかしたらまだ母と一緒に暮らしていたときから、リリアナが安心して夜眠ったり、何の心配もなく朝目覚められることなんて、なかったかもしれない。

 リリアナの母は、彼女の記憶に顔すら残っていない父がいなくなってから少し経つと、アパルタメントに男を連れ込むようになった。最初こそ母に花の贈り物を持ってきたり甘い言葉をかけていたりした男は、そのうち深夜だろうが何だろうがかまわず部屋にやってきて、リリアナの母が水商売やそのひぐらしの仕事で稼いだ金を全部酒に溶かすようになった。そして酔いがまわると男は母を怒鳴りつけ、頬を張り飛ばし、蹲っている腹に蹴りを入れ、ときには嫌がっているのも構わずに犯した。

 リリアナは幼かったから、その日々のことをあまり覚えていない。けれど、男を連れてくるより以前には母がきれいに化粧をしたり、リリアナに服を買ってくれたり、料理を作って誕生日を祝ってくれたりした思い出が、断片的に頭の中に残っている。それと最悪の対比をなすように、男が来るようになってからは母の髪も顔もかつての輝きを失って、リリアナには関心が向けられなくなり、ただ食べ物だけ与えられるようになった。そのときの惨めで悲しい気持ちだけは、どうやっても取れない錆のように、リリアナの心に残っている。

 男が来るようになってから、母は変わってしまった。そして、母がいなくなってからは、自分も変わってしまった。
 男の暴力に耐える日々の中では、大好きな母の、緑の美しい瞳が再び自分を映すことだけを希望に生きてきた。けれど母がどこかに消えてサントーロに連れて来られて以来、紙切れのような「生きる価値」のために盗みをしたり乞食のふりをしたりする自分は、もうその希望さえも失って、ただ食べて働いて寝るだけの機械になってしまったかのようだった。

 前にいた世界を覚えているからこそ、いまがどれだけ最低なのかがわかる。けれど、リリアナは母を恨む気にはなれなかった――男を連れてきてリリアナへの関心を捨てた母を、自分を置いてどこかに行ってしまった母を。できるならもう一度会いたいとも思っている。会って、また二人で一緒に暮らしたいとも。
 ただ、一言「あなたを愛している」という言葉さえくれるなら、それだけで良いというのに。それだけで、いままでのどんな苦しみも恨み言も忘れて、母を許せるというのに。リリアナが母のことを思い出すときはいつも、そんな思いへと着地するのだった。

 リリアナはその日の仕事が終わった深夜、酒場の4階に上がりすでに寝ている少年たちのベッドの間をぬって自分の寝床に辿り着くと、そこに座って窓の外を見た。もう付近の酒場も閉まっている時間だから、いつも賑やかなトレド通りの明るい光はなくなって、狭い路地をはさんだ向かいの建物の圧迫感のなかで辺りは静まりかえって、遠くに犬の吠える声や、車のエンジンの音がときどき聞こえてくる。

 あんなに痛くて苦しくて、死んでしまうとさえ思ったあの夜だったけれど、こうやっていつもびくびくと怯えながら最低限の「生きる価値」を得るしかない生活なら、どちらのほうがマシだっただろうと、リリアナは思った。いっそ死んでしまっていたなら、もうこんな惨めで悲しい生活からはさよならできたのかもしれない。せっかく神に救われた命だけれど、やはりこうやって、消え去ってしまったかつての希望を思いながらぎりぎりで生きていくしかないのだと思うと、遠い昔に見た母の笑顔や、良い香りや、きれいな髪が目に浮かんできて、自分の惨めさに涙さえも乾いてしまう。

 自分が死んでも、母はそれを知ることもないのだろう。それどころか、母だって、もうこの世にはいないのかもしれない。それならいっそ、もう自ら死んでしまおうか。誰かが自分を痛めつけるのを待つ必要なんて、ないのかもしれない――ここまで考えてリリアナは、はは、と乾いた笑みをこぼして、「でもどうすればいいのかな」と呟いた。その独り言は、暗い部屋のどこかにすぐに消えた。リリアナには、死に方なんてわかるはずもなかった――だってリリアナは、生き方だって知らないのだから。

 リリアナは視界の滲んだ目をごしごしとこすって、汗がしみ込んで少し嫌なにおいのするシーツに潜った。

 その次の日も、また次の日になっても、ついにモロッティが姿を現すことはなかった。

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