01 神さまなんていないのだと

 リリアナがこの世に神さまなんていないのだと理解したのは、店の裏で男たちに散々に殴られて動かなくなった身体が、もう呼吸さえままならなくなっていった時間のなかにおいてだった。

 ――痛い、痛い、痛い…………。
 リリアナの声はもうかすれにかすれて出せなくなっていたけれど、つう、と頬に流れる涙の冷たさを感じながら、何度も「痛い」とだけ思った。けれど、どこが痛いかはもうわからない。リリアナよりも倍以上も背の大きいあの男たちは、リリアナの痩せっぽっちの身体を、死んでしまっても構わないという勢いで、殴ったり蹴ったり叩きつけたりしていった。
 頭上には月が昇る時間帯だったけれど、目元は腫れて、地面にうつ伏せになったままの身体も首も満足に動かせないから、夜空に月が本当に昇っているかどうかなんて、わからなかった。

 ――どうして、どうして、どうして………。
 どうして、どうしてこんなに痛い思いをしなければならないのだろう。ぜぇぜぇと、不規則で、弱々しい自分の呼吸の音を聞きながら、何度も「どうして」と思った。けれど、答えなんて明白だった。リリアナはあの男たちのうちのひとりから、財布を盗ったのだ。盗んだ金や盗んだもモノを売った金を生活の中心にし始めて1年にはなっていたから、リリアナは慣れた手つきで、顔色も変えずに、男から財布を盗った。それが露呈したのだ。
 俺のものを盗んだおまえが悪いんだ。せいぜいこれで後悔しな。財布を盗られた男はそう言って、リリアナの首元を乱暴に掴んで頬に平手打ちを何度もやった。男の仲間2人のうち1人は、リリアナが頬を打たれたときに口からこぼれた血が自分の革靴にかかったと腹を立てて、リリアナの腹や胸に蹴りを入れた。それを見ていたもう1人の仲間は「おいおいそのガキ死んじまうぜ」と薄笑いしながら、煙草の火をリリアナの腕に押し付けて消した。
 そうしていても、リリアナがごめんなさいとも、もうしませんとも言わなかったから、男たちはそれを言わせるまで痛めつけてやろうと躍起になった。けれどリリアナからは、殴られたり蹴られたりした衝撃でもらす「うぇッ」「あ゛ッ」という意味をもたない音以外、何も出てこなかった。そうしているうちに、もうその音さえも出さなくなったリリアナに唾を吐きかけて、男たちは去っていった。

 野良犬の吠える声、遠くで鳴る車のクラクションや耳障りなバイクの音、どこかの道を談笑して歩く男や女の笑い声。それらが時折聞こえてくるなかで、真っ直ぐな道が合わさった路地の果てに、散乱したごみと一緒に、リリアナは横たわっていた。その姿はまるで、打ち捨てられたクッションか何かのようだった。
 リリアナは、だんだんと痛みさえも鈍く、まるで自分が感じているものではないかのように思えてきた。胸の骨が折れて息を吸うのも吐くのも辛いから、呼吸は浅く、間隔は広くなってきた。視界はぼやけて、涙さえも出なくなってきた。

 わたしは、ここで死ぬのかな。遠くなってきた意識の中で、リリアナはぼんやりとそう感じた。そしてそう感じると、何故だか可笑しくなってきた。身体中が痛いはずなのに、男たちに嬲られて悔しいはずなのに、呼吸したくてもできなくて苦しいはずなのに。自分が生きるためにしてきたことが結局痛みしか生まなかったことが、リリアナにはひどく滑稽で、悲惨を通り越して笑いたくなるくらい可笑しいものに思えてきたのだ。
 けれど、もう笑う気力も、体力も残っていなかった。リリアナはそのときに思った。
 ――神さまなんて、きっといないのだ。だって神さまが本当にいるなら、人がこんなに痛い思いをするのを、放っておくはずがないもの……。

 そう、神さまなんていなかったんだ。それがわかっただけでリリアナは、ひとつ得をした気がした。大人たちが熱心に口にする祈りの言葉も、信仰を示す行いも、すべて意味のないものなのだ、そんな意味のないことをやっている人間みんな、可笑しいし狂っているのだ。そう理解すると、なぁんだ、滑稽なのはみんな同じだったんだと思って、リリアナは腫れた頬に笑みを浮かべた。
 死ぬのも悪くないかもしれない。だって、こんなにも悲惨で滑稽で、可笑しくて馬鹿みたいな世界を、もう見なくて済むのだから。神さまがいないのであれば地獄も天国もないはずで、死ぬということはただ自分が自分であることがわからなくなるということであるだけなら、いまとそんなに変わらないではないか。むしろ、神さまなんていないのに、神さまのために生きている大人たちの、なんと馬鹿らしいことか。それを知れただけで、それを馬鹿だと笑うことができるだけで、良かったのかもしれない。


 「ざまぁ見ろ」。それが、リリアナの意識に最後に浮かんできた言葉だった。枯れた声しか出せないまま笑ったら頬も胸も痛かったけれど、不思議とこの痛みは悪いものではない気がした。それどころか、痛みとは温かく、気持ちの良いものであるような気さえした。その温かさがだんだんと身体中を満たしていくと、今度は横たわるリリアナの隣に、ぼうっと光るものが現れた。目が霞んでよく見えないけれど、それは天使のように見えた。リリアナは、神さまというものはいなくても天使というものはいて、そして哀れな自分を見ていてくれて、最期に目の前に現れてくれたのだと思った。

 そばに現れた天使が、自分の身体に触れる感覚がした。そうすると、あんなに痛かったはずの腕や胸や腹がじんわりと温かくなって消えていく。それはまるで洗い立ての、ふかふかの寝具に包まれてゆっくりと眠りに落ちていくときのような、安らかで、恍惚とした感覚だった。

 死ぬということは、こんなにも満たされる、解放される、気持ちの良いものだったのだ。リリアナは、最期に驚きともに、この世に関するいちばんの「知識」を得た気がした。
 そうしてリリアナは目を閉じた。

***

 ――鳥の声がうるさい。目蓋を通して光を感じる。眩しい。それに、ごみのにおいがとても臭い。
 眠りから覚める瞬間だけに浮かんでくる、あの感覚がした。いまの状況を、何となしに頭で理解する、あの感覚。けれど、いつも目覚める場所とは違う感じがあった。

 びくっと大きく身体が跳ねて、リリアナは起き上がった。無意識に息を目一杯吸い込むと、目に明るさが馴染んでくるのがわかる。息を何回かに分けて吐き出して、また吸って、それから辺りを見まわすと、やっといま自分がいる場所がわかった。ここは、意識がなくなる前に最後に見ていた風景と同じだった。白色のスプレー缶によってお粗末な絵が書かれていたり、塗装が剥がれて石膏がむき出しになった壁に三方を囲まれたここは、リリアナは考えなくても自分が生まれてからずっと過ごしてきたスパニョーリ地区の、その西の外れの路地だとわかる。リリアナは、もう自分は死ぬのかなと思った場所と同じ場所で、また目覚めたのだ。

 リリアナは、自分の意識が遠のいていったあと、結局死にはしなかったということなのかと思った。あんなに酷い怪我を負ったことがなかったから、痛みに対する死の勘定ができなかっただけだったのか。実際はただ意識がなくなっただけで、死ぬほどのものではなかったのだろうか。そう思ってリリアナは、上体を起こしていた自分の身体を見て、ところどころに触って、目を見開いた。

 痛みがない――傷も、ない。
 あんなに腫れていた目や頬は触っても痛くないし、擦り傷や切り傷もなく形も正常だ。折れていると思った胸の骨にも痛みがなく、呼吸も普通にできる。
 あの夜は、あの痛みは、夢だったのだろうか。リリアナは自分の身体のあちこちを見ながらそう思ったけれど、同時にそれにしては不自然なことにも気がついた。いつも着ているぶかぶかのTシャツとズボンには血が滲んで茶色くなっているし、擦り切れて穴が開きそうになっている箇所も増えている。頬を触れば、すっかり乾燥してぽろぽろと剥がれ落ちてくる血の結晶があり、目をこすれば茶色い血の混ざった目やにが取れた。

 意識が遠のいていったあとにどのくらい眠っていたかはわからないけれど、いま自分は生きて目が覚めたということは確かで、身体の傷があった部分はすっかり治っており、衣服だけが暴行を受けた痕跡を示している。だから少なくとも、あれは夢ではなかったように思えた。
 ならば、自分は傷が完治するまでここで寝ていたというのか?――いいや、それもあり得ない――リリアナは自問自答して首を横に振った。リリアナは、誰かが誰かから暴行を受けて、骨が折れたり、血を流したりしているところをいままで何回か見てきたからわかる。自分があの夜負った怪我は、完治には相当な時間がかかるものだったはずだから、こんなところで寝て治ったはずがない。そしてあの傷は、病院に行かなければしっかりとは治らない、あるいは病院に行ったとしても治らないくらい酷いものだった。そして、もし回復したとしても必ず傷痕が残るはずだった。

 あの夜と、あの痛みと、そしていまとのあいだに、何があったのだろう?
 意識が遠のく前にはあんなに存在を否定した神さまだったけれど、リリアナが最期に見たのはぼうっと光る、天使のような像だった。だからリリアナは、きっと神さまがあまりにも自分を可哀想だと思ったから、天使を遣わして傷を治し、助けてくれたのだと思った。あまりにも惨めで、ついには神を否定し始めるものだから、神は自分の存在を知らしめるために、奇跡を起こしたのかもしれない。リリアナはそう考えると、少し顔を青くした。神に失礼をしてしまったと思った。
 ――あぁ神さま、あんなことを言ってごめんなさい。これがあなたの起こした奇跡なら、わたしはあなたを信じます――リリアナはそう心の中で神に謝った。

 今が何時なのか、いまが昨日の続きと考えていいのかわからない。けれど、そうだとしても、結局やることは変わらない。リリアナは立ち上がって衣服の土埃と血の汚れをできるだけ手で払うと、自分の「住処」へと向かった。

- ナノ -