02 なんてことをしてくれたんだ

 その酒場は開店が夜からだが、昼は食堂をやっている。トレド通りから1本外れたこの狭い路地をさらに狭くするようにテラッツァがはみ出したその店は、太陽が当たらないのでいつも薄暗い。裏口――といってもそれは客が出入りする扉の隣にある玄関なのだが――から続く厨房へと入ってきたリリアナを見て、肉を焼くのとサラダ用の野菜を切るのを同時にやっていた若い男は「あッ」と言って驚いて、咥えていた煙草を床に落とした。

「ちょ、ちょっと! おまえ、リリアナ! 生きてたのか! おまえ……あの男たちに連れてかれて、帰ってこないからどうしたもんかと思ってたんだ」

 男は落とした煙草を拾いながら言った。リリアナは、太陽が高く昇っていて、この男が食事を作っているから、いまは昼時だと考えた。

「…………グレコさん。……ごめんなさい。あの、いま、何日ですか」
「え? 29日だけど……。おまえ、いままでどこにいたんだ?」
「……ええと……あの、たぶん、ずっと寝ていて…………」
「は?」

 グレコと呼ばれた男は、リリアナの返事に意味がわからないという顔をしたけれど、彼女の服が薄汚れているのに気がつくと、うわ、と言って顔をしかめた。

「まぁいいわ。おまえ、その服汚いな。サントーロさんにちゃんと新しいのを頼みな。上にいるから。あと、ちゃんとあのあとどうなったか説明しておけよ」

 そこまで言うと、グレコはキッチンの端においてあったパンを2切れ掴んで、リリアナに投げて寄越した。リリアナはそれを慌ててキャッチすると、ありがとう、と礼を言って、厨房を横切りその奥の扉を開けた。そうして一度食堂に出てから、便所の扉の隣の階段を、食事をしている客たちに見られないようにそっと上っていった。

***

 酒場の3階には大きな部屋が1つだけあって、1人の中年の男が大きな机の前に座って書きものをしており、その周囲には少年2人がソファに座ってカードゲームをして、もう1人は雑誌を眺めて過ごしている。
 リリアナが部屋のドアを開けると、その音のした方向へ全員が一斉に顔を向けた。中年の男はガタッと音を立てて椅子から立ち上がり、少年たちは目を丸くして、リリアナを見つめている。

「リリアナおまえッ!……無事だったのか! 昨日戻ってこなかったから、おれぁてっきり……」

 男はグレコと同じ反応をした。グレコが昨日の日付を言ったのと同じく男が昨日、と言ったから、リリアナは、あの夜は昨日の出来事だったのだとわかった。

「……ただいま戻りました。サントーロさん。あの……」
「いやぁ、リリアナ。ひとまず……まぁ良かったよ。しかしおまえ、奴らによく、……その、怪我させられなかったな。……」

 サントーロというこの中年男は、リリアナの顔や腕や足に傷がないことを確かめてから、言い澱みながらそう言った。半分開けられたブラインドから入ってくる陽射しが、男の頭をあわく光らせる。サントーロは信じられないという顔をして、手を額にやって汗を拭った。そしてリリアナの服が汚れているのに気がつくと怪訝な顔をした。

「リリアナおまえ、…………何があった。その服……」
「……あの……ごめんなさい、サントーロさん」
「謝るのはいいから。あのあとといままで、何がどうなったのか話せ」

 ソファに座っていた少年たちもカードゲームをしていた手を止めて、リリアナが話すのをじっと見ている。リリアナは、昨日の出来事を話し始めた。

***

 リリアナがこの酒場の4階で生活するようになったのは1992年、7歳になる頃のことだった。
 サントーロは、ここらスパニョーリ地区一帯で営業する酒場や食堂を管理する、やくざ者のグループの長だ。彼がスパニョーリ地区で生まれ育ったリリアナを自分の事務所であるこのコンドミニオに連れてきたのは、失踪した彼女の母親探しの保険のためだった。

 しかし、サントーロが用があるのは、本当はリリアナの母親が家に出入りさせていた男だ。その男はかなりの金をサントーロに借金していて、それなのについに一銭も払うことなく突然死んだ。だからサントーロは、男と普段から一緒にいたリリアナの母に払えるだけ払わせようとしてリリアナのアパルタメントを訪ねると、母親もいなくなっていた。加えてその夫――リリアナの父親は随分昔にリリアナと母親を捨ててどこかに行ったまま所在不明なので、結局金を返せる者は誰一人として残っていない。そうしてサントーロは母親が見つかるまでのあいだ、仕方なくリリアナを使いっ走りにすることにしたのだった。

 それから1年ほどが経過し、本当なら8歳のリリアナは初等学校に通っているはずなのだが、彼女の母親は幼稚園にも通っていない9月生まれのリリアナの入学のための諸々の準備を忘れていた。なのでリリアナの6歳の時点での入学は諦めるように見送ったのだが、一年後の1992年の入学が近くなると今度は母親が失踪し、リリアナもサントーロに連れてこられてからは家に帰っていない。そういうわけで同年代の「マトモ」な子どもたちとは違って、リリアナの生活は学校や友だちではなく、酒場や大人たちからできていた。

 やっと夜に一人で用を足せるようになった年頃のリリアナに対してサントーロは、最初はトレド通りを目当てに観光にやってくる人々を相手に、花や安っぽい土産物、ガムや飴を売る仕事をさせたり、食堂や酒場で出す食べ物の仕入れに行かせたりしていた。そのうちリリアナが言葉をじゅうぶんに理解して話せるようになると、サントーロはリリアナに観光客相手のスリの技術を教えた。

 ナポリの街の狭くて暗い路地に入るなら用心するべきだというガイドブックの注意も聞かずにやって来る観光客相手なら、他にも何人か4階に住まわせている少年たちとリリアナを組ませて、懐に入った財布や、肩にかけられた鞄を盗むのは簡単だった。あるときは混雑した地下鉄内やバス内で気づかれぬうちに財布やカメラを盗み出したなら、盗品は裏の市場に売り払ってしまうか、足がつかないようにバラしてから処分する。またあるときはリリアナや少年たちを孤児や貧民に扮装させて、カプリ島の船着場やヴァンヴィテッリ駅付近で物乞いをさせることもあった。

 特に外国から来た観光客相手ならば、帰国の日が近ければ警察に被害が報告されない場合が多い。被害の届が出されても、観光客相手のスリの事件数は多すぎて、警察もじゅうぶんな捜査ができない。グループ全体にある種の「伝統」として共有されている、「バレない」・「大ごとにしない」ためのスリの技術は、たいがいのケースを氷山の一角よりも下に留めるものだった。
 
 けれど、リリアナは、「バレない」・「大ごとにしない」というスリの鉄則を犯してしまった。昨日、リリアナは盗む相手を間違えたのだ。

 2日前にリリアナは、今月のおまえの「売り上げ」が足りない、とサントーロに叱られていた。
 金を、あるいは金になるものを得なければ、食事をじゅうぶんに取らせてもらえないし、シャワーも浴びさせてもらえない。着るものだってなかなか洗濯させてもらえない。
 焦ったリリアナは、2日前にはいつもだったらバレそうだ、大ごとになりそうだと判断できるような相手からもスリをした。そして昨日ついに、バレるし大ごとになる人物を相手に、財布を盗んでしまった。

 その男は昨日の夜、ナポリ中央駅前、ガルバルディ広場の大通りのバールで、連れの男2人と飲んでいた。リリアナは朝から駅周辺をうろついて盗む相手を探していたから、“BVLGARI”の文字が刻まれた銀のボディに黒い文字盤の腕時計をしたその男が金を精算するというときに、男がこれまた綺麗に磨かれた革の財布を上着の内側に入れたのを見逃さなかった。男たちは2時間ほど飲んでいたので酔っ払っているだろうと考えたこともあって、彼らが駅に向かおうと立ち上がったときを見計らい小走りで男にわざとぶつかった。そしていつもやっているように、素早い手つきで男の財布を盗んだ。
 ここまではリリアナの企て通りで、あとはすみませんと謝って、小走りで立ち去るだけだった。しかし男たちから3メートルほど離れたときに、後ろから「待ちな」という声が聞こえた。バレてしまったことに気がついて、そこからリリアナはすぐに財布を捨てて全速力で走り出したけれど、成人の男たちから逃げ切れるわけもない。数秒後にリリアナは捕まってしまった。

 ナポリ中央駅は昼なら観光客や地元の住民で賑わっているが、夜は体格のいい、堅気の者とは異なる雰囲気をまとう男たちが多くなる。財布を盗まれかけた男が何発かリリアナの頬を打つその様子を、通行人たちは遠巻きに見ては足早に去っていった。
 何発目かの平手打ちののちにリリアナが誰に飼われてるのかを聞き出した男たちは、リリアナを引っ張ってサントーロの店までやってきた。酒場は開店したばかりだったので扉が閉まっていたのだが、男はその扉を乱暴に足で開けて、サントーロの名を呼び、出てこいと言った。食堂の方が騒がしいので厨房から出てきたグレコは、その男たちとリリアナの様子を見るなりこれはただごとではないと理解し、3階にいるサントーロを呼ぶように店員に言った。

 階段を下りてきたサントーロは、頬を腫らして男に連れられたリリアナを見て、「リリアナ!」と彼女の名前を呼んだ。

「いったい何の用だ。なぜその子を連れている!」サントーロが問うた。
「お。おめぇがサントーロか。あんなァ……おめぇんとこのガキがよぉ、俺の財布を盗もうとしやがったんだわ」

 男はリリアナの頭を掴んで、酒場の床に放り投げた。

「俺ぁよ、たいがいのことは笑って許せる心の広い男なんだがなァ……どうしても、ナメられることだけは、我慢ならねぇんだ……なァ、ガキ! 俺から財布を盗ろうなんて思ったのはよォ! おらッ、てめェッ! 俺がそんなひ弱に見えたか?! あァ?! 俺からッ、盗めると、思ったか!」

 男は、倒れているリリアナを何度か蹴り上げた。その目は血走って、喋るたびに口からは唾が飛んだ。サントーロは、おい、やめろ、と男に言った。男はリリアナの襟元を掴んで立たせた。

「なァ……ジジイ、俺がどこのモンか知って、俺に指図してんのか? なァ……」
「…………」
「俺の組はな、パッショーネっつうんだ。知ってるよな? 知ってるだろうなァ、アンタもここでこんな商売やってんだったら、当然知ってるよなァ……」

 パッショーネという名を耳にした途端、サントーロは顔を険しくして、しばしの沈黙のあと、何が望みだ、と聞いた。男はにやにやと意地の悪い笑みで口元を歪ませて言った。

「そうだなァ……アンタとは初めましてだからな、今日は俺の名前を覚えてくれたらそれでいいんだ。これから長い付き合いになるかもしれねぇんだしよ、なァ?」

 サントーロは黙ったままだったが、それは許可しているようなものだった――この男が、これから酒場の経営に口を出すことになるということを――それだけではない、この地区一帯の運営に関与することになるということを。サントーロの本音はもちろん反対だったけれど、「パッショーネ」という名を出されては、もう何も言えなかった。サントーロは裏の生業に関わっているとはいえ、所詮ナポリのある地域の、何軒かの酒場を束ねているに過ぎない。一方で「パッショーネ」とは、この街の賭場、宿、建築など、いろいろな事業に関わっている大きな組織だ。歯向かえば、この男の関与を許してしまうこと以上の大きな損失が出るに決まっている。なんてことをしてくれたんだと、サントーロはリリアナを睨んで舌打ちをした。

 サントーロのついたため息を是という答えと受け取って、男は満足げに笑った。サントーロに名前と連絡先を書いた紙を渡すと、「じゃあな、また来るわ」と言い残し、仲間2人を引き連れてリリアナの腕を引っ張りながら店から出ていこうとする。サントーロがおい、その子をどうする気だ、と男たちの背中に尋ねた。

「アンタがこいつを仕込んだんだろ。じゃあアンタの罪はこれで精算だ。ただな、こいつの罪はまだ精算されてねェだろ? なァ? こいつが二度と盗む相手を間違えないように、『教育』してやんなきゃあなァ」

 自分の腰ほどくらいしかないリリアナの背に手をかけて、ニタニタと笑って店を出ていく男たちに、サントーロは何も言えなかったし、言わなかった。

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